ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

泉鏡花作品解説集14

清水書院から1966年に出版された「泉 鏡花 人と作品」に掲載されている解説は、主立った作品が書かれた時代背景や、泉鏡花自身が作品を書くにあたっての人生の背景を仔細にまとめてある好著です。以下、『』内の文章は左記の本からの引用となります。今回で、この解説シリーズも最後になります。おつき合い下さった皆様方、ありがとうございました!泉鏡花の研究の一助になれば幸いです。

 


 婦系図解説の続きです。


『いずれにしても、『婦系図』は、一般的には、もっとも知られていながら、しかし、鏡花会心の作とは呼べないのである。あまりにも、作為的で、大時代で御都合主義的なのである。むしろ、鏡花の欠点をさらけ出した作品とも呼べるのである。いくら元は、やくざのすりであった主税とはいえ、教養をつみ、ドイツ文学者酒井の跡を継ぐほどになった者が、相手と闘うためとはいえ、とつぜん不良少年時代の、態度とことばになり、たんかを切るということはあり得ない事実である。しかも、作者はそれを不自然と思うどころか、自身、主税のたんかに酔っているような気分さえうかがわれる。
 しかし、冷静な作品鑑賞はさておいて、『婦系図』が、新派の舞台を借りたとはいえ、あおのように大衆にアッピールしたのはなぜであろうか、やはりこれは、この作品が、主人公たちが義理と人情の板ばさみに合って苦しむ…という設定にあると思う。
 純一無垢、すべてを投げうって結ばれた主税とお蔦がそれでも別れなければならなかったのは、主税の今日を育ててくれた大恩ある師のことばを守ったからだし、またその酒井は、お蔦の死の病床に立ち合って、無常な仕打ちをした自分に悔む。しかし、われわれ庶民は、実生活の上において、つねにこのように、非論理的な所行のくりかえし、そして悔いのくりかえしを重ねているのである。酒井の非情な仕打ちを憎む読者もまた、実生活においては、酒井的な発想でものをいっているのである。また、それなればこそ、客観的な読者の立ち場にありながら、心のどこかで、自分達の実生活との共通な感覚に動く人物たちに親近感を抱くのである。つまり、『婦系図』はナニワ節の世界なのである。そしてそれは、日本の前近代性の尾をひく社会によって受け入れられる世界なのである。さらに、このことは、だれもよそごととして笑うわけにはいかないのである。なぜなら、前近代の社会に呼吸する人間である以上、どんなに近代的知性を志向しようとも、まったくは、このナニワ節の世界から脱けきれるはずのものではないからである。
 
 さいごに、本作品の前編んお主要人物お蔦のモデル、神楽坂の桃太郎こと、すず夫人のことである。鏡花とすず夫人の交情のいきさつは、生涯編に述べたが、結婚後のふたりは、どのように過ごしていったのであったろうか。
 すず夫人は教育もなかったし、もちろん文学上の知識なども乏しかったと想像される。しかし、夫人に接した人たちの多くが、鏡花の小説の底を流れる江戸情緒や、粋な会話のはこびが、この夫人の言動にさり気になく表わされているのにおどろかされたらしい。鏡花文学が、生涯みずみずしい青春性を失わなかったのも、夫人との濃やかな愛情にみちた明け暮れに終始したことと、無縁ではあるまい。
 この夫妻がいかにむつまじかったかは、鏡花の死後のすず夫人の逸話からもうかがい知ることができる。
 そのうちの二・三を、村松定孝著『泉鏡花』の中から引用してみる。
 「つい二三日前、私は(すず夫人)、あるじの夢を見ました。あるじは手を出して、塩のびんをよこせと申します。私は手にしていたびんを渡しますと、あるじはそれを持って、すうつとあつちへ行ってしまひました。無くなつてから、朝夕、仏壇へそなえるお茶には、塩を入れないものですから、あるじは塩気にこがれて、とりにきたんですね」
 決して冗談でなく、真顔で信じていることばであったという。
 「自分(すず夫人)ひとりでは解決できないやうな問題が起きると、
 『あるじにうかがつた上で、御返事しませう』といふ。そして、その夜、夢で鏡花と語ったことを、そのまま人に伝へ『あるじはかう申しました』といつたぐあいひで、財布なども、鏡花のと自分のと別にしておき、遺作の印税や上演料などが届けられるとまづ良人の財布にしまつて、
 『今日はこれこれのお金が入用ですので、これだけいただきます。』
 と仏前に一々ことわつてから、自分の財布にうつす。はたで見ていても、その夫婦愛の美しさが、良人の死後までつづいているのに感動させられるものがあつた。」
 鏡花の死後五年、太平洋戦争で、番町の家は戦災で焼失後、夫人は熱海へ転居して静かな余生をすごし、戦後、昭和二十五年、黄泉の客となり、最愛の夫のもとにおもむいた。』