ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

正宗白鳥が語る田山花袋3

筑摩書房様が出版された「現代日本文学全集21 田山花袋集(二)」より正宗白鳥田山花袋論の現代語訳を以下に全文記載します。かなり長いので、お暇な時にお読みいただければと思います。それにしても、自分は柳田国男推しな一面があるため、私の脳内では星座のように星と星の間に走る見えない線ごとくここは、柳田国男と繋がっている!と思って掲載したら他の方には、唐突に文中に柳田国男が出て来たとなるらしくて。これが、志賀直哉の文章にとつぜん武者小路実篤が飛び出す現象の原因では……?と思ってしまいました。これは、私自身を鑑みて思うのですが、志賀直哉はだいぶ武者小路実篤を自分の魂の中に入れ込んでしまわないとできない芸当なので相当です。

 



 五月十三日の夜、私は、まだこれ等の長篇に目を触れない前に、麻布の龍土軒で開かれた田山氏の三回忌ーすなわち逝去後満二年を期した追悼会に出席した。ふるくから仏蘭西料理を看板にしていたこの洋食屋へは、十数年来行ったことがなかったが、その家は昔のままで、現代化した東京にこんな所があるのかと思われるような古色蒼然たるもので、仏蘭西で見た十八世紀の料理屋を思い出させた。そして、我々の目には、昔の記憶が浮かんで、由緒のある歴史の跡を弔うような気がした。追悼会の来会者にも、文壇の新人は一人も加わっていなくって、自然主義文学の凋落の影がそこに見られるようで、追悼会はますます濃(こま)やかであった。私などが文壇に出た頃、「龍土会」と名づけられた、新進気鋭の文学者の会合が、この龍土軒を会場として、毎月催されていて、知名の自然主義の作家は多くその会員であった。私は龍土会が盛りを越した頃に加入したのであったが、国木田、小山内、岩野、蒲原、中澤などの諸氏が、元気のいい声で、議論を闘わし、饒舌を弄(ろう)していたことが、私の記憶に明治文学史の一現象として、鮮やかに刻まれている。田山、島崎氏も無論会員であったが、どちらもおとなしかった。
 田山氏は、あの頃の作家仲間では、やはり巨大な作家であったと、私は今思っている。他の誰彼に比べて、氏は凡庸であるらしく見えるが、凡庸を押し進めて行って、才智を弄しないところに、巨大な作家の風貌がおのづからあらわれていると云っていい。
「恋の殿堂」などに描かれている若い男女の恋愛は、老いたる主人公自身の恋愛の描写に比べると、甚だ粗末であって生彩を欠いているし、老主人公が青年少女の情事に対する態度も随分身勝手であると云っていいのだが、ここに、この作者の主張していた客観的態度が、作品の上には充分に実現していないことが証明されるのだ。「露骨なる描写」は試みられていても、この作者のよく云っていた「鋭いメス」はそんなに動いていないのだ。藤村・秋声・泡鳴・蘆花などの諸氏が、皆んな自叙伝風の小説を作り出し、それ等の多くは、それぞれに一くせある感じがするが、田山氏のは凡庸で、芸術家らしい綾がない。経験や感想を、べたべた書きつづけたもので、経験さえあったら、誰にでも書けそうに思われる。しかし、これを凡庸と思うのが、我等が、自分等の文学標準に捉えられてるためなので、凡庸丸出しのところになまなかの非凡以上の偉大さを認めなければならぬかも知れない。
 今読んだら稚拙凡庸の作品と思われるだろうが、「蒲団」は、何と云っても、明治文学史上の画期的の小説であるのだ。追悼会の席上で森田草平氏は、昔田山氏の誤訳が問題となったことを語っていたが、田山氏の翻訳に間違いがあったばかりでなく、「西花余香」と題された欧州近代文学読後感、その他、自然主義の中心人物となった以後の、東西文学批評や解釈なども、決して的確であるとは云えないので、自己流の早合点も多かった。先日ある会で日本の山水美の話しが出た時、某氏が田山氏の旅行記には事実の相違が多く、信用が出来ないと非難していた。しかし、田山氏は西洋文学を曲がりなりにも読んで、自分自身で解釈したところによって、自分の創作態度を改めようとし、「蒲団」のような、他人の物笑いになりそうなものをも、自分でそれを是なりと思ったが故に、断然として創作した。「僕は昔から比較的正直に世間に生きて来た。誠実を失わずにやって来た。言はば丸はだかで刀槍の林立する中を通って来た」と、「恋の殿堂」の、宗教陶酔時分に云っている。文学の上の氏の革命態度は、氏自身の作品を根本から異なったものにはなし得なかったが、他の文学者に及ぼした影響は甚大であった。花袋流の自然主義が流行して文壇を賑わしたのだ。賛成者でも反対者でも、盛んに自分々々の「蒲団」を書き出し、自分の恋愛沙汰色欲煩悩を覆うところなく直写するのが、文学の本道である如く思われていた。機運が熟していたためであろうが、その傾向に火をつけたのは田山氏であった。私には、田山氏があんな創作やあんな文学観を発表しなかったら、自伝小説や自己告白小説があれほど盛んに、明治末期から大正を通じて、あるいは今日までも、現れなかったであろうと思われてならない。その証拠には、龍土会会員で西洋近代文学を耽読していた者は、少なくなかったが、田山氏以前に、自己の実生活描写を小説の本道であると解釈したものは一人もなかった。

島崎氏は、田山氏の「蒲団」以前に「旧主人」を書き、「水彩書家」を書き、「並木」を書き、自己の左右に小説のモデルを求めて、その真実を写さんと志していたらしく、子規一派の写生文も小説に事実直写の端をひらいたものと云えないことはないが、しかし、それ等は田山氏の自己暴露の自然主義文学は、客観的分子に富んだ文学で、花袋氏の独断にかかる自己の日常生活直写とは異なっている。西洋の評論家の定義によると、自然主義写実主義の度の強いものを云うのだそうだが、花袋流に自分の生涯の打ち明け話しをするのはその本領ではなかった。田山氏も模範としていたゴンクールの「ジャーミナルラセルトウ」は、作者が叔母の家の下碑(かひ)をモデルとして、事実をそのままを写し取ったと、自分で自慢していたもので、自然主義小説の最上の見本とされているが、それにさえ、批評家の研究によると、幾多の作為の痕はあるそうだ。しかし、それは止むを得ないことで、出来る限り「真実を描くこと」「有るがままに描くこと」を目指すのは、創作態度として甚だよろしきを得ているのだ。この態度を田山氏が欧州の近代文学から学んだのはいい。しかし、自己の生活を無技巧の筆でぶちまけるのを文学の正道のように思ったのは、当を得たとは思われない。
 田山氏の提出した小説作法は、創作を容易なものと思わせた。作家が自己の心を開いて、自由に自己を語るのは、旧態を打破するにはいいことだが、想像力が萎縮し眼界が狭小になり、単調になるのを免れなかった。オーガスチンの懺悔録は作り物語よりも読み応えがする。ゲーテの自叙伝は彼の戯曲や小説以上に面白い。一葉の日記もその小説に劣らない妙味をもっている。パシカットセエッフ女史の日録も極めて面白い。普通人の心覚えの日記だって、生中(なまなか)の小説よりも興味があり有益である。しかし、純粋の戯曲や小説tは日記以外自伝以外の魅力を保っている筈だ。凡人の日記や自伝がすなわち芸術であるとは云えない。私なども、田山氏の感化に毒せられ、易きにつき、日記小説みたいなものを濫作して来た。創作の才能が乏しいから止むを得なかったのだが、私以外にも、そういう作品の多かったことを、私は回顧してむしろ呆れている。どんな作風でもいいものはいいのだが、凡人が何の変哲もない自分の生活を書いてそれで芸術だと思っているのに同感はされない。実録なら実名を用いたらよさそうなのに、自分や妻子や友人の名前だけを、小説的仮名に変更するのも嫌味である。今度読んだ三長篇にも、主人公やその相手の女やその他の人物の名前が、三篇ともそれぞれに異なっているが、読者たる私は、同じ男女だと思って読むのだ。主人公をも作者と異名同人であると思って読むのだ。兎に角小説として発表されているので、全部が実録でないかも知れないーたとえば「恋の殿堂」の終わりで、主人公が田舎で袋叩きにされて死んでいるのは、無論作り事であるがー読者がすべてを実録として鑑賞するのは当然なので、そういう読者の態度を、田山氏としても非難することは出来ない。氏自身の文学観はそういう鑑賞態度を取らせるように仕組まれていたのである。作者の私生活についてのゴシップ興味を読者が唆されるのも止むを得ないのだ。

 田山氏は、傑(すぐ)れた小説は、作者の手を離れて空間に存在するものであると云っていたが、氏の実録小説は、まだ作者の手を離れきってはいないのである。「木切れ一つなく裸体のままで浴室で殺された源義朝の悲痛な生涯」に、田山氏は自己を発見して、一篇の歴史小説を創作したのであったが、それは、島崎氏の「夜明け前」に比べると、遙かに主観的であり、独断的である。しかし、作者の心境はよく分かる。この「源頼朝」出版記念会が田端で開かれた時に、作者が、「僕が文壇的に衰えたために、諸君が同情してこの会を開いてくれた」と、感傷的に云ったことを私は記憶に刻んでいるが、文壇、家庭、恋愛などで悲痛な思いに迫られている作者の心が、「源頼朝」に現れているのが、我々の心を惹くのである。三篇の長篇も、その気持ちを畳みかけ畳みかけ出したものに外ならない。そして、田山花袋一生の文学は、要するに人間に希望を与えるものではなかった。
 この頃、一部の若き文学者が明治時代の自然主義の研究を試み、ゾラのリアリズムの研究にも及んでいるらしく、かつて読売新聞に、阿部知二氏は「自然主義の運動全体が今までの文学の流れのうちで、最もすぐれたものではなかったか。あそこには観念的な服装としてではなく、真に人生に対した意味での思想があった。同時にもっとも歪曲されないところの芸術の熱があった」と云っている。これは間違った観察ではないようだが、私などが、田山氏の遺稿を読みながら回顧すると、当時の新しい作家の意気込みは盛んであり、態度もよかったとしても、素質の傑(すぐ)れた作家、力に富んだ作家がなかったためか、いつまで経っても光の失せないような作品は現れなかったように思われる。
 だが、この頃のいろいろな方面の新しい作家の小説が、どれも読み応えがしないとすると、過去に遡(さかのぼ)り、自然派の文学でも新たに研究して見ようかと考え出すのも当然のことかも知れない。花袋・泡鳴・秋声・藤村の四氏を比較研究すると、日本特有の自然主義の妙所も弱点も明瞭になり、将来の文学に対して何かの参考にはなるだろう。これ等四氏は自然主義の代表的作家であるが、各々面目を異にしているので、今の青年批評家なんかが概括的に見ているのは間違いなのだ。花袋・藤村の相違は、藤村と漱石との相違よりも甚だしいと云っていい。
 だが、今の私は過去の自然主義文学には飽き果てている。少なくとも私自身の初期の小説なんかは消えて無くなれと思っている。
                                                    (昭和七年六月)