ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

吉田秀和が語る中原中也1

昭和51年(1976年)11月に河出書房新社から出版された「文芸読本 中原中也」では、吉田秀和先生が寄稿された「中原中也のこと」と題された随筆を読むことができます。吉田先生はクラシックの名曲紹介でなじみ深い方もいらっしゃるのではないでしょうか?以下、『』内の文章は左記の本からの引用部分となります。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

 


1

 私は、中原中也の弟子だったわけではない。それに、私は「詩人」についての思い出など、あまり書きたくはない。その理由の第一は、私には、「詩人」というものが非常に特殊な人間に思えるからである。私がこういうのは、特にこの国の詩人が一般に非常に風変りな人たちであり、風変りな文章をかくから、といった理由ではない。むしろ、私が「詩人」について、特別な観念を抱いているからだ、という方が正確だろう。それは偏見かも知れない。しかし、私のその観念は、中原中也を知ったことによって、生れてきたのだ、とはいえる。そういう意味でなら、私は、彼によって、ほかの人からは絶対に経験したことのないあるものを学んだ、といえるかも知れない。彼の存在が、私にあきらかにしてくれたことは、一口でいうと、何億という人間の中には「この宇宙の中で人間が生きてる」という──簡単といえば簡単な事実について、ある意味を、突然、私たちが日常生活ではあまり経験しないような形で、刑事できる人間がいる、ということである。私にとっては、以来、「詩人」とは、そういう人間を指す言葉になった。私は「宇宙の中で」と書いた。「自然」という方が通りがいいかも知れない。あるいは、この言葉の方が、もっとぴったりする詩人もいるだろう。しかし、中原の場合は、やはり、「自然」では、私にはぴったりしないのだ。それにしても、中原の話すのをきいてると、突然すべてのことの意味がはっきりしてくるような印象をうけ、自分がふだんどんなに浅薄にしか生きてないか、思い知らされるような気が、よくしたものだ。』

 

吉田先生にとっては、中原中也は自然というより"宇宙"が似合う詩人だったようですね。こういった点では、宮沢賢治を彷彿とさせます。中原中也宮沢賢治を好きだった理由も、この辺りにありそうですね。それに加え"日常生活ではあまり経験しないような形で、啓示できる人間がいる、ということである。"という内容にも果して一体何があったのか?とても気になりますね。

 

2

 私は、そのころ、まだ高等学校の学生になったばかりだった。私は東京生れだが、小学校の終りに一家とともに北海道の小樽に移り、そこの中学を四年やって、東京に出てきた。高校は成城。昭和五年のことだから、もちろん旧制当時の話だ。
 入学して一学期は寮にいたが、その秋から、阿部六郎先生のお宅に下宿した。阿部先生──私たちは阿部チャンとか阿部さんとか呼んでいた──はドイツ語の先生で、私としては成城以来、先年、先生が亡くなられるまで、ずっと「偉い先生」として尊敬してきた。
 当時、先生は成城町の南側、市河三喜さんの借家に住んでいたが、私は同級生といっしょに一度上ってから、どうしても、この先生のところで暮したくなってしまったのだ。先生は、何事につけても消極的で受け身な一面があって、この突っ飛なお願いには、ずいぶん驚きもし、迷惑にも思われたにちがいないのに、奥さんと相談して承諾して下さった。思えば、この奥さんにも、私はひどく御世話になったものである。
 阿部さんのお宅は、箱みたいな、上下同じ広さの木造二階建て。その二階の広い方の部屋が先生の書斎で、隣りの四畳半だったかが、私の部屋ということになった。
 移ってつぎの日曜の午後、隣りに人がきて、夜になるまで話し声がしていた。その声は少し嗄れて低かった。一しきりしゃべったとで、二人は出ていった。つぎの日曜にも同じ人がきた。話し声は、もっぱら訪問者のそれで、阿部さんの声はほとんど聞えない。これは、別に不思議でも何でもない。阿部先生ときたら、我々がお邪魔して、夕方から夜おそくまでねばりにねばって青くさい議論をしていても、まるで黙りこくったまま、バットばかり立てつづけにふかしていたものだ。机に横向きにかえた椅子の上に座蒲団をしいて(張った布が切れてマットが顔を出してしまったからである)、その上に正座したなり、こちらの話をきいてるのか、きいてないのか。とにかく私は、一生、あんなに相手にしゃべらせ放しにしゃべらせる人に、二度と会ったことがない。私の友人は『あの人は海綿みたいに何でも吸いとってしまう』といってたが、何も吸いとられるほどのこともいえない私に対しても、こうだった。ただ、あの人の前だと、やたらと話がしたくなり、しかも、ふだんはっきり考えてたわけでもない考えが、急に形をとって出てくるのだ。先生は反駁も、もちろん、しない。ただ時々、前歯のかけた口をあけて、くすぐったそうに笑ったった。』

 

中原中也も印象的な人物ですが、阿部六郎氏も彼に負けないくらい、不思議な人物だったようですね!

 

『 二回目の日曜は、しかし、夕食ですよと呼ばれて、私がしたの茶の間におりてゆくと、この規則正しい訪問者(中原は、人を訪ねるのを日課みたいにしてる男だったが、このごろは日曜というと、阿部さんのところに、まるで学校にでも出るように、きちんとやってくるのだった)もすでに坐っていて、いっしょに食事をした。背が低く、角ばった顔。ことに顎が小さいのが目についた。色白の皮膚には、ニキビの跡の凸凹がたくさんあったが、そのくせ油こいどころか、妙にカサカサして艶がわるかった。ぎょろっとした目は黒くて、よく光った。私はそれをみんな一目でみたわけではない。これは、その後の印象のいくつかを足したものだ。初対面では、むしろ、低いが優しい口のきき方と、私のいうことを、そのまま正直に、まっすぐうけとろうという態度が印象的だった。もう一度断っておくが、私は十七歳の高校一年生。生意気で、自分のいうことを、そのまま聞いてる相手なんて、かえって気づまりに感じてしまう年頃だった。年譜でみると、彼は当時二十二歳。当時の私は、もちろん、他人の年齢の重さを計るはかりを全然もたない年だったが、それにしても、中原、こんな若さで人生の遍歴をあらかたすごしてしまったみたいな口のきき方をした。彼は早熟児だったのだろうか。いや、ちがう。事実、彼には、妙にませてたところと、未熟なところが同居していた。私に言わせれば、彼は、たとえば私なんかより無限に年上の人間だったと同時に、非常に infantile な、つまり乳臭い人間だったのだ。これは、私がたとえ当時三十歳であっても、同じだったろう。いや、今後何年生きのびられたって、私は、彼の智恵には及ぶまい。と同時に彼はまるで子供だった。彼の書いたものをみればよい。あんなに幼稚と老成が隣りあってる文章をかいてた人間が、ほかにいるだろうか。結果的にいえば、彼には、二十二歳にしてすでにあと七年の生命しか残されてなかった。そうして、その七年に彼は変ったろうか?少くとも本質的な事件は、ただひとつ。彼が自分の子の誕生と死にたちあったということだけだ。そうして、その子は、つまり彼自身だった。』

 

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