ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

吉田秀和が語る中原中也2

昭和51年(1976年)11月に河出書房新社から出版された「文芸読本 中原中也」では、吉田秀和先生が寄稿された「中原中也のこと」と題された随筆を読むことができます。今回は吉田先生が感じた中原中也の内面紹介?とも言える内容となっています。以下、『』内の文章は左記の本からの引用部分となります。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

 

『中原は、大変倫理的な人間だった。私はのちに、《論語》をよんで、『人生のくるは直ければなり』という句に接して、これは中原の信念と同じだと思った。この『直し』というのは、正義とか真理とかいうのとは、ちょっとちがう。本居宣長の言う『清く明るい心』にずっとちかい。それは、対外的、対人的であるよりも、まず、内的なもののあり方についてである。
  かくは悲しく生きん世に、なが心
  かたくなにしてあらしめな。
  われはわが、したしさにはあらんとねがへば
  なが心、かたくなにしてあらしめな。
 こういった時、彼はヴェルレーヌに近いのと同じくらい、古代中国の聖哲にも近かった。
 けれども中原には、その『直さ』が必ずしも、単純にそこにある、といったものでもなかった。いつだったかも、彼は阿部さんの家で、『ああ、俺は赤ん坊になっちゃった!』と叫びながら、急に畳みの上に仰向けにひっくりかえってしまって、亀の子みたいに、手足をばたばたさせていた。いつもは蒼白な顔色が真赤だった。阿部さんは例によって黙っているし、敬虔なカトリックで、見るからに聖女みたいな色白丸顔の奥さんは、目を細めて笑っている。その光景は、私には、何ともいえず、おかしくって不気味だった。中原は、しかし、そうなったままずいぶん長くいた。正気の沙汰じゃないといえば、それまでだが、私は今でもやっぱり、彼はあの時、本当に赤ん坊になってしまったのだと思っている。
 そういう彼が、また、喧嘩をするとすさまじかった。私のいうのは口喧嘩である。目の前の相手を、一語一語、肺腑をつくように正確に攻撃する。その烈しさは、意地の悪さなんてものを通りこしていた。
  風が立ち、浪が騒ぎ、
    無限の前に腕を振る。
                 (《盲目の秋 Ⅰ》)
 この句は、詩の前後をみればわかるように、他人相手の争いとは何の関係もないものだ。けれども、私はこの句を知って以来、彼が他人に毒づいてる姿に接するごとに、これを思わずにいられなかった。ただ、中原の喧嘩というものは、実際は、誰が相手というのでなくて、もっと広くて大きなものに向っての表現なのだ。無限に対する『生』の主張の一つの形式。生きるとは、赤ん坊であるか、無限を相手どって腕を振るか、どちらかでしかない。いや、中原の場合、この二つは、しばしば同じであった。
 かたくなな心をさることを念じつつ、彼は、苛立つ。
  これがどうならうと、あれがどうならうと、
  そんなことはどうでもいいのだ。 
  人には自恃があればよい!
  その余はすべてなるままだ……
  自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
  ただそれだけが人の行ひを罪としない。
                        (《盲目の秋 Ⅱ》)
 とはいえ、中原は、傲慢な人間には全然なれなかった。無限の前で腕を振って、自恃だ、自恃だ、と絶叫している時でも、彼は結局、他人を相手とした次元でものを考えぬくことはできない。~中略~
  ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。
 彼は、自我の拡充ではなくて、むしろ、万有との一体に帰することを目指していた。ただ、それには、この詩人は自我から出発するほかなかったのだ。』

 

 老成した大人と未成熟な子供との二面性を持つ、複雑な詩人の内面を彼の詩を通じて見事に書き切っている辺りに、吉田先生の凄さを感じますね。次は、そんな詩人と吉田先生との面白エピソードが綴られています。

 

4

 その晩、中原がどんな話をしたか、私はもう覚えてない。食事のあと、しばらくして、中原は酒をのみにゆこうといい、阿部さんが何かのことでゆかれないと返事をすると、私にお鉢がまわってきた。私たち二人は小田急で新宿に出た。
 電車の中で中原から、いくら金をもってるかときかれて、私は、たしか『二円もってる』と答えた。あるいは一円五十銭だったかも知れない。とにかく二人は、その金で、新宿の裏通りのうすぐらいバーに入り、うすぎたない女給の給仕で酒をのんだ。いや、私は、それまでこういう所にははいったこともないし、酒ものめないので、要するに、彼がひとりでのみ、ひとりでしゃべっていたわけだ。お銚子の二本も頼んだのだったろうか。のみおわると、約束で、私は中原に金を渡した。ところが私がはじめにことわった通りしか金をもってないのをみて、中原は怒りだした。『馬鹿だな、お前さんは。本当に二円しか金がないのなら、一円五十銭というもんだ。俺はそのつもりでのんだんだ。これじゃ、女給にチップも渡せないじゃないか!』
 私は有り金を全部はたいたので、成城に戻る電車賃もない。中原はしかし、自分の下宿に泊るように誘い、私も気軽に彼についていった。
 当時、彼は代々木山谷の小田急の線路に接してたっていた下宿にいた。彼の部屋は、その家の二階で線路のすぐさばなので、電車の窓からもよく見えた。もっとも、この時の彼はまだ一階の奥まった、もっと広い部屋に住んでいた。
 部屋に入ると、ベッドが不相応に大きかった。中原は、そのベッドに私をねかし、自分は畳の上にねた。
 その後、私は何度も中原を訪ねたり、よく泊めてもらいもしたのでわかったのだが、彼は、寒さに対して異常に強くて、『俺は風邪をひかないんだ』といって、真冬でも肌をみせて坐ったりしていたものである。~中略~
 ベッドの上で、私は、黒鼠色の箱に入った本をみつけた。白水社から出たばっかりのランボーの『地獄の季節』だった。私は少しよみかけて、鋼鉄みたいに強靱な文章にショックをうけた。そういう私をみて、中原は、『それを訳した小林って男は、金が入ったもんだから、酒をのんだついでに、さっそく女を買いにいって病気になったんで、アルチュール・ランボーじゃなくて、アルコール・リンビョウじゃないかって笑われたんだ』といった。
 私は、もちろん、この中原のひどい言葉が本当かどうかもわからず、どうしてそんなことをいうか、推測してみる気にもなれなかった。くりかえすが、私は閉じ十七歳。本をよんでも、人の話をきいても、いってみれば抽象的なものへの情熱でいっぱいで、誰が誰とどうなんてことは、気にならないどころか、知りたくもなかった。』

 

 中原が話した小林とは、彼と彼の恋人と三角関係になった小林秀雄の事で、小林はランボーの詩を出版したあと腸捻転になり、しばらく入院しました。この時の事がきっかけで、中原の恋人は小林の元へ去って行ってしまいます。そういった悔しさも込めて、アルコール・リンビョウだと揶揄したのでしょう。個人的には、後に吉田先生が中原が言う小林の正体と彼との関係を知り、かなり驚いたのではないかと思いました。

 

turugimitiko.hatenadiary.jp