ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

泉鏡花作品解説集1

清水書院から1966年に出版された「泉 鏡花 人と作品」に掲載されている解説は、主立った作品が書かれた時代背景や、泉鏡花自身が作品を書くにあたっての人生の背景を仔細にまとめてある好著です。以下、『』内の文章は左記の本からの引用となります。泉鏡花の研究の一助になれば幸いです。

 


 夜行巡査


『いまこころみに、小説の世界に限って、明治文学年表をひいてみると、二十六年には、幸田露伴の『風流微塵蔵』、樋口一葉の『雪の日』、尾崎紅葉の『心の闇』…等が出現した程度で、今日のわれわれが、明治文学として読むに価する作品はきわめて乏しい。また翌二十七年においても、せいぜい一葉が『大つごもり』を、高山樗(ちょ)牛が『滝口入道』を発表した程度にとどまっている。むしろこの二十年代は、森鴎外坪内逍遙の『没理想論』論争、北村透谷が、世の実利主義に挑戦しての「人生に相渉るとは何の謂ぞ」「余は批評を好むものなり、争ふことを好むものなり」(北村透谷「文学界」第五号)などによって代表されるように評論の時代であった。
 ところが二十八年になると、小説界がにわかに活気を呈してくる。一月には「文芸倶楽部」誌上に『たけくらべ』が出たのを皮切りに、同五月に『ゆく雲』(「太陽」)には、『にごりえ』(「文芸倶楽部」)、十二月には『十三夜』(「文芸倶楽部・臨時増刊閨秀号」)等を発表。また硯友社の川上眉山は二月に『書記官』(「太陽」)、八月には『うらおもて』(「国民之友」)を、広津柳浪は『変目伝』(「読売新聞」)『黒とかげ』(「文芸倶楽部」)を、それぞれ三月と五月に、江見水蔭は十月に『女房殺し』(「文芸倶楽部」)を…というように続々として傑作が発表されていった。このような文壇の中にあって、鏡花もまた、四月に『夜行巡査』を、六月には『外科室』を発表したのであった。
 鏡花はその前年の秋まで金沢にあって、精神的にも物質的にも行きづまって、一時は自殺すら思い立ったっほどであるとは、生涯編においてすでに述べた。しかし、祖母きての献身的なはげましによって、捨身不退転の再度の上京の成果が、この『夜行巡査』のような問題作を生むことになった。
 今にして思えば、あの絶体絶命に追いこまれた父の死後の金沢時代の苦闘においてこそ、人間が生きることのきびしさを実感として受けとめたであろうし、人情の機微もやさしさも、併せて体得したものにちがいない。
 
 「お民さん許(とこ)で夜更しして、ぢや、おやすみつてお宅を出る。遅い時は寝衣(ねまき)のなりで、寒いのも厭はないで、貴女が自分で送つて下さる。
  門を出ると、ある曲角あたりまで、貴女、その寝衣のままで、暗(やみ)の中まで見送つて呉れたでせう。小児(こども)が奥で泣いてる時でも、雨が降って居る時でも、づツと背中まで外へ出して。(中略。)
  其の帰り途に、濠端(ほりばた)を通るんです。枢(くるる)は下りて、貴女の寝た事は知りながら、今にも濠へ、飛込まうとして、此の片足が崖をはづれる、背後(うしろ)を確乎(しっかり)と引留めて、何をするの、謹さん、と貴女が屹(きっ)といふと確に思つた。
  ですから、死なうと思ひ、助かりたいと考へながら、そんな、厭な、恐ろしい濠端を通つたのも、枢をおろして寝なすつた。貴女が必ず助けて呉れると、それを力にしたんです。お庇(かげ)で活きて居たんですもの、恩人でなくツてさ、貴女は命の親なんですよ。」
 とあるのは、鏡花にしてはめずらしい自伝的な作品「女客」の中の一節であり、お民とは、いとこのてる子のことにちがいない。この一節によって、当時の鏡花のせっぱつまった心情のいくらかが推察できえよう。
 ところで、ようやく体裁を整えはじめた資本主義は、この二十年前後から加速度的に成長し、それに伴う貧富の差は、二十七・八年の日清戦争を経ていよいよ増大して、識者の間にも社会問題として取り上げられるに至ってきた。鏡花は二十二歳、それでなくても社会の矛盾や、既成の社会に対する懐疑と反抗の年ごろである。人一倍多感な上に、極貧の生活に追いつめられていったかれが、自己を取り巻くおとなの世界の不合理や醜さに対して、はげしいいきどおりを抱くようになったのは当然すぎることであった。こういった社会現実、生活環境の中において、この『夜行巡査』が生まれていった。
 ~中略~
 明治二十六年五月、「京都日々新聞」に『冠弥左衛門』を連載以来、『活人形』『金時計』『両頭蛇』『予備兵』『義血侠血』『貧民倶楽部』『夜明けまで』…等、鏡花は極貧の生活に耐えてつぎつぎと発表していった。処女作『冠弥左衛門』が、たいへんな不評であったことはすでに述べた。しかし、それ以外の作品においても、鏡花作品と銘うって、今日のわれわれの批判に耐えうるものは乏しい。鏡花の事実上の処女作と称すべきものは、この『夜行巡査』の出現にまたなければならなかった。
 とかく、才子佳人を登場させ、安易でつじつまのあったきれいごとの恋愛事件を、無批判で皮相的な写実に終始するのが、硯友社を含めての、当時おおかたの傾向であった。その風潮の中から、鏡花が、この『夜行巡査』をものして、人生の現実面に深刻に触れようとしたとは、当時としては注目するべきことであった。鏡花は、この作によって、はじめて、たんに硯友社の一員という地位から、独立した作家としての第一歩を踏み出したのである。作家が、読者をして楽しませることは、もちろん大事なことである。しかし、それ以上に意義あることは、人生の中から隠されている真実をえぐり出してきて、これを読者の前に提示することであった。これこそ、作家の精神とも呼ぶべきものである。そして、この点の有無こそ、江戸後期から明治初期の戯作者たちと、近代作家とを分ける本質的な差でもある。しかも、この年の前年、明治二十七年には、日本が近代国家として誕生後の最初の知れんともいうべき日清戦争が始まっている。そのためナショナリズム的傾向が目立ちはじめ、時世におもねった安価な軍事小説、戦争詩の氾濫、そしてこの一方、この風潮に抗して、文壇の若い世代からは、戦争の暗黒面や、社会生活の矛盾を指摘する叫びも高まりつつある時代であった。したがって鏡花は、当時の若い世代の代表選手として、喝采を以て迎えられたのである。
 作家としての足ががかりを築いた鏡花は、つづいて同年の六月、これも同じ「文芸倶楽部」に『外科室』を発表したが、この二作に対して、また同じ硯友社の川上眉山の『うらおもて』『書記官』等の作品に対して、田岡嶺雲が観念小説の称号を与えた。その作風は、一口にいえば、社会や家庭生活の暗黒面にスポットをあてて、読者に問題を提出することにあるが、この『夜行巡査』においては、お香の伯父を救うために、八田巡査が水中にとびこむ終末に、その観念(テーマ)がはっきりと表わされている。
 「あはれ八田は警官として、社会より荷(にな)へる負債を償却せむがため、あくまで其死せむことを、寧ろ殺さむことを欲しつつありし悪魔を救はむとて、氷点の冷、水凍る夜半に泳を知らざる身の、生命(いのち)とともに愛を棄てぬ。後日社会は一般に八田巡査を仁なりと称せり。ああ果して仁なりや、然も一人(いちにん)の渠(かれ)が残忍苛酷にして、如(じょ)すべき老車夫を懲罰し、憐むべき母と子を厳責したりし尽瘁(じんすい)を、讃歎するもの無きはいかん。」
 
 ここに作者の批判的精神を見ることが出来る。つまり作者は、社会一般は、職務によった八田巡査入水の行為を「仁」として賞讃したが、それならば、老車夫や、乞食の母子を追い払ったのも、同じように職務としてやったことだから仁というべきではないか、というのである。だが、冷静に考えてみると、現実の問題として、いくら職務のためとはいえ、みすみず溺死するとわかっていながら水中に入るような人間が存在するだろうか。もし存在するとしたら、それはもはや職務観の問題ではない。人の死を黙視することができない、なんとかしなければ、という強い人間愛に根ざさなければならないはずである。それほど深い愛情の持主が、老車夫や、乞食の親子を、なんのためらいもなく、簡単に職務のためと割り切って追いたてるようなことはできないはずである。こんな点に関しては当時の批評家も気づいていたことであって、……物語の進行や、登場人物の行為には多くの不自然さが見られる(「国民之友」)……というような批判も、すでに受けていたようである。だが、そのような欠陥には気づきながらも、
 「着想奇抜にして深刻、少しく自然を書くとも雖も、吾文壇に思想の横溢し来らむとするを喜ぶべし。」(「帝国文学」)
 と、いうのが、当時の文壇の集約的な評のようであった。作者自身の回想では、
 「世評轟々として喧しくく、褒貶相半ばす。否寧ろ罵評の包囲なりき。」
 と記してはいるが、読書界からは大いに歓迎されたと見てよいと思う。それは、この『夜行巡査』の発表以後、この観念小説の傾向を、いっそう強めた作品群、文学史上、悲惨小説と呼びならわされている一連の作品、具体的には、広津柳浪の『黒蜥蜴』・『変目伝』『今戸心中』・『河内屋』、また、社会小説の名によって知られている、内田魯庵の『くれの二十八日』『落紅』等が、ぞくぞくと出現してきたことによってもわかるのである。
 この八田巡査のモデルとしては『レ・ミゼラブル』作中の警視ジャベルであろうと、当時取り沙汰されたらしい。たしかに、われわれは八田巡査という人間については、極端な誇張を感じるのではあるが、しかし現実には、これに類する役人タイプや、ことの本質にまでさかのぼることの出来ない形式主義は、今日のわれわれの周囲にも意外と多く見出されるのではあるまいか。』

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