ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

萩原朔太郎が語る詩人と宿命論

 昭和15年に河出書房より出版された萩原朔太郎の「阿帯」なる随筆集には、「詩人と宿命論」と題された随筆が掲載されています。内容としては、萩原朔太郎がなぜ自分が宿命論者になったのか、自身の詩作に基づいて説明しており、大変興味深い内容となっております。
ここでは上記の随筆を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。萩原朔太郎の研究の一助になれば幸いです。


『僕は元来宿命論者である。というと語弊があるかも知れないが、僕の思想内景には、多分に宿命的な月暈(げつうん/つきがさ)がかかっている。それで今度創元社から出した本にも、「宿命」という標題をつけたのだが、由来僕がこうした思想を抱懐するに至ったのは、必然の謂われ因縁が原因している。そしてその原因は、主として僕の過去の生活環境による如く思われる。僕は比較的富有の家に育ったにもかかわらず、先天的の遺伝気質と環境とに禍いされて、何一つ自分の自由意志を通じ得ず、時毎に自我を厭屈され、陰惨憂鬱の日を送り続けて来た。自己の意志が否定され、自由が抑圧される環境の中で、人が長い間忍従する時、避けがたく宿命論者になることの実証は、東洋的封建政治の圧制した印度、支那、及び幕府時代の日本等において、民衆の殆ど全部が「あきらめ」の哲理を信ずる宿命論者であることによっても明らかである。印度の仏教は、本質的に徹底した宿命論であることから、こうした東洋の国々に伝布され、民衆の生活の中によく呼吸づいた。
 僕の宿命論を誘動したのは、一つはまたショーペンハウエルの哲学だった。あの非独逸的なる独逸の哲学者は、印度のウパニシャットや小乗仏教から詩を学んで、これを西欧紅毛人の言葉に論理づけた。そこで明治文明開化の学問をした僕等にとっては、原文の抹香臭い仏教よりは、却ってそのバタ臭い翻案であるショーペンハウエルの言葉の方が、親しみ多く理解し易いというわけだった。
 しかしながら此処に一つ、さらに僕を宿命論者たらしめた有力な原因は、僕が抒情詩の作家であり、詩人であったということである。詩の作家は、だれも皆経験によって知ってることだが、詩という文学の創作は、元来他力本願のものだということである。即ち詩という文学は、天啓のインスピレーションが来ない以上、絶対に一行も書くことができないのである。もっともこれは詩ばかりでなく、美術や音楽でも同じであり、すべての芸術の創作は、所謂「天来の興」に乗した時のみ、初めて可能とされるものであるが、詩の創作においては就中それが極端であり、殆どすべてが他力のインスピレーションで指導される。それ故に古来西欧の詩人等も、詩は詩人が作るものでなくして、神が詩人に憑いて作るものだと言ってるし、我が日夏秋之介君のごときも、その詩集の序の文して、詩は自動書記(自動的に文字を綴る一種の占策器)の類だと言っている。ボードレールは、その抒情詩や散文詩の中で、しばしばミューズに見捨てられ、霊感に見舞われなくなってしまった、老いた詩人の落莫たる悲哀を嘆いているが、世に霊感を失った詩人ほど救いなく絶望的なものはないであろう。他の小説や随筆等の文学は、たとい所謂天来の興が湧かない時でも、勤めて想を構成し、内に想いを練り、不断に努力勤労することによって、或る程度の仕事を成し遂げることができるのである。然るに詩の創作では、そんな努力や根気よさが、全く何の益にも役に立たないのである。詩はいかに想を構成しても、テーマを内に練り上げても、決して一行半句も書けはしない。詩人が詩を書く時の心的状態は、明白に一種の「神がかり」である。自分の意識の外にあるもの、自分自身で説明のできないもの、言葉の字義する観念ではなく何か不思議に朦朧として、むづ痒く心にむらむらとして湧いてくるものが、霊感によって発作をし、自動書記的にペンを走らせるもの、それが実に詩という奇妙な文学である。』


月暈(げつうん/つきがさ)・・・月の周囲に現れる輪状の光の暈。読み方は二通りありますが、この随筆の場合だと、げつうんと読んだ方がスムーズに読み進められるように感じられます。

 

『それ故に詩人は、本来皆意志の自由を信じない。努力し、発奮し、自ら詩を書こうと意志することによって、決して一篇の詩も書けないことを知ってるからだ。詩という文学の創作は、文字通りの意味において、一切か然らずんば無である。詩人は詩作をしている時の外は、全然無為にごろごろと寝そべっているのである。熱帯の沙漠の砂の上で、白日の長い時間を、いつも獺(ものう)く眠っている獅子のように、詩人は常に怠惰に寝ころんでいる。そして或る時、不意に思いがけなく稲妻のように霊感の閃いた時、丁度彼の獲物を見付けた獅子のように、猛然として立ち上ってくる。そして電光石火の如く、活躍のめざましい瞬間が過ぎた後では、満腹した獣のように、再びまた怠惰に眠ってしまうのである。
 詩人の悲しさは、こうした稲妻のような霊感が、いつ何時、いかにしてやって来るか、全く想像がつかないということの不安さにある。インスピレーションの来ることは、自身を予知するよりも困難なであり、全く偶然の「運」にすぎない。それは努力しても駄目であり、意志しても捉えられない。詩人は常に、空しく天の一方を望みながら、和泉式部の悲しい歌──つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天くだり来む物ならなくに──のように、偶然の行為人が訪れる日を待ってるのである。
 土耳古を旅行した一外国人は、その東洋の都市の到る所にごろごろしている、驚くべき多くの乞食を見てこう書いている。「此等の土耳古人の心理は、到底自分等に理解できない。彼等は徹底的に怠るものであり、全然働こうという意志がない。土耳古政府は、時に彼等に労働を強制するが、彼等は決して肯じない。彼等の哲学はこう言うのである。アラーの神が、一切の運命を決定している。もし我等に幸運のあるものならば、運は寝ころんで居てもやってくるし、もし宿命が不幸に決定されて居たとしたら、起きて働いたところで同じであり、到底幸福になれる筈がないと。そして彼等は、暈如として乞食生活に満足し、天命を楽しんでいるように見える。」と。
 悲しい哉。僕等の詩人の人生観がある点でまた、こうした土耳古の宿命論者と類似している。なぜなら僕等もまた、土耳古の乞食と同じように、常に天の一方を望みながら、あてのない幸運のチャンスが、霊感の翼に乗って天降る日を待ってるからだ。そしてそれらの土耳古人等が、意志の自由を信じないように、僕等の詩人もまた、意志の自由を信じ得ない境遇にある。なぜなら詩作の霊感は、自己の努力によって呼び起こし得ず、自ら意志することによって、一篇の詩をすら作ることができないからだ。小説は自力本願であるかも知れない。だが詩という文学は、徹底的に他力本願のものなのである。それ故にすべての詩人は、原則的に言って、その詩人的風貌の中に、本来宿命論者的なものをイメージしている。いかに見よ。三好達治丸山薫やが、その風貌自身の中にすら、宿命論者的なる月暈を持ってるかを。少なくとも宿命論者的でない詩人の風貌を、僕はかつて見たことがない。ということの深い意味は、人が元来詩人に生まれたということがそもそも宿命的な因縁であり、宿命的な業だということなのだ。(もし宿命的な業でなければ、だれが詩人なんかになるものか。)
 僕は詩集「宿命」の扉に序して、宇宙は意志の表現であり、意志の本体は悩みであるという、ショーペンハウエルの標語を掲げた。そして実に、この「悩み」を文学する人が詩人であり、それがまた実に「詩」という文学の表現に外ならないのだ。』

 

萩原朔太郎が語る谷崎潤一郎と正宗白鳥2

 昭和15年に河出書房より出版された萩原朔太郎の「阿帯」なる随筆集には、「思想人としての谷崎潤一郎正宗白鳥」と題された随筆が掲載されています。内容としては、今回は谷崎潤一郎氏に加え正宗白鳥氏について萩原朔太郎が熱く解説をしております!
ここでは上記の随筆を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。萩原朔太郎谷崎潤一郎正宗白鳥の研究の一助になれば幸いです。

続きを読む

萩原朔太郎が語る谷崎潤一郎と正宗白鳥1

 昭和15年に河出書房より出版された萩原朔太郎の「阿帯」なる随筆集には、「思想人としての谷崎潤一郎正宗白鳥」と題された随筆が掲載されています。内容としては、古来より日本には確たる「思想」は基本的には無い国で、外国文学が輸入にされるに至って初めて「思想」が文壇に広まった事など、日本の文学史における「思想」の有りようについて萩原朔太郎が説明しています。

続きを読む

萩原朔太郎の水戸小遊記

 昭和15年に河出書房より出版された萩原朔太郎の「阿帯」なる随筆集には、「水戸小遊記」と題して、室生犀星と共に水戸の高等学校へ講演旅行に行った際、見聞した当時の水戸の印象が記されています。ここでは「水戸小遊記」を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。萩原朔太郎室生犀星の研究の一助になれば幸いです。

続きを読む

萩原朔太郎の人物印象記ー三好達治&堀辰雄

 昭和15年に河出書房より出版された萩原朔太郎の「阿帯」なる随筆集には、「四季同人印象記」と題して、三好達治堀辰雄丸山薫、辻野久憲、竹村俊郎の印象が記されています。ここでは、三好達治及び堀辰雄、この二人に対する印象記を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。萩原朔太郎三好達治堀辰雄の研究の一助になれば幸いです。

続きを読む

室生犀星が語る芥川龍之介2

 今回は、芥川龍之介との最後の別れを振り返った内容となっています。また、この随筆集に収められている他の芥川龍之介についての随想を取り上げ、紹介しております。内容としては、室生犀星萩原朔太郎芥川龍之介、この3人の食事何処や交流がどんなものであったかが伺えます。


 以下、『』内の文章は三笠書房より昭和10年に出版された「犀星随筆集」の「憶(おもう)芥川龍之介君」から現代語訳した上で引用しております。芥川龍之介室生犀星の研究の一助になれば幸いです。


『何時も芥川君は何かにぶつかっているようであった。相撲のぶつかりのように眼に見えぬ敵に、また眼に見える敵に絶えずぶつかっているようであった。仕事最中に訪ねると芥川君の表情はまだかきかけの小説魔に取り憑かれたまま、平常の顔色に戻らない揉まれた顔をしている時があった。お湯にはいらないせいもあったが、蒼白い細長い痩せた指の爪にくろぐろと垢がたまり、怪鳥の爪のようであった。鳥の眼はみんな美しい眼をしているが、芥川君のなかで集中眼が一番きれいであった。
 そんな忙しい時でも顔さえ見ればちょっと上がれといい、また宴会の帰りなどにも、君ちょっと寄ってくれ、見せたいものがあるからと言って離さなかった。かれは人なつこいよい育ちをその最後まで持っていた。
 亡くなる一月ばかり前の暑い午後にたずねて行くと、珍しく椅子に座っていたが、先客がかえった後で何か烈しい苛ついた疲労で、顔色はどす暗く曇っていた。その年の六月号かの「新潮」に私は芥川龍之介論を書いていたので、君あれを読んでくれたかねと言うと、慌てて読んだよ、どうも有り難うと言うかと思うと、たしか「湖南の扇」が出来ていたのでせかせかとそれに署名してくれた。その時ほど、聞こえるか聞こえないか位の独り言のような低い声で、ああいうものを書かなくてもよいのにと言った。私は書かなくとも好いというのは気に入らなかったのかというと、いや別に、いや何でもないよと、それきり黙り込んでしまった。私はそれから間もなく信州に行き、その日が彼の人に永いお別れの日になったのである。』


 芥川龍之介の鬼気迫る風貌が悲しく胸を打つ最期の別れであったことが窺える内容で、読んでいて寂しい気持ちになりますね。
 ところで、室生犀星はこの随想以外も芥川龍之介について言及している文章を同じ本に収載しています。
 内容としては萩原朔太郎芥川龍之介、それに室生犀星の三人で伊豆栄で晩ご飯を食べるなど、温かい交流を読むことができます。また、芥川龍之介芭蕉好きエピソードが披露されており、横光利一松尾芭蕉の後裔だと知ったら、交遊が生まれたかもしれないなと思わせる内容です。


 以下、『』内の文章は三笠書房より昭和10年に出版された「犀星随筆集」の「文学雑談」から芥川龍之介について書かれた「三、安らかならざるもの」を現代語訳した上で引用しております。芥川龍之介室生犀星の研究の一助になれば幸いです。


『何時か僕は芥川君が見えた時に新しい果物を食べてから寝ると大へんに温まると話したが、芥川君は何だか感心したような顔をして聞いていた。数日後、芥川君の書斎で僕はどうも柿を食べて寝ると冷えてこまるというと、芥川君は憤然としてこの間君は果物を食べて寝ると温まるといったじゃないかと詰問するように言った。いや、あれは別の果物なんだ、冷えるというのは柿だよと言った。そうか柿は冷えるなと彼はたちまち機嫌を直した。胃の悪い人に下手に果物の話しをすると直ぐ斬り込んでくるようである。
 晩年に私と萩原朔太郎君と芥川君とで、本郷伊豆栄で晩飯をたべての帰途、神明町の小さい喫茶店にお茶を喫みに這入って行った。端なく芥川君と萩原君との間に議論が起り、議論の嫌いな僕は二人の様子を見ながら煙草をふかしていた。萩原君は蕪村が芭蕉より面白いとか偉いとか言い、芥川君は芭蕉の方が偉いと言った。萩原君は芭蕉の発句が観念的であるというと、芥川君はそんなことはない、この句はどうだ、ではこの句はどうだ、この句にも観念的なところがあるかと立ちどころに六七句くらいの芭蕉の句を、覆いかぶせるように続けさまに読んで、猛々しく突っかかるって行った。その勢いはあたかも芭蕉が親兄弟か何かででもあるような語調であった。逝去二ヶ月ほど前だったので勢いが勢い立つと血相を変えるようなところがあったのである。それほど芭蕉の発句は当時に芥川君に好かれていた。好かれていたというよりなくてはならぬものだったらしいのである。
 僕と芥川君との間では僕はいつも尊敬みたいなものを感じていて、何時も七分くらい言いたいことを言い、三分は言わずじまいになっていた。芥川君を訪ねて帰る途すがら、何か元気にどんどん歩くようになっていたが、それはあんな偉い奴を友人に持っている喜びがあったらしいからであった。だから発句でも小説でもいいからあの男に負けてはならん気合いを感じていたのである。
 僕は僕の無学ななかで鯱張っていたが、芥川君は有学のなかで背丈高くつっ立っていた。この頃僕はときどき気に入った発句や小説が書けると、芥川君にいま一遍読んで貰いたい気持ちで一杯であった。それは彼はいつか室生犀星は絶えず少しずつ進歩していると言ってくれたから、それをそのように証拠立てたいためでもあった。実際、年をとっても文学上のことでは殊に褒められたりした記憶では、まるで中学生のように僕は子供らしい考えを持っているからである。
 何年前かの年の暮、僕は映画を見に行こうと田端の坂を下りかけると、坂の下から芥川君に出会したのである。
 「君はもう新年の小説を書いてしまったのか」
 「うん、もう済んだ。」
 「羨ましいな僕はこれからだ。」
 別れた後、僕は映画館の薄暗がりのなかで、一体映画なぞ見ていいのであろうか。芥川君はまだ仕事をしている、──そんなふうに考えて心安らかならざるものがあった。あの男の苦作が僕の仕事を秤ってきそうで安らかならざるものがあったのである。』

 

 次は、芥川龍之介の遺稿や彼の創作の姿勢について室生犀星が熱く語っているのが印象的な内容です。
 以下、『』内の文章は三笠書房より昭和10年に出版された「犀星随筆集」の「文学の神様」から現代語訳した上で引用しております。芥川龍之介室生犀星の研究の一助になれば幸いです。

 

『随筆とか詩とか小説とか、または発句とか評論とか、凡そ文章と名のつくもので、これを以来されて書かざることなく、また、これを売らざることは稀である。自分で好愛して暫く手許に置いて眺めるということすら、出来ないのである。人びとは少々爛れたような顔をしていうのだ。「よくお書きになりますね。そんなに書くことがあるんですか。」と。それがまた、「そんなにお書きになって疲れるでしょうね。」「少々おやすみになったらどうでしょう。」
 
 本来からいえば書くことが原稿紙にむかうまでまるで無いのだ。そして本当をいえば書いて草臥れていることも実際である。それだからといって書かずにいられるものであなく、又、ぼんやりとしてはいられないのだ。しかし書き出すと書ききれる人生ではない。書くことがなくなってしまえば生きていられないわけだ。毎日生きてゆくことは書くことのある証拠になるのである。よく書くことはよく生きることとそんなに隔たりのある訳のものではない。小説、随筆、評論、それらを片ッ端から書いて行き、頭のそうじをして威張りするが、また人生のごたごたで頭の考える機械がよごれてしまう。そして又そうじをするために書く。
 たまに人が来て何か手許に短いものでもいいのだが、書いて取って置きの原稿がないでしょうかといわれるが、書いてある原稿は一枚もないのである。インキの乾かない間にそれはどこかへ持って行かれるのである。作者としては仮に何枚でもいいから取って置きの原稿を持っていたい。何時ぽっくりと参ってしまってもいいから、せめて遺構の一篇くらいは持っていたいのであるが、そんなことは夢にも見られないのである。芥川龍之介君なぞは遺稿のなかに小説もあったし、随筆、感想もあり、それから二三篇の詩さえもあった。あれほど遺稿を豊富にのこしていた人は輓近(ばんきん)の作家では一人もないのであろう。生前新聞雑誌に原稿を望まれていた人が、あれほどの遺稿をのこすということは並大ていの仕事ではない。凝りやの芥川君は少し気に入らないと原稿をそのまま取って置いて、また新しく書き出したために遺稿が多くなったのであろう。実際、芥川君の机の上には書き損じや半分書きかけた原稿が、いつも高さ二寸ぐらいの厚さでのせていた。私なぞは書き損じは裂いてすててしまうが、芥川君はそれをしないで大切にためてい。それから又、自分で楽しみながら書いた詩なぞもあったらしい。そういう点で芥川君が雲上の作家であるとすれば、私なぞは市井の作家たらざるをえないのである。全く日記のようなものすら私にはのこされていない。
 しかも芥川君の意向はそれぞれ手の込んだ立派な作品であって、遣り放しの原稿なぞ一つもなかった「歯車」一篇を見てもいかに書くために生きていたかということがはげしい哀慕の情をそそって歇(や)まない。ぴんからきりまで生き徹して行った人としてあれらの遺稿は命と一しょに綴られたものと見て間違いはない。或る意味で短い生涯をあんなに手強く生きた作家はまれであろう。
 私はなるべく小説ばかり書いていて随筆は書きたくない。随筆のなかに小出しに勢力を吸い取られるからである。小説の純粋性からいっても他の雑文で揉まれることがいけないのだ。ドストエフスキーの豊富な驚くばかりの挿話なぞも、他のこまごまとした雑文なぞの仕事をしないでいて、小説にその全部の人生観なり挿話なり新聞記事風な小事件なりを織り込んでいたために、あれらの長篇を書きつづけられたのである。長篇小説というものは半年間も書き続けていたらその半年間の社会情勢の変遷なぞも、そっくり表現することが出来るのだ。それから作家生活の半年間のあらゆる経験的な細微な動きなぞも、その日その日の事件に旨く当てはめられるのである。ドストエフスキーの殆どその作品の主流をなすところの事件と事件、人間と人間の組合せなぞはそれだけの仕事に没頭して、日記をつけるがように継続的に作に親しんでいた為、あれだけの大作品を構成できたのである。彼のお師匠さんであるところのバルザックもまた人生日記を長篇のなかにこころみた作家であった。ドストエフスキーがどれだけ新聞の社会記事に重きをおいて見ていたか、そういう社会記事の種々の出来事が作家としての彼を動かしていたかが、彼の作品によって折々証明されている、真理探究ということも清新さを持つ作風も、彼の鈍重な聡明さによるものであった。
 私のような一介市井の作家は、何処までも陋居(ろうきょ)にあって文事に従うべきであって、遺稿なぞは一篇だってのこさなくともいいのである。却ってつまらない不本意な書きよごしの感想随筆の類を以て、堂々たる遺稿であるように誤解されないともかぎらないから、むしろ潔く原稿をのこすようなことをしないで、片ッ端から書いて印刷にしてしまった方がいいかも知れない。然しながら私といえども暇があって燃ゆるがごとき宿望をかなえるような作品を書きのこすことが出来れば、それほど幸福なことはないのだ。それによって生涯の作品的汚名を雪(すす)ぐようなことになれば、誰かまた原稿をのこすことに遠慮するものがいよう。しかし忙中閑なく文事日に趁(お)うて責をふさぐことのない雑文渡世では、そんな大作を遺稿としてのこすことなぞ夢にも思えない程である。それより生きている間に戦えるだけ戦うた小説を人生の真ん中に叩きつける方が余程ふさわしいことかも知れない。小説も一つの戦うべき我々の武器であるとすれば、刃こぼれ刀身半ばに砕けようと、それまで戦い続けて後、止むを得ずんば僵(たお)れてもいいではないか。
 芥川君はたしかに芸術的に身動きが出来なかったのかも知れない。身動きができても甚だ窮屈な文章の行詰まりがああさせたのかも知れぬが、しかしその倒れようは全く弓矢尽きた美しい戦死をした姿を彷彿するのだ。誰があれほど潔い先生を選び得るものぞ。私なぞは全く七転八倒の作家苦のなかに、揉まれ追われてへどへどになって倒れるより他に倒れ様がないかも知れぬ。それは或いは老至って愈々(いよいよ)飢えるがごとき醜態を演じるのかも知れないけれど、平凡な仮死的な生活をするよりも行き倒れのごとく、文事の埃にまみれて僵(たお)れた方がどれだけ壮烈であるかも知れない。』


輓近(ばんきん)・・・最近、近来、ちかごろ、の意味。
陋居(ろうきょ)・・・狭くむさくるしい住居。

 

室生犀星が語る芥川龍之介1

 室生犀星は、芥川龍之介の死後、彼についていくつか随筆を残しています。ここでは、その内の一つである「憶(おもう)芥川龍之介君」を紹介しています。
以下、『』内の文章は三笠書房より昭和10年に出版された「犀星随筆集」の「憶(おもう)芥川龍之介君」から現代語訳した上で引用しております。芥川龍之介室生犀星の研究の一助になれば幸いです。

続きを読む