ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

阿部六郎が語る中原中也10

1949年9月(昭和24年)に雑誌「文芸」にて発表された、阿部六郎の「詩の道程」を『』内に引用の上、下記に掲載しております。長かったこのコラムも今回で最後になります。次回からは、阿部六郎氏が他に中原中也に言及している文章を掲載予定です。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

 


『死に熟して行くといふことが結局自分自身に帰つて行くことであるにしても、その過程は、往々、自分自身を失つて行くことのやうに見えて、人の期待も、自分の期待も裏切るものらしい。
 期待などといふことが、もともと身勝手な、酷薄なものかもしれない。
 『在りし日の歌』にかなりの部分を占めてゐる初期の作や『山羊の歌』と重なる時期のものらしい作品を通つて、『山羊の歌』以後はこの辺からかなと思はれる境を一寸入ると、いきなり中原の骨が立つてゐる。


  ホラホラ、これが僕の骨だ、
  生きてゐた時の苦労にみちた
  あのけがらはしい肉を破つて、
  しらじらと雨に洗はれ、
  ヌックと出た、骨の尖(さき)。


 故郷の小川のへりに、丁度立札ほどの高さにとんがつてゐる自分の骨を、あとに残つた霊魂がやつて来て、見てゐるらしい。──だが自分の骨を、こんな風に、生きてゐた時にみつばのおしたしを食つたこともあるのを可笑しがつたりしながら、歌へるといふのは、一体どういふことか。これはふと見舞はれた一瞬の幻影として過ぎ去るものではあるまい。プロフィルどころではない、これほど明確に見てしまつた自分の骨の映像は、さう容易に消え去るものではあるまい。だとすれば、恰も戻つて来た霊魂が過去の骨を見てゐるやうにして、自分の現在の常住坐臥が見えてくる日常の状態といふのは、一体どんなものであつたか。──ともあれ、その慄然とするやりきれなさをこんな風に歌へたといふのは、既に容易なことではない。
 中原は何か大きなものをとり落した。或は一段深い喪失の底へ落ちこまねばならなかつた。その震動が「秋日狂乱」の底に聞える。「僕にはもはや何もないのだ。僕は空手空拳だ おまけにそれを嘆きもしない 僕はいよいよの無一物だ」「あゝ 誰か来て僕を助けて呉れ」といふ悲鳴さへ聞える。昇天の幻影さへもはやない。何にも、何にも、求めまいとさへいふのだ。一体彼は何を失つたのか。「北の海」の暗い浪音が聞える。海にゐるのは、あれは人魚ではない、浪ばかりだ。いつはてるとも知れない呪で、空に歯をむいてゐる浪ばかりだ。それほどのことを、このやうにさらりと歌ひ流して、それで中原は落着いてゐられたのか。
 神はどこに行つたのか。絶えず求めて焦つてゐた何ものか、あれほどひたむきに迫つて行つた何ものかは、どこに行つたのか。
 焦慮はもう詩にはならない。意志の緊張も、精神の摸索も、豊満の慾望も、力の凝集も、『在りし日の歌』は放擲(ほうてき)してしまつた。放擲したといふより、ひとりでに脱落してしまつたのだ。凝りも、力みも、拘泥(こだ)はりも脱落して、彼はたゝ゛流れに浮んでゐるだけだ。それはまだ生の潮には違ひないが、生の潮そのものが既に迎へに来た死の潮に運ばれてゐるやうだ。現在が既に半ば「在りし日」として生きられてゐるもののやうだ。生と死の限界だけではない、日常と詩との間、現実と幻視との間、個我と生の間などの膜も一段薄く、危ふくなつてゐるかのやうだ。たしかに中原の詩は、軽く、自在になつてゐる。青空の風のやうな抒情がどれにも吹きとほり、捨身無常の思と澄んだ底楽しさが融け合つてゐる。重みのない響きか流れのやうに彼の心が沁みわたり、往々悲しい諧謔に戯れ、往々幻妖の影を宿してゐる。
 
 「初夏の夜」「雪の賦」などを読むと、昔ながらのふくよかな肉で、何が変つてゐるのかと思ふ。それでも肌色は透きとほつて、濁りのない哀愁がにじみ出てゐる。「春と赤ん坊」「雲雀」、死児に憑かれた二篇の「月の光」などは、危ふく錯乱に踏みこまれさうな感覚の詩だ。「閑寂」「残暑」「わが半生」などは、澄みきつた心のあまりなほど立派な坐りやうで、このまゝ苦悶もなく死んで行くこともできさうな心の詩だ。
 それにも拘らず、私はまだ、これは自分自身になつて行つたのか、自分を失つて行つたのかといふ問にひつかゝつてゐる。何かしらぬ悲しみにさらはれずには「在りし日の歌」を読むことができない。彼の三十歳の晩年に出しぬかれて、今だにそれに成熟してゐないことを感ずるのである。
 あの何ものかを中原は忘れたのではなかつた。それは「言葉なき歌」で久しぶりで顔を出す。「それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた号笛(フイトル)の音(ね)のやうに太くて繊弱だつた けれどもその方へ駆け出してはならない たしかに此処で待つてゐなければならない。さうすればそのうち喘ぎも平静に復し たしかにあそこまでゆけるに違ひない しかしあれは煙突の煙のやうに とほくとほく いつまでも茜の空にたなびいてゐた」
 彼はまだ待つてゐたのだ。この心で、彼は郷里に帰つていよいむ詩生活に専念するつもりで『在りし日の歌』を纏めたのだ。そして昏睡の果の最後の夜まで右手の指で人に分らぬ字を書きながら死んで行つたのだ。
 それにしても『在りし日の歌』の最後をなす一篇「蛙声」は、恐らく中原としても未踏の立派な詩である。東洋画風の雄渾な筆致で些の危ふげもなく静まり返る天地に、水面に走つて暗雲に迫るものは、生の鬼気である。』

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