ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

泉鏡花作品解説集6

清水書院から1966年に出版された「泉 鏡花 人と作品」に掲載されている解説は、主立った作品が書かれた時代背景や、泉鏡花自身が作品を書くにあたっての人生の背景を仔細にまとめてある好著です。以下、『』内の文章は左記の本からの引用となります。泉鏡花の研究の一助になれば幸いです。

 


 高野聖


『「二度目の『新小説』の第一号は、私が大塚に居りました頃発刊になりました」(「おもて二階」明三八・一)と、鏡花が語っているこの「新小説」は、「一寸(ちょっと)見ても立派な雑誌」であったという。さらに鏡花はこの談話の中で、「新小説」のころを、
 「その時分は、後藤さん、小杉さん、島村さん、などといふ今はいづれも国持城持のお歴々が……(略)……一番乗一番槍の真最中、新小説が発刊になったのは、ござんなれよき敵といふ気がして、驚破(すわ)といふ時には若輩ながら、という意気込みでした。」
 と語っている。後藤は宙外、小杉は天外、島村は抱月をそれぞれさす。こうした新進作家としての旺盛な自負心の中から『高野聖』は生まれたのである。
 『高野聖』は、この年「新小説」三月号に載ったもので、
 「雑誌は三月の分から後藤さんということになりました。私に何か一つ勤めろといふので其の時のが、高野聖……。」(「おもて二階」)
 といっている。
 「新小説」は、大正になると通俗的な読物に堕し、昭和二年に廃刊になったが、一時は、漱石の『草枕』や、また自然主義の代表作田山花袋の『蒲団』なども掲載された雑誌である。
 この『高野聖』は、中国小説「板橋店三娘子」にヒントを得た(吉田精一他)と指摘されているが、鏡花自身の口からはさらに一老人の体験談からともいわれている。
 「『高野聖』ですか、あれは別にモデルはありませんよ。私の想像で」
 と、鏡花は、いちおうことわっておいて、
 「飛騨の山中と云ったら随分ひどいところで、『高野聖』に書いてあるやうな、人も通はないところです。私の友人が山中の宿についたときに、体が疲れて汗をかいたものだから裏の谷川に出た所に美しい田舎娘と出喰はしたのを聞きまして、想像を加へたのです、ええ?あの女ですか、書くのには随分困りましたよ、何処か気高い所を見せなければ感興をぶちこはしてしまひますからな……
  又坊さんの方ですネ、あれも商人とか何とかにすれば全くつまらなくなつてしまひます。絵師や詩人なども配合がよくありません、それでまづ坊さんが幾分配合がよいだらうと思つたのです。」(「創作苦心談」明三四・三)
 といっている。鏡花ロマンチシズムには、あらゆる美の要素が含まれてはいるが、本作のような神秘的怪異的とも呼べる世界もまた作者特有のものである。中国小説からのヒント、また近世の上田秋成の『青頭巾』などの影響という以上に、自身の心の中に常に幻想美の小宇宙を抱かずには生きられないという、作者の天性を思わないわけにはいかない。
 ところで、作者が、『高野聖』というこの題名をえらんだ由来について考えてみよう。というのは、この題名が、作者が好んで生涯用いた「語り」のスタイルによる小説作法に関係がありそうに思えるからである。
 語源的には、ひじりは日知りであり、古代農耕生活において、暦のわかる人間、したがって、種まき、収穫の時期をわきまえている人間、つまり農耕生活の管理指導者の称であった。
 ところがこのことばは、平安末期日本の既成宗教と信仰宗教とが、大きく交替する時期において、新しい意義をもつことばとなっていった。それまでは、貴族に出入りしていればよかった教団も、貴族の没落後、武士階級の拾頭、民衆運動の活発化とともに、広く大衆教化に乗り出していかなければ、宗教家としての誇りはもちろん、教団の存続も不可能となっていった。このような時代を背景に、既成の教団とは関係なく、たくましい修験者の一群が発生していった。かれらは、荒い修行ときびしい生活を実践することによって民衆の支持を受け、一方、仏教談・極楽往生談を、わかりやすく民衆に説いて聞かせ、各地を遍歴していったのである。有名な『今昔物語』なおdも、かれらによって集められ、またかれらにひろめられていったものであるし、もとは、三巻であった『平家物語』を、十二巻までひろげていったのも、ある部分は、かれらによって挿入された説話群による。
 彼等の一群中、浄土宗の人たちもまた、このひじりとして諸国を遊行、そして、高野山のような霊場に集まっては、めいめい、なぜ仏道に入ったかの発心由来のざんげ話(『三人法師』『高野物語』)をしたものである。高野に集まったひじりは、また東西に分かれ、民衆教化のために、おもしろおかしく法話を語り、それによって生活をしていったものである。貴族によって権威づけられていた仏教界からは、むしろ無頼漢のように憎まればかにされながらも、このような生活をつづけていったところに、この中世という時代にふさわしい実践者の面目がある。つまり「高野ひじり」とは、僧であるとともに、語りをも、半ば職業のようにした旅人群でもあった。
 鏡花の『高野聖』の題名も、鏡花のたくみな語り口も、そして本作品のざんげ話という発想も、いわゆる歴史上の『高野聖』と無縁ではないと思われる。』

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