ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

中原中也の短歌及び小説集

中原中也の詩作の始まりは短歌でした。ここではその一部と彼が書いた小説「その頃の生活」における幼少期から京都へ転校するまでを抜粋し紹介しております。以下、『』内の文章は筑摩書房が1988年に刊行した佐々木幹郎著「中原中也」より引用したものとなります。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

 


『     冬されよ
 冬去れよそしたら雲雀(ひばり)がなくだらう桜もさくだらう
 冬去れよ梅が祈つてゐるからにおまへがゐては梅がこまるぞ
 冬去れば梅のつぼみもほころびてうぐひすなきておもしろきかな
 山口師範附属小学校、尋六、なかはらちうや生
 (「防長新聞」大正九年二月十七日付)』


『    子供心
 菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ
 ぬす人がはいつたならばきつてやるとおもちやのけんを持ちて寝につく
    
     春をまちつつ
 梅の木にふりかかりたるその雪をはらひてやれば喜びのみゆ
 人にてもチツチツいへば雲雀かと思へる春の初め頃かな
  
     小芸術
 芸術を遊びごとだと思つてるその心こそあはれなりけれ
 (「防長新聞」大正九年四月二十九日付)』


大正九年四月二十九日は、中原中也の十三歳の誕生日でした。最後の句を読んで彼の中に既に子供の心はなく、大人の視点から弟らを通してこれらの句を詠んでいたのではないかと、考えさせられるものがありますね。


『友食へば嫌ひなものも食ひたくて食うてみるなり懶(ものう)き日曜
 怒りたるあとの怒よ仁丹の二三十個をカリカリと囓む
 命なき石の悲しさよければころがりまた止まるのみ
 晩秋の乳色空に響き入るおお口笛よ我の歌なる
 かばかりの胸の痛みをかばかりの胸の甘味を我合せ知る
 何故か今日胸に幻漂へる旅せし友の目に浮びては
 この朝を竹伐(き)りてあり百姓の霧の中よりほんのりみゆる
 (「末黒野」大正十一年五月頃に刊行されたと推定される)』


『     去年今頃の歌
 猫をいだきややにひさしく撫でやりぬすべての自信萎びゆきし日
 (「防長新聞」大正十二年二月十七日付)』


『父が十三の時父の父が或失敗をして逃げ出して行つたために父はその時東海道を一人で東京迄出た。そして父の従兄から出る僅かの金で父はかつがつ軍医学校まで卒へた。そして大学に再び這入らうとした時或独乙(ドイツ)人が君は独乙語が達者なんだから日本の大学なんかに行かないで金を作つて留学でもしろと説かれて父は大学を思ひ止まつたのだつた。その後柳樹屯の衛戌(えいじゅ)病院とかに行つたさうだ。其処で患者は増すし却々人気も好かつたが、暫くして院長に大学出が来ると、父が大学出でないといふ理由の下に福院長に大学出を呼び寄せて父をその下にやつたのだ。ー父はそのことのために、私の兄弟五人を全部大学迄はやると言つて今開業して一生懸命になつてゐるのだ。で、長男の私が学校を打つちやつて詩人になるとか脚本家になるとか勝手な熱を吹いてゐることは父に取つては自分の命を喰ひ取られることとしか思へなかつたのだ。
 「お父さん、天才を持つ親は仕合せですよ。」ー私は父が私のことで悄気たりしてゐる時はせめてもの務めででもあるかのやうにさう言つた。
 「偉い者になつて貰はうなんてチヤンともう願はないから、学校だけを平凡で好いから真面目に出て呉れ。」
 父は必ずその時はさう返した。
 その父が、今私の傍にただ坐つてゐるのだ。
 X光線の治療をする音が聞こえてゐた。看護婦の巫戯ける声がしてゐた。弟が近所の子供と裏庭で遊んでゐる声が騒しかつた。
 父がつと立つて便所の方に行つた。
 「みんな静かにして遊べ!」
 父の声が聞えた。
 私は頻りに早く出世したい気持がして来て、その気持に引き摺られるやうに父のゐない部屋を歩き、歩いた。
 (「その頃の生活」大正十二年~大正十三年)』


『「おーい、みんな来い。」
 私は三人の弟を集めた。昼食のすぐ前頃だし田舎道を通るものなんて殆どなかつた。私は一度四囲を顧みた後弟達に言つた。
 「お前達は俺の弟だ俺の弟だ!ーお前のする仕事とお父さんとは関係ないぞ!」
 私は感情に駆られて出まかせを言つた。十二になる弟が私の顔をみて笑つてゐた。十の弟が下を向いて黙つてゐた。尋常一年の弟は唯ポカンとしてゐた。
 (中略)
 「お前達は俺の弟だ俺の弟だ!お前の仕事はお父さんと関係ないぞ!」ー「ハハ、俺にしては余りにアブノーマルな言葉だ。」さう嘲るやうに先刻の言葉を言つてみたが、何だか気懸りな言葉だつた。
 (「その頃の生活」大正十二年~大正十三年)』


『私は、今態々(わざわざ)落第して、それをキツカケに京都の某中学校に転校してゐて、「その頃の生活」の環境といふものと離れてゐる。そして私はもう今では感傷といふものが反撥的にか、殆どなくなつて居る。その頃のやうな詠嘆的な詩は作らうたつて作れなくなつてゐる。
 親は唯金を送つて呉れるにのみ必要な物だと思つてゐる。学校は下宿にばかりゐては胃が悪くなるから散歩の終点だと思つて通つてゐる。
 私は、「尠くとも私のためには、一切が私のために存在するのだから。」つて大きなことを言つてゐる。「我に宗教なく道徳なく規約なし、唯機転のみ。」とか言つてゐる。
 大変呑気である。こだはらなくなつてゐる。
 併しまだ私には出世したい野心がある。
 (「その頃の生活」大正十二年~大正十三年)』