ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

吉田秀和が語る中原中也3

昭和51年(1976年)11月に河出書房新社から出版された「文芸読本 中原中也」では、吉田秀和先生が寄稿された「中原中也のこと」と題された随筆を読むことができます。今回は吉田先生が感じた中原中也と子供との切っても切れない関係を紹介した内容となっています。以下、『』内の文章は左記の本からの引用部分となります。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

 


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 私は、しばらくの間、中原との出合いにおとらず、《地獄の季節》を知ったことこそ、この夜の事件だと思いこんでいたものである。
 間もなく私は、中原からフランス語を習うことになった。これは彼が私をどうみたかということとは無関係で、要するに、当時の彼は、ひとさえみれば、フランス語を教えて小遣いをかせぐことを考えていたからではないかと思う。暁星の中学のリーダーを一冊あげると、つぎはボードレールの《悪の華》がテクストだった。そうして、ボードレールをよんでるうちに、夏が近くなった。私は、夏休みに北海道に帰るのをのばして、一ツ橋ぎわの外語の夏期講習会で、午前は初等科に、夕方は高等科に、三週間だったか、毎朝、毎晩、通いつめてフランス語を勉強した。~中略~
 講習を終えて田舎に帰っていると、中原から葉書で、『ボードレールは暑くるしくってかなわない。九月からはパスカルにする』といってきた。私は札幌に出かけていって丸善で《パンセ》を買い、何とかわかろうと苦労したものだ。しかし、秋になって出てきてから間もなく、中原のフランス語のレッスンはおしまいになった。どうしてか覚えてない。先方が退屈したのかも知れない。
 それでも、私は中原にはよくあった。ある日のこと、彼が急に動物園にゆこうといいだしたので、上野にいったのを覚えている。出かけるのが少しおそかったので、私たちは、最初の半分以上は、ろくに見もせず、何のことはない、走りまわりに来たみたいだった。そのうち白熊のところにくると、中原が立ちどまったので、二人して、長いこと見ていた。~中略~中原は、いつまでも、その熊の姿をあきもせず眺めていた。『動物だって、自然から離されたら辛いにきまってる』とか何とかいってたと思うけれど、よく覚えていない。』

 

中原中也で白熊と言えば、「初夏の夜」という作品を思い出します。この詩は、『また今年も夏が来て、夜は蒸気で出来た白熊が、沼をわたってやってくる。』で始まる印象的な作品で、夏と白熊の不思議な組み合わせが蒸し暑い夏の夜に涼を感じさせます。

 

『 彼は、後年、亡児文也に捧げた《在りし日の歌》の中で、

  おもへば今年の五月には
  おまへを抱いて動物園
  象を見せても猫(にゃあ)といひ
  鳥を見せても猫(にゃあ)だった

  最後に見せた鹿だけは
  角によつぽど惹かれてか
  何とも云はず 眺めてた

  ほんにおまへもあの時は
  此の世の光のたゞ中に
  立つて眺めてゐたつけが……

 と歌っているけれども、私には、この歌の中には彼が愛児を悼んでいるのと、あの時私が見た彼自身の姿とが二重になって映し出されてるような気がする。私は、これを単なる記憶の連想としていってるのではないのだ。本当に、私には不思議な気がする、一体あの時死んだのは、彼の子供だけだったのか?いや、あの時、熊を見ていたのは子供でなくて中原だったのだろうか?こうかくと、どうも馬鹿げた話になってしまうが、実は、私には彼の詩の非常に多くが、自分で自分を悼んでる挽歌としか思えないのだ。
 中原には、子供、それも死んだ子供のイメージがよく出てくる。《月の光》(『お庭の隅の草叢に隠れてゐるのは死んだ児だ』)、《春と赤ん坊》(『菜の花畑で眠ってゐるのは、赤ん坊ではないでせうか?』)等々、例はいくらでもひろえる。そういう詩はもちろん、ほかの詩でも、私には、彼と彼の子供との区別がつきにくい。私にそう思わせるのは、二人とも死んでしまったからであろうが、この死こそ、中原の詩の核心であり、また少くとも私が知ってからの中原の生の意味でもあったのだ。
 彼は、自分自身の死についても、詩をかいている……『詩をかいている』とは、そらぞらしい言葉である。

  ホラホラ、これが僕の骨だ(中略)
  生きてゐた時に、
  これが食堂の雑踏の中に、
  坐つてゐたこともある、
  みつばのおしたしを食つたこともある、
  と思へばなんとも可笑しい。

  ホラホラ、これが僕の骨──
  見てゐるのは樸?可笑しなことだ。
  故郷(ふるさと)の小川のへりに
  半ばは枯れた草に立つて、
  見てゐるのは、──樸?
  恰度立札ほどの高さに、
  骨はしらじらととんがつてゐる。
                   (《骨》)
 
 生きてる時に自分の死を見てしまった人間が、まだ生れてくる前の自分の子供といっしょに、動物園で熊を見ていられないものだろうか?
 いや、どうもうまく書けない。一体中原には、生の側から書いてるのか、死の側から書いてるのか、わからない詩がありはしまいか?』

 

「骨」は、生と死の間から謳われた不思議な作品で、生きている自分と死んだ自分とをゆっくり歩きながら往復して書き上げたような印象を受けますね。どちら側から見て書いたのか?と限定して考えると、確かに吉田先生のように混乱してしまう内容ではないかと思いました。

 

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