ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳永直の小説勉強 – 志賀直哉1

昭和18年(1943年)に出版された徳永直(すなお)の「小説勉強」より、徳永直が学んだ小説家に対して宛てた随筆を現代語訳した上、掲載しております。ここでは、志賀直哉編を下記の『』にて引用しております。この本が出版された当時、志賀直哉は60歳、徳永直は44歳でした。徳永直の研究の一助になれば幸いです。

 


志賀直哉


 編集者からのお話で、できるだけまっとうに、文学とか小説とかを理解し、それに入ってゆく手びきといったあものを書くことになった。尤も本誌の読者は玄人ぞろいということだから、今更という気もしないのではないが、しかし小説の世界は学校などとちがって、根本的には初等も高等もないのだから、或いは役にたつかと思う。
 大体、日本近代の文学者で、私が読みかじり、私流にまなび尊敬している作家の特徴を説明し、そのことから文学芸術のありか、乃至るは入る道といったものを説きたいと思うが、はじめに志賀直哉をとりあげたのは、志賀の小説には旅行文が多く、それが極めてすぐれているということからである。
 初期のもので、「網走まで」「鶴沼行」「寓居」「鳥尾の病気」など、比較的後期のもので「真鶴」「焚火」「雪の遠足」「濠端の住まい」「山形」「鳥取」など、非常に多い。いや志賀作品の全体が、ほとんど主人公の旅行と無関係なものはないといってよい位。唯一の長篇「暗夜行路」でさえが、前篇・後篇を通じてそうである。つまり志賀の作品は旅行がその一大特徴である。
 もちろん他の作家も旅行するし、作中にそれを書くが、志賀ほど旅行を旅行として、その見聞が作のモチーフとなっているのはめずらしいのである。たとえば「暗夜行路」の時任謙作は身にあまる問題をかかえて、尾道や四国を遍路するが、最後の解決は到々大山入りとなって、半ば以上、そこでの風景描写のうちに、とにかく問題が終焉をつげている。こういう傾向は最近作「早春の旅」にも益々色濃くなっているし、以前の諸作にも大体一貫していると言ってよい。志賀作品におけるこの特徴は、内部的な人間的諸問題が、非人間的自然との摩擦放散によって輪廻観へ通じるようなものと結びついているようであるが、これは後期に著しい傾向であって、その前期は必ずしもそうではない。
 私はこの小文のなかで、志賀作品におけるこの特徴の意義について詮索する暇をもたぬが、とにかく初期におけるそれは、同じ旅行をテーマにしていても、もっと明るく、むしろ旅行中の見聞が、自然観照のなかへ放散されずに、逆に人間くさいものの方へ迫ってくる傾向がつよかったと思う。
 旅行文とか紀行文とかは、あらゆる作家が最初に経験しはじめるものとして、重要であるが、その意味で、志賀のそうした文章は、恐らく日本で第一等のものだろうと思う。私の経験では十四五歳のとき、その頃地方の印刷工場で働いていたが、休み日にはよくノートを懐中にいれて小旅行をした。汽車に乗るほど裕福ではなかったから、脚絆に草鞋で歩く。私は熊本市の生まれで、おもに在の方へむかって、旧跡山川をめあてに歩いたようだ。明治の終り大正の始め頃だし、それに田舎者だから、まだ蘆花の「自然と人生」とか、殊に大町桂月の紀行文章、有名な「──也」と、いう也づくしの文章に心酔していた。もうそんなノートもとっくの昔失くしてしまったから、どんなことを書いていたか思いだせないけれど、たぶん蘆花流ないしは桂月流の美文調であったろうと思う。年代的に思いあわせれば、この頃既に志賀の「或る朝」とか、「網走まで」などが、発表されたときであるが、もちろん知りようがない。』


蘆花・・・徳冨蘆花のこと。徳永直と同じ熊本県出身の小説家。
大町桂月・・・高知県出身の随筆家、歌人でもある。

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