ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

泉鏡花作品解説集3

清水書院から1966年に出版された「泉 鏡花 人と作品」に掲載されている解説は、主立った作品が書かれた時代背景や、泉鏡花自身が作品を書くにあたっての人生の背景を仔細にまとめてある好著です。以下、『』内の文章は左記の本からの引用となります。泉鏡花の研究の一助になれば幸いです。

 


外科室解説の続きです。


『~中略~
 『夜行巡査』においては、八田巡査の振舞いを「ああ、果して仁なるや」と読者に問うた鏡花は、この作品の結末においても、
 「語を寄す、天下の宗教家、渠等二人は罪悪ありて、天に幾ことを得ざるべきか。」
 との、問題提起を行なっている。果して二人の恋は神の目から見れば、やはり不倫に見えるとでもいうのだろうか?と反語的に問いかけているのである。当時の社会やまた青年子女を縛り上げていた封建思想に向かっての抗議であることはまちがいない。
 ところで、『夜行巡査』においては、いくらか気負った文体が気になったのであるが、この作品においては、世俗の「家」の在り方に対する作者の若々しい抗議の息づかい、また至純な恋愛は、世の常の夫婦関係より美しいと叫ぶ作者の情熱が、散文詩と呼んでもよいような、高い格調ある文体となって読者に呼びかけてくるのである。おそらく、「文学界」などによって、自我の解放に目ざめ、恋愛の自由を夢みる当代の若い青年読者の受けた感動は強かったであろう。もともと、華麗な文章家の鏡花は、どちらかといえば、筆勢が余って饒舌体に流れがちなのだが、この作品においてはそれが気にならないのだ。外科室という限定された狭い空間……生死を分かつ大手術が行われる、というきわめて限定された時間……この空間と時間の中において、密度の濃いドラマチックな展開をこころみる作者は、その内容にふさわしい簡潔な文体によって叙述、読者をして、一気に読み通させるだけの強いリズムをこめることに成功しているからである。
 手術台の夫人は、
 「其かよはげに、且つ気高く、清く、貴く美はしき病者の俤(おもかげ)……」
 であるのに対して、一方、これにメスを加えるはずの高峰医学士はと見れば、
 「渠は露ほどの感情をも動かし居らざるものの如く、虚心に平然たる状露(さまあらわ)れて、椅子に坐りたるは室内に唯渠のみなり。其の太く落着きたる、これを頼母とし謂はば謂へ、伯爵夫人の而き容体を見たる予が目よりは寧ろ心憎きばかりなりしなり」
 というようすである。この段階においては、読者のだれもが、夫人と医学士とを、まったく無縁の人間、いやむしろ、夫人の痛々しさに同情する読者は、あまりに冷然たるこの医学士の態度を、あまりにも職業的であって、非人間的なものさえ感じさせて、さらに憎悪の感さえ抱かしめるのである。ここに、物語構成上の、巧妙な伏線がある。
 まわりの者たちが、夫人が、どうして麻酔薬を飲まないというのを不審に思い、果ては、その夫が、つい「私にも聞かされぬことなのか、え?奥……」と、問い正さずにはいられない。
 
 「『はい、誰にも聞かすことはなりません。』夫人は決然たるものありき。
 『何も麻酔剤を嗅いだからつて、譫言(うわごと)を謂ふといふ、極つたことも無さそうぢやの』
 『否(いいえ)、このくらい思つて居れば、屹(きつ)と謂ひますに違ひありません』
 『そんな、また、無理を謂ふ。』
 『もう、御免下さいまし』
 投げ棄るが如くこう謂ふ……」
 この作者の作品のいくつかが、後年、新生新派の当り狂言となっていったが、このあたりの会話のやりとりはまさしく新派的で、通俗臭はあるが、しかし観客をして何かあるなと伏線をちらつかせ、ぐいぐいと虚構の世界に魅きこむのである。
 「さ、殺されても痛かあない。ちつとも動きやしないから、大丈夫だよ。切つても可い」
 
 美しくもたよやかでありながら、その態度は、きわめて毅然とした作者好みの女性である。
 それに対して、今までまったく脇役とも見えた高峰医学士が、「軽く身を起した」と思うと、
 「看護婦、刀(メス)を。」
 といって手術台に近づく。ここで、ようやく高峰医学士は夫人とともに主役の座につくのである。
 「『夫人、責任を負つて手術します。』
 時に高峰の風采は、一種神聖にして侵すべからざる異様のものにありしなり。
 『何うぞ。』と一言答(いら)へたる、夫人が蒼白なる両の頬に捌けるが、如き紅(くれない)を潮しつ。ぢつと高峰を見つめたるまま……」
 とクライマックスに到達する。ここにおいて夫人と高峰とは、無縁の人ではなかったことが、いくらかはっきりしはじめる。
 ところで、この小説の「下」の部分は、この高峰と夫人との関係についての種明しの部分であるが、この小石川植物園の部分になると作品の密度が急速にうすくなる。通りがかりの美しい娘(後の伯爵夫人)を讃えるのに、通行人の対話を借りているのだが、このおしゃべりがあまりにも長い。風俗的で戯作的な遊びに堕していて、硯友社風の悪い一面を見せている。とはいっても、この通行人の対話に耳をすました青年(後の高峰医学士)が、「さも感じた面色」で、つれの画家に、
 「ああ、真の美の人を動かすとあの通りさ、君はお手のものだ、勉強し給へ。」
 と嘆息するあたり、美に最高の価値をおく作者の耽美精神がうかがわれる。また、雪のように美しい女の胸にメスを加えて鮮血を流させるのは、鏡花文学によくいわれるマゾヒズム的傾向とも思える。しかし、鏡花のマゾヒズムは、異常な、単なる性的刺激としての作用よりも、それが悲壮なロマンチシズムと通いあうところに発想していることを思うべきである。鏡花文学は、本来ならば、痴情的であったり、被虐的であったりする男女を取り上げながら、ふしぎに肉欲や性情のいやらしさなまぐささがなくて、芸術的に美しく昇華されたものが多い。これは、鏡花の、生涯の作品群についていえることである。
 それにしても、若人の抱く清潔高貴なロマンチシズムは、汚れて厚い世俗の壁に立ち向かうには、あまりにもはかなく脆い。鏡花もまた、そのきびしい現実を痛切に感じていたのにちがいない。この作品においては、天上的ともいえるプラトニックなラブが、作者の主観的なフィクションの中において達成させるということでさえも、やはりこの二人を、相ともに死なせずにはおかなかったのである。恋の凱歌を奏するためには、現世的には敗北という高価な代償が支払われなければならなかった。
 ところでこの作品に寄せる評言の代表としては、「帝国文学」(八月号)が挙げられる。
 「鏡花子は、よく人生の恨事を知れり、此恨事が常軌の道徳を以て抑圧すべからざるを知れり、然れどもその結構の奇抜に過ぐ」
 警めを含みつつも賞讃を与えているこの一文のように、たしかに、生ま身のままの人間の、しかも胸部の肉を、麻酔もかけないでメスを加えるという設定や、メスを加えた高峰の手をしっかと握った夫人が、「貴下だから……」と叫びとつぜんそこではじめて事情が判明してクライマックスに達するあたり、奇抜にすぎるきらいはある。しかし、かねてから、鏡花の心奥にひそむ恋愛至上の叫びが、一日、小石川の植物園で、美の女神のような貴婦人を見たことによって、おのずから想となって湧き、ことばとなって流れ出したものであろう。だれしもが、作りものであるとわかっていながらも、なお、感動しないではいられないなにかがある。そういう意味では、『夜行巡査』とともに、観念小説と銘うたれて並び称せられるというものの、虚構の世界においてのリアリティーにおいては、はるかに前作に勝るものがあると思う。』

turugimitiko.hatenadiary.jp