ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

吉田秀和が語る中原中也5

昭和51年(1976年)11月に河出書房新社から出版された「文芸読本 中原中也」では、吉田秀和先生が寄稿された「中原中也のこと」と題された随筆を読むことができます。今回は、吉田先生は中原中也に誘われて、小林秀雄と会うエピソードの紹介です。また、このコラムもこれで最後になります!ここまでおつきあい下さり、ありがとうございました。以下、『』内の文章は左記の本からの引用部分となります。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

 
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 動物園を出ると、中原は『小林のとこに行こう』といった。小林秀雄は、そのころ根岸だったか、何でも上野の山からあまり遠くないところに住んでいた。木戸があって、あけるとすぐ玄関だった。私たちは二階に通された。
 私はあとにもさきにも、小林秀雄の部屋に入ったのはこの時だけだが、部屋の中には火鉢と四角い卓のほかには何もなかった。いや窓があって、その下の壁沿いに、二三十冊の仮綴じのフランス語の本がひとならべ、ならべてあった。本の少いのが、ひどく私の気にいった。~中略~
 小林秀雄はやってきて坐ると、優しい静かな声で『どうだい?』といった。誰も言うことだけれども、本当に、彼は涼しい美しい目の持主である。中原は、いつの間に用意したのか、懐中から詩のかいてある原稿用紙をとりだして、彼に渡した。小林は、詩をていねいによんでから、『うまくなったね』といった。
 私たちは間もなく、そこを出た。小林は言葉が少く、やたらと煙草に火をつけては、ちょっと吸うと火鉢の灰の中に立てるものだから、たちまち火鉢が吸殻ともいえない吸殻でいっぱいになったのを覚えている。
 帰り道、中原は、『詩がうまくなったね、とは何事だ』と怒っていた。けれども、それは、その後、青山二郎から『お前さんは話はおもしろいけれど、詩は話ほどじゃないな』といわれた時ほどには、激昂してなかった。』
 
 吉田先生の思い出からは、中原中也を取り巻く人達の色んな姿が浮き上がってくるのを感じますね。

 

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 そうこうしているうちに、私は、だんだん中原と会う機会が少なくなった。新宿花園町のアパートにも、そう、四五回は行ったかしら。そのころは私はもう大学生になっていた。
 それからさきは、中原に子供が生れ、その子供が死に、中原は精神的にひどく参ってしまっているといった消息を、阿部先生から、とぎれとぎれにきいていたにすぎない。
 と、ある日、突然、阿部先生から『中原が死んだ。今日は葬式だから、いっしょにゆかないか』といわれた。「突然」というのも変な話だが、ありようは、その日私が何気なく、阿部先生をお訪ねしたら、こう言われたのである。私はついていった。葬式は西に山を背負った鎌倉のお寺で行われた。十月だというのに、日の暮れるのがむやみと早かった。私は、以来、鎌倉がどうにも好きになれない。あすこは、日のくれるのが早く、なんだか死の国に近い気配がしてやりきれないのだ。
 私は、万事、阿部先生のうしろについて廻った。未亡人にも御挨拶した。そうすると、まだ、この奥さんが、初い初いしい花嫁のころ、神保町の古レコード屋モーツァルト変ホ長調交響曲を買ってきて、中原にお祝いしたことを思い出した。花嫁が、私には何の理由もなしに、あの曲のアンダンテを連想させたからである。
 それから、また何年かして、小林秀雄の《中原中也の思ひ出》という文章をよんだ。そこには、彼が中原といっしょに、ある晩春の暮れ方、海棠の散るのをみている時のことが書いてあった。
『花びらは死んだ様な空気の中を、まつ直ぐに間断なく、落ちてゐた。樹陰の地面は薄桃色にべつとりと染まつてゐた。あれは散るのぢやない、散らしてゐるのだ、一とひら一とひらと散らすのに、屹度順序も速度も決めてゐるに違ひない、何といふ注意と努力』小林はそんなことを考える。彼は、急に厭な気持に襲われた時、『黙つて見てゐた中原が、突然「もういいよ、帰らうよ」と言つた。私はハツとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変らずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた』
 この歌舞伎の情景みちあな文章をよんで、私は私なりに、ハッとした。そうして考えた。中原は、こうやって、とうとう死んだのだ。すると、彼は、ともかく人間と和解はしたのだろうな。そうして、ひさかたの春の光の中で、静心なく、散ってゆく花みたいに、彼は死んだのだ。実際、彼は死ぬずっと前から、自分の詩を見ていたんだ。
 私は、たしかに中原に会ったことがあるにはちがいないが、本当に彼をみ、彼の言葉をきいていたのであろうか?こういう魂とその肉体については、小林秀雄のような天才だけが正確に思い出せ、大岡昇平のような無類の散文家だけが記録できるのである。私には、死んだ中原の歌う声しかきこえやしない。(1962.5)』

 

最後の終わり方が、いかにも音楽の評論家であった吉田先生らしい締めくくりですね。それでは、ここまで読んで下さり、ありがとうございました!