ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳永直の小説勉強 – はしがき

昭和18年(1943年)に伊藤書店より出版された徳永直(とくながすなお)の「小説勉強」より、徳永直が学んだ小説家に対して宛てた随筆を現代語訳した上、掲載しております。ここでは、まず、はしがきを下記の『』にて引用しております。徳永直の研究の一助になれば幸いです。

 


徳永直ってどんな人?


『著者紹介 明治32年熊本市に生まれる。黒髪尋常小学校卒 大正2年急襲日日新聞社製版部入社 主なる著書。「結婚記」「はたらく一家」「八年制」』
この本では、上記のように紹介されていましたが、徳永直はプロレタリア作家としてデビューし、「太陽のない街」などを執筆しましたが、仲間であった小林多喜二が拷問死を遂げた後、転向し日本プロレタリア作家同盟を脱退します。ですが、戦後、中野重治らと共に小林多喜二の全集作成に当たって小林の手紙や未発見の原稿を集めるなどの呼びかけをし、彼の全集出版にあたり尽力をつくした人の一人でもあります。
はしがき
 
 人々はすべて、文学とか小説とかに対して、読み手であると同時に、書き手でもある。つまりすぐれた読み手は、すぐれた書き手であり、すぐれた書き手は、すぐれた読み手である。もちろん高度に発達した文学の世界においては、作家と批評家のごとき関係で、読み手と書き手とがおのづからの特徴によって専門化し、分化したりするが、一般的に言って、この根本はかわらない。あらゆる人々が他人の書いたものを読むとき、己も何かを表現したい欲望を、己の欲することろを他人によって表現された喜びを、つねに心のどっかに感じているものだ。
 そしてこの関係こそが、読者が作家を作り、作家が読者を作るのであろう。私はそういう意味で、あらゆる人々が、多少の作家才能者であり、多少の読者としての批判才能を持っているのだと考える。もっとも非凡な才能者ということになれば、その文字の如く極めて少数にちがいなかろうが、その非凡な才能者もまた、あらゆる人々の、多少の「文学心」が伝統の上に結集したものに外ならないのであって、つまり文学とか小説とかいう世界の根本は、あらゆる人々の多少の作家的才能、多少の読者的才能のうちに基礎がおかれているのだと思う。
 ところで私が改まってこういうことを言いたいのは、じつは今日の作家と読者との関係が、作家が職業であるという事情から、いろいろに隔てられているのを感じるからである。その故に作家は読者に対して無責任であり、読者もまた作家について無責任といった気分があると思う。例えて極端に言うならば、作家は出版社の利益に対してだけ責任を感じ、読者はその書物の値段に対してだけ責任を感じている。つまり作品というものを真ン中において、読者と作者の、人間と人間の、通い合う心というものがゆがめられている。
 もちろん、これは誇張した言い方である。しかし若干なりのこういう気分が、作家と読者がおのずと、中におかれた作に対して、ずれた態度をかもしだしてはいないだろうか?本来の読者と作者との相互関係がもつべき素朴なものを、多少とも麻痺させてはいないだろうか?
 例えば作家のうちには作をすることの困難さを極端に主張する人がある。宿命的にさえいう人がある。もちろん才能の大小に拘わらず、すべての芸術家がそうである如く、作家もまた困難である。しかしこの困難はあくまで具体的であって、自然な必然なものである。ところがいまいう作家たちの主張の種類はすこしちがう。たぶんに不自然であり、神秘的でさえある。まるで天が許して、その人のみを作家にしたかのごとくである。するとまた一方では、作家を志す若い人のうちには、自作が何かの賞にでも入れば、とたんにその「神秘的」な才能と特権を、一挙に獲得したかのごとき錯覚とふるまいに陥る風も見える。
 しかしおよそ文学とか小説とかはそういうものではないであろう。才能の大小には拘らず、作家が作をおするときは最大限の苦労をする。しかしそれは決して不自然なものではない。少なくとも己が喋りたいことを喋るのである。子供を産むのは産婦にとってたしかに苦痛である。しかし子供を産むのを厭うのは、女性本来の自然な姿ではない。
 勿論、その人が生とともに享けた非凡な芸術的才能は充分に尊重されなければならない。本人自身が尊重すると共に、他人もこれを尊重しなければならない。それはその人の非凡な才能が、じつはあらゆる人々の持つ、多少の作家的読者的才能の、伝統の上に結集したものであるからだ。じつはあらゆる人々によって産み出されたものであるからだ。
 文学とか小説とかは、生活の花である。まことに自然である。あらゆる人々が多少に拘らず才能を持ち、あらゆる人々がそれを尊重いsなくてはならぬ。そして非凡な才能を尊敬することを知っている人ならば、同時に小さい才能もこれを磨くことを忘れぬであろう。芸術は万人のものであって、決して少数の職業作家のものではない。あらゆる人々が読者であると同時に作家でもあるのだ。そして作の興味はまず何よりも己自身にとって値打ちあることから始まる。そこから一切の芸術が出発する。
 この本は、だいたい私のそういう考えにもとづいて書いた。ここ数年のうちに書き貯めたものであるが、わずかながら自分の経験を土台にして「書く」について、「読む」について出来るだけ役だつよう、また私なりの考えで、今日の若い人々が、過去の日本近代文学作品と作家を、正当に理解するにいくらかでも役だつよう、将来の日本文学経営者として、遺産相続のために批判的接収に、いくらかでも役だてばと思って、ねっしんに書いてみた。
 もとより、本の中でも書いた如く「作家に学校はない」のだから、読者が自身の生活から学ばれるものに如くはないけれど、読んで損にはなるまいと思う。


   昭 和 十 八 年 六 月 
                         直

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