ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

正宗白鳥が語る田山花袋2

筑摩書房様が出版された「現代日本文学全集21 田山花袋集(二)」より正宗白鳥田山花袋論の現代語訳を以下に全文記載します。かなり長いので、お暇な時にお読みいただければと思います。

 


 ところで、私自身は魂と魂の融和ということなんかについて、あまり心を労したことがないので、ダンテやゲーテや田山氏などの女人礼拝の心境については暗中模索をしているに過ぎないのだが、しかし、銀座漫歩の人々にも、ラッシュアワーの群衆にも、日常生活の雑多粉々の表面的事件を除いて、核心をのぞいて見たら、そこには何等かの形で、女人礼拝の面影が存しているのに気づくであろう。日本の男子は今なおスパルタ的道念を尊んでいるが、実際は女人を中心に、産めよ殖えよ愛せよの生存律の下に活動し、そのためにさまざまな社会生活苦を嘗(な)めているのだ。「百夜」の中で、作者は述懐している。「あまりに情痴過ぎるかも知れないが、かれの経て来た五十年の生活の中では、それより以外には大したものがあったとは思えないのであった。金を稼ぐこと、自分の名を世間にひろげること、別な反対な勢力と相争うこと、生活状態を一歩々々好くして行くこと、そういうこともこの世に生きて行く上に於いては、かなりに無関心ではいられないことには相違なかったが、それも一方にかの女があるからで、もしかの女がかれの生活の途上にあらわれて来ていなかったなら、その生活力も決してそう強くは働かなかったに相違ないのであった」と断言している。
「百夜」の中の島田は、「恋の殿堂」に於いては、父親としてその娘と論争して真情を吐露している。「しかし、親は子のためばかりこの世の中に存在しているのではないよ。親だって、子にわからない苦しみもするよ。子のためにならないことでもやめられないこともある……」
「それはそうでしょうけれども……そういう個人的な心の境は、父さんなんかはもうとうに通り越して来ている筈だと思うのです。もっと先まで行っていて下さらなければならない筈だと思うのです……」
「ところが通り越して来ていないんだ!昔の通りなんだ!」「……お前などにはまだわかるまいが、この年までおれは異性のうちに恋を求めて、ひとつとしてその恋を本当につかんだためしがないのだ……。そして、そういう風にして恋愛放浪をやっているうちに、いつか年は遠慮なく経って行って、もう髪は白くなる、額は皺で満たされる、そうでなあくてさえ駄目なやつが一層駄目になる。そしてお前などからは、年を取ったという唯ひとつの理由で、そういうことは人間のやることでないように非難される。しかし、政子、この父親だって、若い人達と少しも変わっていはしないのだ。熱い血が燃えているのだ。それでいて、もう誰にも相手にされないのだ……。この間もつくづくそれを痛感した……」
 こういうことを感じているのは、彼が特殊な人物であるためではないと思う。公言するかしないかの相違で、多くの人がひそかに感じていることではないだろうか。
「幸福なんて、一生金の草鞋でぐるぐる廻って探して歩いたって、とても見付からないものかも知れないのね」
 田山氏に多数の小説の題材たる経験を与えた女をして、彼女の一生の結論みたいにこんなことを云わせ、作者をしてメーテルリンクの「青い鳥」を思い出させているが、私が、この作者の晩年の三大長篇を通読して、特に心に留まったのは、作者の空想の楽しみと宗教的陶酔とである。これ等の小説の主人公は、さまざまな障害はあっても、愛人に会っては生き甲斐のある悦楽を覚えているのであるが、しかし、女を目標としてさまざまな空想を逞しくしているところに、却って純粋の悦楽があったのではないかと思われる。「蒲団」以前、すなわち、「名張乙女」や「野の花」時代と同様の女人憧憬の空想が、六十歳近い作者の頭脳に漂っているのだ。老人となると、頭脳が枯渇して空想の華が萎(しぼ)むと、一般には思われていて、私などもそう信じていたが、これ等の小説でみると少女にあこがれて詩を作っていた時分と同様に、独りで恋の境地を空想してホクホク喜んでいるのだ。現実々々と云っても、空想の領分は広く、且つ人間に取って重い価値をもっていることは、これによっても察せられる。そして、田山氏だけが特殊な老人であったためではなく、多くの老人が、皺や白髪に外形の衰えは見せながらも、恋愛その他について、二昔も三昔も前のたわいのない空想をもっているのではあるまいか。……それはわらい事ではない。

 宗教についてもそうだ。「残雪」は、この作者が恋愛から宗教に移った経路を書いたもので、他の小説とはいくらか趣を異にして面白いのであるが、しかし、これを読んで、作者が本当に悟道の域に入りきったと思ったら大間違いである。
 作者は、田舎の寺で、偶然経文を読んで、大いに感激し、人生の帰趨(きすう)ををそこに見たので、
「……いろいろなことを知った。解けない問題をどのくらい解いて貰ったか分からない。……この間もすっかり打たれてしまって、これkらの残った一生を佛の功徳に報いても、決して悔いないとすら思ったからね。……こうした大歓喜を受けた得難い経験を僕は世間にも分かってやりたいとつくづくおもったね」と興奮して云い、
「……心は輝き光明と安楽とに満たされた。かれはもう帰って行く都会を呪いはしなかった。事業のはかなく功名の空しいのを嘆きはしなかった。またかれが住んでいる芸術の世界の陥穽(かんせい)を恐れはしなかった。人生の欺騙(きへん)乃至虚偽にも多くの心を費やさなかった。かれは再び青年に戻ったような気がした。陽影は朗らかに庫裡(くり)のひろい勝手にさし込んで来た。雀はその生を楽しむように嬉々としてとして百囀した」と歓喜の感を述べ、
「さびしいしかし春を像想した冬の野がひろくかれの前に展(ひら)けた」と、意味ありげな句をもって、一篇の小説を結んでいる。
 だが、こういう豊かな宗教感も、多分の感傷味をもった一時の気休めに過ぎなかったことは、「残雪」のあとで書かれた「恋の殿堂」と、「百夜」の主人公とが旧態依然として、悟道の人らしいところの少しも見られないのによって、明らかに推察せられるのである。人は境遇により、或いは修養により、次第に変化するには違いないが、根本的の烈しい変化は滅多にあり得ないのである。それは、他人のことよりも、自己を反省してよく分かるのだ。田山氏の如きは、文学の上で非常な飛躍を試みた人であったが、それにかかわらず「名張乙女」「野の花」の気持ちは、「百夜」には、初期の作品への還元が見られるのだ。「だって、君、人生にそれより他に何があるかね。事業とか名誉とか、そういうものも一時は大きなものであることはあり得るさ。しかしそういうことは雪か霧のようなものだからな。たちまち消えてなくなるからな。ところが男女のことはそうは行かない。死ぬまでくっついて来ている。人間は墓穴までその心を運んで行く」と、作者はろうろうそういう感慨を洩(もら)しているが、田山氏自身忠実に墓穴までその心を運んで行ったのだ。
「残雪」には、女主人公が、同じ稼業の女と、ある男を争って敗れたたため、刃物三昧をして、投身自殺を企てたことが書かれているが、そのために彼女が死生の境に彷徨しているのを慰藉(いしゃ)し愛撫して、決して彼女に愛想をつかさない男主人公の純情が子細に述べられていて、我々読者に作者の面目を偲ばせるのである。三種の長篇のうちでも、このあたりが最も小説的興味に富んでいて、この作者の真心が最もよく現れている。これに継いで、例の宗教感菩提心の発作が書かれているのは、心理的に当然の順序であろう。

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