ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳永直の小説勉強 – 森鴎外2

昭和18年(1943年)に出版された徳永直(すなお)の「小説勉強」より、徳永直が学んだ小説家に対して宛てた随筆を現代語訳した上、掲載しております。ここでは、森鴎外編を下記の『』にて引用しております。徳永直の研究の一助になれば幸いです。

 


大正元年の「興津弥五右衛門の遺書」などが恐らく鴎外歴史物の端緒であろう。「阿部一族」はその翌年の発表だが、素材からして「興津弥五右衛門の遺書」と連関をもっている。それから「佐橋甚五郎」「護持院ケ原の仇討」「大塩平八郎」と高潮して、大正五年から六年にかけてつづく「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」と膨大なものになっている。そして一般の批評では鴎外歴史物は「渋江抽斎」以後において、もっとも完成し、高い境地に達していると謂われる。
 しかし私の感想では、歴史物も初期の方が面白い。「渋江抽斎」以後、ことに「伊沢蘭軒」「北条霞亭」となってくると退くつでこまる。私は一読者として「何故退くつするだろうか」と考えてみた。事件にとぼしく、非常に膨大であるということも原因の一つだと思ったが、まだ他にあると考えた。それは「北条霞亭」ないr「伊沢蘭軒」なりを書こうとする動機とか契機とかいうものが、現実的にうすいのではないかということであった。それはかなり考証的興味が手伝ってやしないかということである。「渋江抽斎」まではまだ作者のモチーフがかなり現実的に濃く、読者に訴えるものがあるが、「渋江抽斎」からひきだされた「蘭軒」、「蘭軒」からひきだされた「霞亭」となってゆきに従って、たとえば「興津弥五右衛門の遺書」からひきだされた「阿部一族」のような、主題の発展性、急所といったものが感じられない。或いは感じにくい。
 鴎外の歴史小説は、日本の歴史文学において一流派をきづいたばかりでなく、当時においては恐らく君臨するものであったろうと思う。
 その特徴の第一は、史的事実の考証の精密さと同時に、文献が欠けていれば欠けているとして、かりそめに欠けた部分を、作者の想像でこねあげることをしないという点である。したがって文章は甚だしく素朴で適確である。
 だからといって作者の小説的フィクションがないというわけでは毛頭ない。たとえば「魚玄機」のような「山椒大夫」のようなロマンチックなものもある。また「阿部一族」のごとき「興津弥五右衛門の遺書」のごとき、精細な文献んい基づいたものでも、やはりフィクションはある。ただそのフィクションが文献に沿うてリアルなのである。
 それからいま一つ忘れてならぬことは、鴎外の歴史物では概して素材や文献の出所を明らかにし、作者自身がどうしてそれに興味を持つかを読者に伝えていることである。「寒山拾得」の場合も、「高瀬舟」でも「渋江抽斎」でも、多くがそうであって「阿部一族」のような、まるきり作者が顔を見せない小説においてさえ間接に感じられるこの特徴は、鴎外の歴史小説への態度だといってよかろう。つまり作者が今日只今に生きていて、過去の事実に魅かれる動機を明らかにしていることである。
 次に鴎外歴史物の内容で最も著しい成功は、武士道を描いた点である。数からいって必ずしも多くはないが、「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」「護持院ケ原の仇討」、またすこし別な意味で「佐橋甚五郎」などは、作品としても第一等に位するばかりでなく、これほどまさしく「武士道」にふれたものを、小説の世界では他に知らない。
 武士を描いてかくあったことと、かくあらねばならなかったこととをふくめて、これほど完璧に描かれたものを、私は他に知らぬ。少しちがった意味で、徳川中期に井原西鶴があり、「武家物語」を描いて、高くそびえているが、「阿部一族」などは、恐らく「武家物語」を越すものであろう。
 「阿部一族」は鴎外歴史物の最高峰だと私は思う。紙数がないので、読者は文庫本でも是非一読されんことを勧めてここでは詳述しないが、私ら後輩作家が「阿部一族」からまなぶものは、いかに小説は書くべきかという点で、決して歴史小説だけにかぎらないものをもっている。』


今回で、森鴎外編は終りです。最後まで、おつき合い下さりありがとうございました!