ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

泉鏡花作品解説集10

清水書院から1966年に出版された「泉 鏡花 人と作品」に掲載されている解説は、主立った作品が書かれた時代背景や、泉鏡花自身が作品を書くにあたっての人生の背景を仔細にまとめてある好著です。以下、『』内の文章は左記の本からの引用となります。泉鏡花の研究の一助になれば幸いです。

 


 眉かくしの霊


 『鏡花のお化け好きは有名だが、かれ自身もそれをよくわきまえていたらしい。随筆にも「またかとのたまふ迄も化物語……」(「赤インキ物語」)とことわって怪談をはじめている。それというのも、近代文学の作家たるものが、幽霊や妖怪変化の類を信ずるなどというのは知性の欠除も甚しい、とばかりに攻撃されることが頻(しき)りであったからである。
 「私がお化を書く事に就いては、諸所から大分非難があるやうだ。けれどもこれには別に大した理由は無い。只私の感情だ。いつかも誰かから『君お化けを出すならば、出来るだけ深山幽谷の森厳なる風物の中へのみ出す方がよかろう、何も東京の真中の而も三坪の庭へ出すには当るまい』と言はれた事がある。が然し私は成るべくなら、お江戸の真中電車の鈴の聞える所へ出したいと思ふ。
  要するにお化は私の感情の具現化だ……。」(『予の態度』明四一・七)
 これを読むと、鏡花には、お化を信じたというより、芸術上の表現手段として用いたかのようでもある。
 しかし、それよりも鏡花には本質的に幻想をうみ出し、その幻想境の中に遊ぶという感性が豊かであったことによると思う。
 雪女郎の話に聞き入った幼時のことはすでに述べたが、こんなこともあった。父親の清次が上京中、四つになる鏡花の妹が、庭に落ちて頭を切って、母親すずが、「あっ!」と声を上げたことがあった。すると三日後、在京中の父から手紙が来て、「一昨日晩景、座敷の障子越、縁側で、御身があツといふのを、形は見ないで聞いたが、別条は無きや」と記してあった。それが、「あっ!」と聞いたのは同日、同時刻であったと鏡花は回想している。(「雑感」)
 しかし、鏡花の幽霊好きは、エログロナンセンス好みのしめるところではない。現実と幻との分かちがたい朦朧とした世界に、特殊の美の世界を創造することに喜びを感じるのである。それは、作者が幽玄を美学に据えた中世の能楽美の教養を受け、それに興味をそそられたことと、無縁ではあるまいと思われる。このように解釈する裏づけとして、この『眉かくしの霊』などは、好箇の作品と思われる。
 『眉かくしの霊』は大正十三年五月、雑誌「苦楽」に発表された作品である。
 ~中略~
 鏡花文学のストリーの特異さは、しばしば読者を魅了する。新聞小説でや、新派上演において成功をおさめるのもここに理由がある。しかし、それだからといって、鏡花を、見事なストリーテーラーと呼ぶことはどうかと思う。というのは、一方、理に合わない筋立てや、御都合主義な構成が目立つからである。つまり鏡花作品の真の魅力は、「その筋ではなくて、場面場面の美しさにある」という評言のとおりなのである。そして、少くも、この「眉かくしの霊」を鑑賞するについては、このことは大切である。この作品ほどストリーの不自然さが目立つものは少い。たとえば、桔梗カ原の水辺には、美女の幽霊が出るのであるが、この存在は、本編のストリーとは、まったく必然的なつながりがないのである。お艶の幽霊との関係も薄い。二つの幽霊が、おたがいの関連なしに登場するので、読者のイメージは混乱しがちである。また、わざわざお艶が、なぜこんな山奥にまでやって来なければならないのか、もちろん、いちおうの説明がないことはない。作者にしてみれば、姦通の汚名(実は汚名か真実かはっきりさせていないがー。)を着せられた若い人妻を救ってやるというためにやって来たお艶である。つまり、鏡花一流の、江戸前で侠気ある美女をここへ登場させたつもりなのだが、それにしてもお艶の言動は、あまりにも現実ばなれがしている。』

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