ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

川端康成が語る徳田秋声

川端康成は実は中央公論社さんが出版された「日本の文学 徳田秋声(一)」に解説もどきを掲載しています。なぜ、解説もどきなのかは下記の内容を読んでいただくとして。私は、個人的にこの川端康成の解説もどきが徳田秋声に対して愛情深く滋味に溢れているため、非常に好きです。以下、『』内の文章は左記の本からの引用し内容について紹介しております。

 


『私は秋声解説の苦渋の折りから、秋声の故郷、金沢の地を一日でも踏めば、なにか啓示があろうかと思った。』


こういった文が、解説の最初の章から飛び出したので、読み始めたときはちょっと色々な意味で心配になりながら、読み進めました。
最初の方は、川端の金沢における体験が主になっています。


『金沢で、島田清治郎の「地上」を映画撮影したことのある吉村公三郎と電車に乗り合わせて、金沢へ行って来た話をすると、吉村は言った。金沢よりも京都の方が好きです、金沢は武家の町です、京都は町人の町です。』


川端康成も吉村氏の的確な金沢の土地柄の説明に関心されたのでしょう。私も、読んでいて確かにと、納得しました。


『いや、晩年、私が接した秋声には、古武士の面影もあった。端座する島崎藤村、そして端座する秋声の前に出て、私は秋声により多く「武家」を感じた。明治の初めからの人のせいか、加賀百万石、金沢の武家育ちのせいか。』


現代では、遠くなってしまった士族の雰囲気がどのようなものであったのか?今となっては想像するしかありませんが、川端が肌で感じるほど秋声からは「武人」ではなく「武家」育ちである気配を感じさせたのは、やはり母方の家を継ぎたかったことも踏まえてあるのかもしれませんね。(秋声の母は、秀吉のお墨付きで大阪から客分として来た津田家。)


『秋声は二年下の鏡花が十七歳の上京よりも二年おくれ、明治二十五年、二十一歳の春、中学の同級以来の朋友、桐生悠々と上京、二人で紅葉を訪ねると、その前年に入門をゆるされた鏡花が玄関番をしていた。
 「泉は袖口に綻びの切れた、町っ児らしい柄合いの着物を着ていたが、ニコニコしながら、『先生は今ちょっとお出かけですが……。』と挨拶した。
 『何時ごろおいでですか。』
  先きに立っていた秋声がきいた。
 『さあ、ちょいちょい気紛れにお出かけになりますから。』
  二人はしかたなく原稿を懐ろにしたまま、出て来た。居留守のような気配にも思えたが、真実(ほんとう)のようにも思えた。」
  翌日、原稿を送ったが、「折りかえし突き返して来た」、紅葉の手紙に、「『柿も青いうちは鴉も突つき申さず候』という文句もあった。
  そんな文句も秋声には強く当たったものらしく、その手紙を二つに裂いてしまった。」と、「光を追うて」(昭和十三年、秋声六十七歳の自伝)にある。』


本来であれば、上記の文章中、秋声と記してあるところは「光を追うて」における主人公の等(ひとし)の名前が入りますが、ややこしくなるため秋声としてあります。「光を追うて」は、秋声の自伝小説でありこの小説の主人公の名前は向山等(むかいやまひとし)といいます。名前の由来は、金沢市にある卯辰山からで現在この山には秋声の文学碑が建っています。ちなみに文学碑としては、徳田秋声のこの碑が記念すべき第一号の文学碑だったりします。


『私はこの「解説」を書くために、まず「あらくれ」から読みはじめたところが、すらすらとは進まないし、注意を集めて向っていないとのみこみにくいしで、思いのほか時日をついやした。私の耄碌のためではあるまい。作品の密度のためであろう。秋声は「作品の密度」と、よく言った。「あらくれ」が速く軽くは読めないように、秋声は楽に読めない作家であるらしい。作家の感興に読者を乗せることも抑制されている。秋声の作品が広い一般読者を持ちにくいわけの一半も、私は「あらくれ」を読みながら納得できたようであった。だいたい、私は自分が作品の解説を書けるとは思っていないし、ここでも秋声作品の解説を書こうとは考えていないのだが、解説に代えて、読者にただ一つ望みたいことは、秋声の作品をゆっくりゆっくり読んでみてほしいということである。秋声の場合、これが凡百の解説にまさる忠言と信じる。』


秋声と同じ早さでゆっくり歩くように読み進めることを勧められる川端康成が、うっかり可愛いと思いました。


『私は「あらくれ」のところどころの三、四行や一頁をくりかえし読んで、いろいろの発見があった。秋声のすぐれた自然描写、季節描写なども、その一つである。広津和郎の「徳田秋声論」に、「縮図」の文章を批評して、「一体が簡潔な秋声の文章もここに至って極度に簡潔になり、短い言葉の間に複雑な味を凝縮させながら、表現の裏側から作者の心の含蓄をにじませている技巧の完成は、彼が五十年の修練の末にたどりついたものであることを思わせる。」とあるが、「縮図」(昭和六十年)より三十年ほど前の「足迹」、「黴」、「燗」などにさかのぼっても、そのような秋声の文章はすでに見える。』

 

『私は「縮図」についての感想で、「秋声氏の表現はこの最後の作品に来て真の高雅に達した。」とし、「『縮図』が近代日本の最高の小説であることは疑いないが、日本の『最高のもの』に通じた作家も秋声氏のほかにはないようである。」と書いたことがあった。「日本の『最高のもの』に通じた作家」の一人としての秋声を、私は尊ぶのである。』


なんだか、実に川端康成らしい感性によって紐解かれた秋声に思わず、川端がノーベル文学賞を受賞した理由である「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため ”for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind.”」を思い出しますね。


『野口の「徳田秋声伝」によって、私は昭和二十二年の秋、徳田秋声文学碑の除幕式に、金沢へ招かれて行ったのを思い出した。式の前夜の記念講演会で、「日本の小説は源氏にはじまって西鶴に飛び、西鶴から秋声に飛ぶ。」と私が述べたことも、建碑次第の「おぼえ書」に出ていると、野口の伝記で知った。』


まさか、ここで川端が秋声に捧げた名文が登場するとは思いませんでした。この文章は、以下に続きます。


『私のこの言葉にはいわれがある。小島政二郎が慶応大学の教師をしていたころ、菊池寛が小島に、君の大学へ博士論文を提出しようかと思う、題目は日本小説史論だが、僕の史論は、源氏物語から西鶴に飛ぶ、それでもいいかと言った。小島が沢木文学部長に伝えると、沢木はそれでもいいと答えたとか。この話を私は小島から聞いた。菊池は博士論文を書きはしなかったが、私は菊池の「源氏から西鶴に飛ぶ。」に、強い衝撃を受けた。』


実は、元ネタは菊池寛であることをきちんと表明される川端康成に人間としての清冽さを感じました。秋声への賛辞は、菊池寛の言葉から出て川端康成が仕上げた名句だったのですね。


『日本の小説は西鶴から鴎外、漱石に飛んだとするよりも、西鶴から秋声に飛んだとする方が、私はいいように思う見方である。』


『「自然主義が日本風の自然主義になったのは、日本の文学にとって、喜ぶべきことである。そうして、その日本風の自然主義が勃興した時、多くの作家や評論家が、あるがままの人生を書くとか、無技巧の技巧とか、いろいろな理屈を述べたり言い合ったりしたが、そういう時でも、秋声は、何にも言わなかった。しかし、何にも言わなかった秋声が、何にも言わずに、そのころも、そのころから四十年ほど後の今も、書きつづけている、小説が、もっとも、日本風の自然主義の作品であり、日本的な作品である。と、宇野は広津と通じる秋声観を、広津より控え目な言葉で、桜井版「挿話」の「解説」に書いている。」』


宇野は、宇野浩二のことで、秋声と同じく小説家で代表作に「蔵の中」、「思ひ川」などがあります。芥川龍之介など文豪達と交流が多かった人で、当時の文壇を語る中で折りに触れて顔を覗かせる作家でもあります。
これ以降、秋声の晩年であった第二次世界大戦下の日本をどのように秋声が捉えていたかが続きます。


『ことに桜井版の「作者の言葉」と河出版の「あとがき」とは、太平洋戦争さなかの昭和十七年に書かれ、あのような戦時下、作家秋声の精神が、今の私にもひびいて来る。』


『「今は大東亜戦のうたた闌(たけなわ)な時代」、「シンガポールやバタンの陥落も目睫(もくしょう)」、「蘭印、ビルマを制圧して、濠州を睥睨(へいげい)」の時、「我らの認識に飛躍的のもののあるのは当然だが、この戦争が長びくことも明らかであり、文化戦の継いで来ることも確かである。」とは書きながら、秋声は、「すべてのものに段階があり、足は一歩一歩手堅く踏まれなければならないが、何よりも閑却すべからざるものは人である。我らはまず人として生きなければならないであろう。」(昭和十七年二月、「挿話」の「作者の言葉」)「人」が最も「閑却」され、「人として生きる」ことが最もおさえられた、そのなかでの発言である。』


当時、冷静に秋声が時局を見ていた文章がこれに続き、最後はこうまとめられています。


『(以上、秋声についての私の感懐の一端を、気ままに書いただけで、作品の解説にはおよべなかった。この全集の「徳田秋声(二)」の江藤淳の解説を参照してほしい。)』