ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

阿部六郎が語る中原中也3

1948年2月(昭和23年)に雑誌「新小説」にて発表された、阿部六郎の「中原中也断片」を『』内に引用の上、下記に掲載しております。また、「中原中也断片」は今回で最後になります。阿部六郎中原中也について書いた、他の随筆も追って紹介する予定です。皆様の中原中也の研究の一助になれば幸いです。

 


『夏も、秋も、私達は一緒に街を放浪した。夜、私の部屋にやって来ては、よく彼は少年時代のことや、京都時代のことを話した。父が死んだあとなど、酒をのむとやはり子供のような暴君になった父のことを話しながら、わあわあ泣き出したことなどもあった。私にとっては、何か自分の根にありながら涸れかけていたもの、一番心臓の近くにありながらまだ触れられたことのないものを彼が眼覚してくれるような気がした。彼の声の変調のこまやかな陰影が私の心を魅した。彼は酔うとよく諸井氏の作曲した『朝の詩』や『失せし希望』を声張りあげて歌った。『サーカス』や『汚れつちまつた悲しみ』をかれ独特のふしをつけて誦した。
 私にも私なりに友情の遍歴があった。何か自分にないものをもって牽きつける心に遭うと、私は自分の鬱結した心をひらいて殆ど無私なぐらいに傾倒した。或る時期の間燃焼すると、昂ってくる我心の衝動のために、相手の心に残酷な凍傷を与え、そのために却って自分の孤独の凍結を深めて行く。そんな風な吸血鬼の宿命を負うているような気がしていて、私は自分の友情に臆病になっていた。
 中原との邂逅は、私には自然の燃焼であると同時に、そういう私の自我心の砕かれる方向を要請として含んでいた。時流からの自己奪回は何か倨傲な価値観の誇に根ざしていた。無心な素朴なものの愛に惹かれながら、そこに運命を決定する寂しさに逡巡してその度に反逆の欲望がきざしていた。昂ってくる我心は、自我の輝きに生きるものの謎に牽かれて、遍歴の可能性の自由を断念することを惜んだ、いわばレンブラントのシトツフェルスの砕かれた心とモナリザの倨傲の間に引裂かれて、その不決断の動揺の中に私は無心な魂に傷を与えた。年少の中原は夙(つと)にそういう自意識を惑わす謎の虚妄と放浪執着の甘さを見ぬいて、心貧しく唯一の運命を愛する者の苦行を自身に課していた。それは彼にとって自然であったが、容易な道ではなかった。
 その間に『妹よ』その他彼のすぐれた愛情の詩が生れて行った。


 中原と初めて会ってから一年たった。五月の或る日の独白。


 日が暮れた。谷の向うの赤屋根の家では、今朝ヴェランダで子供と一緒に叫んでいた少女が緋色の蒲団をしまって行った。白い路の端の街燈の光がだんだん鋭くなってくる。柔い木立に煙っているこのセザンヌ風の風景を私はこの暮方ほど懐しく眺めたことはない。
 明日は旅に出る。帰って来た翌日にはもうこの窓ともお別れだ。
 この宿で私は歴史から没落した。そして中原の烈しく美しい魂と遭った。中原との邂逅は、とにかく私には運命的な歓びで、また偶然には痛みでもあった。
 中原はいま、幾度目かの解体期にぶっつかっている。昨年初冬、私と一緒に入って行った義務愛に破綻して、存在にも価値にもひどい疑惑に落ちている。そして不思議な因縁で離合して来たもう一つの罰せられた美しい魂と一緒に、いま、京都に行っている。生きるか死ぬかだと言う彼の手紙は、決して誇張ではないのだ。「どっちがお守をされるのか分らないのよ」と言ったSさんの顫(ふる)え声にも、私には勿体ないほどのしんじつを感ずる。
 だが、私にはそれをどうすることができよう。
 そして、私の方は、いわば、自分の生理の運命を中原のメタフィジクの影にもぐらせた吸血鬼の方は、いたっておだやかに片隅の日だまりに黄いろい花を植えようとしている。
 初めのものは悲劇としてくる。次にパロディーは喜劇としてくる。というマルクスの洞察がこの場合に当っているのか、そして、私はそういう意味での喜劇を生きる人間に生れているのか。一心に悲劇を愛して来た喜劇役者というのが、私のついの墓碑銘になるのか。
 
 とまれ、私の面しているのは現実だ。方式ではない。


 時々犬の遠吠えに怯える心の影が現実にひろがることを、誰が積極的に折れよう。私は現実的にはまだボンヌ、シャンソン以前なのだ。いま、ひたすらに祈れるものは、ボンヌ、シャンソンの悦びの他にはない。
 ボンヌ、シャンソンの空気は、黙っていてもやって来、恐らく、黙っていてもやがて薄らいで行くだろう。そのことはいまは、願いの外だ。願うものは空気ではない。空気を生かす魂の充実と誠だ。
  *
 しかし、私の我心は一度や二度の叛逆で死にきれはしなかった。』

 

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