ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳田秋声の折鞄(おりかばん)3

 小説を入力してみようチャレンジ、引き続き昭和3年改造社から出版された現代日本文学全集 第18篇 徳田秋声集から「折鞄」に挑戦中です!ここでは左記の小説を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。徳田秋声の研究の一助になれば幸いです。

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徳田秋声の折鞄(おりかばん)2

 小説を入力してみようチャレンジ、前回に引き続き昭和3年改造社から出版された現代日本文学全集 第18篇 徳田秋声集から「折鞄」に挑戦中です!ここでは左記の小説を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。徳田秋声の研究の一助になれば幸いです。

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徳田秋声の折鞄(おりかばん)1

 小説を入力してみようチャレンジ、今回から昭和3年改造社から出版された現代日本文学全集 第18篇 徳田秋声集から「折鞄」に挑戦を始めました!ここでは左記の小説を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。徳田秋声の研究の一助になれば幸いです。

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谷崎潤一郎の詩人のわかれ2

 以下、『』内の文章は大正8年春陽堂から出版された谷崎潤一郎著「呪われた戯曲」より「詩人のわかれ(此の一篇を北原白秋に贈る)」を現代語訳した上、引用しております。

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谷崎潤一郎の詩人のわかれ1

 以前から、一度それなりに長い小説を入力したいと考えていました。正宗白鳥の「塵埃」より長い作品で、あんまり長すぎても大変であるため、今回は谷崎潤一郎の「詩人のわかれ(此の一篇を北原白秋に贈る)」に挑戦してみました。楽しんで読んで頂ければ幸いです。
 以下、『』内の文章は大正8年春陽堂から出版された谷崎潤一郎著「呪われた戯曲」より「詩人のわかれ(此の一篇を北原白秋に贈る)」を現代語訳した上、引用しております。

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萩原朔太郎が語る詩人と宿命論

 昭和15年に河出書房より出版された萩原朔太郎の「阿帯」なる随筆集には、「詩人と宿命論」と題された随筆が掲載されています。内容としては、萩原朔太郎がなぜ自分が宿命論者になったのか、自身の詩作に基づいて説明しており、大変興味深い内容となっております。
ここでは上記の随筆を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。萩原朔太郎の研究の一助になれば幸いです。


『僕は元来宿命論者である。というと語弊があるかも知れないが、僕の思想内景には、多分に宿命的な月暈(げつうん/つきがさ)がかかっている。それで今度創元社から出した本にも、「宿命」という標題をつけたのだが、由来僕がこうした思想を抱懐するに至ったのは、必然の謂われ因縁が原因している。そしてその原因は、主として僕の過去の生活環境による如く思われる。僕は比較的富有の家に育ったにもかかわらず、先天的の遺伝気質と環境とに禍いされて、何一つ自分の自由意志を通じ得ず、時毎に自我を厭屈され、陰惨憂鬱の日を送り続けて来た。自己の意志が否定され、自由が抑圧される環境の中で、人が長い間忍従する時、避けがたく宿命論者になることの実証は、東洋的封建政治の圧制した印度、支那、及び幕府時代の日本等において、民衆の殆ど全部が「あきらめ」の哲理を信ずる宿命論者であることによっても明らかである。印度の仏教は、本質的に徹底した宿命論であることから、こうした東洋の国々に伝布され、民衆の生活の中によく呼吸づいた。
 僕の宿命論を誘動したのは、一つはまたショーペンハウエルの哲学だった。あの非独逸的なる独逸の哲学者は、印度のウパニシャットや小乗仏教から詩を学んで、これを西欧紅毛人の言葉に論理づけた。そこで明治文明開化の学問をした僕等にとっては、原文の抹香臭い仏教よりは、却ってそのバタ臭い翻案であるショーペンハウエルの言葉の方が、親しみ多く理解し易いというわけだった。
 しかしながら此処に一つ、さらに僕を宿命論者たらしめた有力な原因は、僕が抒情詩の作家であり、詩人であったということである。詩の作家は、だれも皆経験によって知ってることだが、詩という文学の創作は、元来他力本願のものだということである。即ち詩という文学は、天啓のインスピレーションが来ない以上、絶対に一行も書くことができないのである。もっともこれは詩ばかりでなく、美術や音楽でも同じであり、すべての芸術の創作は、所謂「天来の興」に乗した時のみ、初めて可能とされるものであるが、詩の創作においては就中それが極端であり、殆どすべてが他力のインスピレーションで指導される。それ故に古来西欧の詩人等も、詩は詩人が作るものでなくして、神が詩人に憑いて作るものだと言ってるし、我が日夏秋之介君のごときも、その詩集の序の文して、詩は自動書記(自動的に文字を綴る一種の占策器)の類だと言っている。ボードレールは、その抒情詩や散文詩の中で、しばしばミューズに見捨てられ、霊感に見舞われなくなってしまった、老いた詩人の落莫たる悲哀を嘆いているが、世に霊感を失った詩人ほど救いなく絶望的なものはないであろう。他の小説や随筆等の文学は、たとい所謂天来の興が湧かない時でも、勤めて想を構成し、内に想いを練り、不断に努力勤労することによって、或る程度の仕事を成し遂げることができるのである。然るに詩の創作では、そんな努力や根気よさが、全く何の益にも役に立たないのである。詩はいかに想を構成しても、テーマを内に練り上げても、決して一行半句も書けはしない。詩人が詩を書く時の心的状態は、明白に一種の「神がかり」である。自分の意識の外にあるもの、自分自身で説明のできないもの、言葉の字義する観念ではなく何か不思議に朦朧として、むづ痒く心にむらむらとして湧いてくるものが、霊感によって発作をし、自動書記的にペンを走らせるもの、それが実に詩という奇妙な文学である。』


月暈(げつうん/つきがさ)・・・月の周囲に現れる輪状の光の暈。読み方は二通りありますが、この随筆の場合だと、げつうんと読んだ方がスムーズに読み進められるように感じられます。

 

『それ故に詩人は、本来皆意志の自由を信じない。努力し、発奮し、自ら詩を書こうと意志することによって、決して一篇の詩も書けないことを知ってるからだ。詩という文学の創作は、文字通りの意味において、一切か然らずんば無である。詩人は詩作をしている時の外は、全然無為にごろごろと寝そべっているのである。熱帯の沙漠の砂の上で、白日の長い時間を、いつも獺(ものう)く眠っている獅子のように、詩人は常に怠惰に寝ころんでいる。そして或る時、不意に思いがけなく稲妻のように霊感の閃いた時、丁度彼の獲物を見付けた獅子のように、猛然として立ち上ってくる。そして電光石火の如く、活躍のめざましい瞬間が過ぎた後では、満腹した獣のように、再びまた怠惰に眠ってしまうのである。
 詩人の悲しさは、こうした稲妻のような霊感が、いつ何時、いかにしてやって来るか、全く想像がつかないということの不安さにある。インスピレーションの来ることは、自身を予知するよりも困難なであり、全く偶然の「運」にすぎない。それは努力しても駄目であり、意志しても捉えられない。詩人は常に、空しく天の一方を望みながら、和泉式部の悲しい歌──つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天くだり来む物ならなくに──のように、偶然の行為人が訪れる日を待ってるのである。
 土耳古を旅行した一外国人は、その東洋の都市の到る所にごろごろしている、驚くべき多くの乞食を見てこう書いている。「此等の土耳古人の心理は、到底自分等に理解できない。彼等は徹底的に怠るものであり、全然働こうという意志がない。土耳古政府は、時に彼等に労働を強制するが、彼等は決して肯じない。彼等の哲学はこう言うのである。アラーの神が、一切の運命を決定している。もし我等に幸運のあるものならば、運は寝ころんで居てもやってくるし、もし宿命が不幸に決定されて居たとしたら、起きて働いたところで同じであり、到底幸福になれる筈がないと。そして彼等は、暈如として乞食生活に満足し、天命を楽しんでいるように見える。」と。
 悲しい哉。僕等の詩人の人生観がある点でまた、こうした土耳古の宿命論者と類似している。なぜなら僕等もまた、土耳古の乞食と同じように、常に天の一方を望みながら、あてのない幸運のチャンスが、霊感の翼に乗って天降る日を待ってるからだ。そしてそれらの土耳古人等が、意志の自由を信じないように、僕等の詩人もまた、意志の自由を信じ得ない境遇にある。なぜなら詩作の霊感は、自己の努力によって呼び起こし得ず、自ら意志することによって、一篇の詩をすら作ることができないからだ。小説は自力本願であるかも知れない。だが詩という文学は、徹底的に他力本願のものなのである。それ故にすべての詩人は、原則的に言って、その詩人的風貌の中に、本来宿命論者的なものをイメージしている。いかに見よ。三好達治丸山薫やが、その風貌自身の中にすら、宿命論者的なる月暈を持ってるかを。少なくとも宿命論者的でない詩人の風貌を、僕はかつて見たことがない。ということの深い意味は、人が元来詩人に生まれたということがそもそも宿命的な因縁であり、宿命的な業だということなのだ。(もし宿命的な業でなければ、だれが詩人なんかになるものか。)
 僕は詩集「宿命」の扉に序して、宇宙は意志の表現であり、意志の本体は悩みであるという、ショーペンハウエルの標語を掲げた。そして実に、この「悩み」を文学する人が詩人であり、それがまた実に「詩」という文学の表現に外ならないのだ。』

 

萩原朔太郎が語る谷崎潤一郎と正宗白鳥2

 昭和15年に河出書房より出版された萩原朔太郎の「阿帯」なる随筆集には、「思想人としての谷崎潤一郎正宗白鳥」と題された随筆が掲載されています。内容としては、今回は谷崎潤一郎氏に加え正宗白鳥氏について萩原朔太郎が熱く解説をしております!
ここでは上記の随筆を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。萩原朔太郎谷崎潤一郎正宗白鳥の研究の一助になれば幸いです。

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