ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

阿部六郎が語る中原中也4

1949年9月(昭和24年)に雑誌「文芸」にて発表された、阿部六郎の「詩の道程」を『』内に引用の上、下記に掲載しております。中原中也と交友のあった阿部六郎氏がの彼との思い出を交えながら、熱く解説した内容となっています。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

 


『詩の道程


 夏の日の午過ぎ時刻
 誰彼の午睡するとき、
 私は野原を走つて行つた……


 私は希望を唇に噛みつぶして
 私はギロギロする目で諦めてゐた……
 噫、生きてゐた、私は生きてゐた!
                   (「少年時」)


 これは蛮人の目だ、小鬼の目だ。誰もゐない真昼の祭典に狂酔して走るこの性急な少年のギロギロする目は、どうにもはぐらかすことができない。享楽とか融合とかいふものではない、殆ど生命がけで果し合ひを挑むやうな息づかひだ。これは誰にでも通ずる体験にしても、中原ほど、燃える野を突走る姿と、唇を嚙みしめて目をギロギロさせた、ただならぬ顔が的確に浮んでくる人はゐない。こゝに古代人の神話と同じやうにして、中原独自の神話が胚胎した。私は後年彼がしきりに喪失を歎いてゐた少年時の彼の全一な陶酔を信ずる。その頃、自然が溢れ入つて彼の魂を充実させてゐたのか、魂の充実が自然を氾濫させてゐたのか、私は知らない。そのやうなけぢめが意識された心は既に全一ではない。だがこの少年のギロギロする目は、恐らく感受性の緊張だけではなく、自然詩人の感動域を破り、古代人とも浪漫詩人とも違つた、全く新しい、鋭い、立体的な作業が、既にこの陶酔の中に行はれてゐたに相違ない。充実の中にも、内ともなく外ともなく沸きかへるものの捉へがたさ、言ひ表はしがたさの焦慮が、既に始まつてゐはしなかつたか。
 
 「少年時」といふ詩は、神話の胚胎といふよりもむしろ神話の醒めぎはの追憶であり、悲劇の胚胎の歌といふべきかもしれない。少年は希望を噛みつぶし、ギロギロする目で諦めてゐるのだ。地平の果に立つ蒸気に、世の亡ぶ兆さへ見てゐるのだ。勿論これは充実を喪失してしまつた後の詩人の表現であつて、その瞬間の少年がそれをはつきり意識してゐた筈はない。自分のプロフィルが見えるなんてみじめなことだと彼は言つた。見えて来たのは苦しんだ果だ。だがこゝで見えて来たのは、懐古的感傷の底に沈殿して来た無力なプロフィルなどといふものではない。少年時の魂の生態そのものの精髄が、端的に、全的に掴み出されてゐるのだ。凡そ感傷を絶し、枝葉末節の拘泥を捨てた、大胆な鷲づかみだ。この具体的な断乎たる瞬間は、また現在の精髄の表現でもある。少年はその瞬間、自分が希望を噛み殺してゐるとも、諦めてゐるとも、そのやうな言葉ではつきり意識してはゐなかつたに相違ない。けれどもこれは後年の詩人が自分の現在の絶望の色で無垢な少年時を塗りつぶしてゐるとか、少年の身に覚えのない事実無根の大それた言葉をおしつけてゐるとかいふのとは違ふらしい。さういふ言葉で意識しなくとも、夏の野を走る少年の魂には正にさういふはたらきが行はれてゐたのであり、さういふ風にしか言ひやうのない立ち向ひやうで自然の中に生きてゐたのであつて、恐らく動かない真実の剔抉(てつけつ)なのである。沸きかへる希望に駆られて、世界に溢れる魅惑の奥の絶対のものに迫らずにゐられぬ魂、撥ねかへされることを知つてゐて、そこを踏みこえれば死か発狂であることを本能的に予知してゐるかのやうに、自分の限界に諦めようとしながら苛だつ魂、さういふ中原生涯の悲劇は、既に少年期の底に最も裸身無言に行はれてゐたのであらう。そしてさういふことが自意識の早い眼醒め、従つて楽園の早い喪失を伴つてくることは避けがたい。』


剔抉(てっけつ)・・・えぐり出すこと。特に欠点や、悪事を暴き出すこと。

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