ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳田秋声の作品及び人物評伝集

ゲーム「文豪とアルケミスト」で初めて徳田秋声について知った方も多いのでは無いでしょうか?私は、泉鏡花が好きな関係で紅葉門下であることだけは、知ってはいましたが作品までは読むには至っていませんでした。彼は、同じ文壇においては特にノーベル賞受賞作家である川端康成からの評価が高かったことで有名です。他には、広津柳浪の息子である広津和郎からも絶賛を受けていました。ここでは、文壇の人達の徳田秋声の作品評価などを紹介しています。

 


以下、『』内の文章は併記してある作品からの引用となります。
また、現代語に翻訳するに当たって旧漢字は新漢字へ。現在の一般的な知識では読めない文字などは平仮名あるいは、読み仮名を表記しておりますこと、予めご了承下さい。


徳田秋声硯友社出身であった。例の横寺町の紅葉山人の家塾ー庭からすぐ行けるようになっている二階建ての家塾の中で、風葉、春葉、白峰などと一緒に暮らした文学青年のひとりであった。何でもかれは金沢から桐生悠々などと一緒に出て来て、その藻社の群の中に入れて貰った。それにも拘わらず、硯友社の江戸趣味ー都会趣味は、その感化を十分にかれに与えることが出来なかった。それにかれは藻社の連中に比して、学問があった。英語にも通じていた。その当時口に上がった外国の作家の作品を読むことも出来た。かれも矢張私達と同じように「しがらみ草子」の綺譚を読んだり、「文学界」を読んだりしたひとりだ。私の記憶では、「文藝倶楽部」に「藪柑子(やぶかうじ)」という小説を掲げて、ちょっと評判が好かったのが、一番最初であったように思われる。今でもそのように、その作には何処かしっかりしたところと暗いジミなところとがあったように覚えている。』
田山花袋 「現代日本文学全集22 徳田秋声集一」より)


『「あらくれ」は何処をつかまえても、嘘らしくない』
夏目漱石 「縮図」ほるぷ出版より)


現代日本の文学者のうち、作家として、私の最も敬う人はと問われたならば、秋声と答えるだろう。現代で小説の名人はと問われたならば、これこそ躊躇なく、私は秋声と答える。ーこの答えは、昭和八九年の頃からいつも変わりなく、私のうちにあったものである。』
川端康成 昭和14年 徳田秋声の「仮装人物」の評伝においての文章より)


『同じ名匠にしても、島崎藤村氏や泉鏡花氏のあの意識的な、考え方によっては浅間(あさま)しい精進とちがって、強いられるところがなにもなく、徳田氏の作品にゆえ知らず頭の下がる……。』
川端康成 「三月文壇の一印象」より)


『私は自分で想像した通り「縮図」の読後に批評をかく気持ちが起こらなかった。完璧の古典、作者の我があらはでない名作に出合った時の心である。……(この小説は)人生あるいは人間そのものが直接に芸術そのものであり、同時に作者そのものであり、この三つがそのものとして一つの名品を生かし合っているという、希有の例である。……秋声氏の表現はこの最後の作品に来て真の高雅に達した。……「縮図」が近代日本の最高の小説であることは疑いないが、日本の「最高のもの」に通じた作家も秋声氏のほかにはないようである。』
川端康成 「現代日本文学全集22 徳田秋声集一」より)


ここまで読んで、川端康成徳田秋声の「縮図」に対する高い評価が気になったかと思います。簡単に説明しますと、「縮図」が新聞小説として連載された時代は折しも第二次世界大戦下の日本で、この小説もやはり当局によって中断され、書きかけだった原稿と共に出版されたのは徳田秋声の死から二年後のことでした。
秋声はこの時、息子の徳田一穂宛てにこう書き残しています。


『どうも一緒に行ってやらなければならないので、一と足ちがいとも思うが出かけます。しかし今「都」(東京新聞の当時の名前)の堀内君に電話しましたが、少しくらい妥協してみたところでダメのようです。妥協すれば作品は腑ぬけになる。おろそかに立場を崩す訳にも行かないから、この際潔く筆を絶とうと思い、その旨堀内君に通告しておいたから、そのつもりでいてもらいたい。いずれ後でゆっくり話も聞きましょう。秋声』
(「現代日本文学全集22 徳田秋声集一」より)


この時、徳田秋声が作品が腑ぬけになるから、潔く筆を折ったことを踏まえ。この作品が戦時下で書かれたことを鑑みた上での徳田秋声の文学者としての深い態度に、川端康成は強い感銘を受けたようです。
また、川端康成徳田秋声の郷里金沢に秋声の碑が建った時「日本の小説は源氏にはじまって西鶴に飛び、西鶴から秋声に飛ぶ」と語ったそうです。


当の秋声自身は、野口冨士男が書き残したところによると「小説はむずかしいものだね」が病床における最後の言葉でした。

 

自然主義の初期には徳田秋声はこの派の作家とは見られていなかった。紅葉の門下では、鏡花風葉秋声春葉の四人が四天王といったような地位にあったが、秋声ははじめから地味でくすんでいたので、風葉や鏡花ほどには注意をひかず、あまり批評に上がらなかった。読売新聞に「雲のゆくへ」(明治三十三年)を掲げて、多少評判がよかったが、その頃の彼は通俗小説の範囲で筆を執っていたのであった。鏡花は特異な作家で、時代の新しい思潮に動かされることろはなかったであろうが、風葉は、新たに起こった自然主義には関心を持っていた。秋声は積極的にこの派の文学に心を寄せていなかった。その仲間にも加わろうともしなかったようだ。しかし、彼の生まれながらの素質が、自然主義に敵していたので、努めずして時代の流れに乗じて、その方面の文学を製作するようになったのであった。明治四十一年に、国民新聞の文藝方面の担当者高浜虚子に勧められて寄稿した「新世帯」には、秋声の小説として面目一新の趣きがあった。』
正宗白鳥 「自然主義盛衰史」より)


正宗白鳥はハッキリと事実を事実だと書かれる、歯に衣着せない表現をされる人であったことが窺える文章ですね。


『その中に自然主義時代が来た。今度はその自然主義の後からのこのこついて行った。引っ込み思案で、無性者で、神経質で、病弱で、胃病で、始終曇天のような気分で生きていて積極性がなく、物事に対して受動的である氏は、その時非常に勉強したとも思われない。小栗風葉自然主義への華やかな転向をはかってジャアナリズムの上で勇躍しているのに、氏は地味な作物を書いてぽつりぽつりと歩いて行った。その間に短距離選手国木田独歩の活躍があり、田山花袋自然主義の闘将的奮闘があり、島崎藤村の長者風の陣ぞなえがあり、正宗白鳥ニヒリズムの突撃があり、文壇はにわかに色めき渡った。その後から主義主張がなく、地味で、正直で、いつの間にかじわりじわりといろいろなものを消化し体得していく感受性をもって、秋声はのこのついて行った。のこのこついていく中にいろいろなものをじっくり九州して行った。そしていつの間にか、そうだ、自然主義の主張者よりも、もっとその本質を身につけてしまった。
 それはほんとうに不思議な消化力だ。恐らく学ぼうという努力の意思なくして吸収紙のように吸収していく感受性ー頭も眼も皮膚さえも、いつでもそういう吸収作用をしているのであろう。「新世帯」あたりから確固とした足取りで始まった彼の作風は、「足跡」「黴」「燗」「あらくれ」に至って、とうとつ日本の自然主義小説の最高峰に達してしまったのだ。……今日自然主義時代を振り返ったら、秋声のこれらの作物は、他の同時代の作家達よりも、最も自然主義研究のために役立つであろう。ー主張する積極的の天才ではなくして受け入れていく天才、秋声氏の天分はそこにあるのである』
広津和郎 「現代日本文学全集22 徳田秋声集一」より)


広津和郎は、秋声の長い生涯において折に触れて秋声本人に会ったりと色々と交流があったせいか、広津和郎の秋声に対する徳田秋声論は非常に人間愛と優しさに溢れた内容になっています。
最後に、彼が寄せた文章で自分が一番いいな、と思った文を紹介します。


『人間を軽蔑しない秋声の眼は、人間の行動をも軽蔑しない。それが世間道徳的に宣揚される種類のものであっても、あるいは人前に隠したがるようなものであっても、秋声は自分の納得のいくようにしかそれを見ていかない。そこで所謂卑小といわれる行動でも、それが必然なものである限り、作家秋声はそれを無視しないし、それを取り扱う事を恥じらったり躊躇したりもしない。』
広津和郎 「現代日本文学全集22 徳田秋声集一」より)