ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

柳田国男と田山花袋


以下、筑摩書房から出版された「現代日本文学大系11国木田独歩 田山花袋集」より柳田国男の「田山花袋君の作と生き方」の全文掲載となります。また、吉本隆明先生が講演された「柳田国男田山花袋」における底本です。講演をより深く理解できると思いますので、ご参考になれば幸いです。

 


田山花袋君の作と生き方」
       
柳田國男
 昨晩も旧友達の寄り合いの席で田山君のどの作が一番に、頭に残って居ますかと島崎氏に聞かれたが、私はやはり「重右衛門の最後」と答えざるを得なかった。花袋晩年の作の諸篇の中には、無論あれ以上の深みを持ち、又遙かに痛切に、時代によびかけた作品もあるのであるが、これは自分達の感銘力とも名づくべきものが、既に弱っているのだから致し方が無い。少なくともこの重右衛門の如く、私を驚嘆せしめたものは後にも前にも無かった。花袋を有名ならしめた中期のもっとも油が乗った幾つかの作品に対しては、私は必ずしも雷同しなかったのみならず、むしろ内心の不満を隠すのに骨が折れた。ことに「蒲団」に至っては、末にはその批評をよむのさえいやであった。それを当人もよく知って居て、時々議論をしようとするが、いつでも私が説き方の拙なるを自覚して、旗を巻いて退却するのが落ちであった。
 論客としては中々強ごうなる田山君であったが、同時に自身をも完全に説き伏せる力を有って居た。彼が極端に想像し、個々の文芸の目的計画を否認し、後には題材の選択をすら無用視せんとしたのは、実は自己従来の態度の改革でもあった。単に機会を見つけて持前の信念を表白しただけでなかったことは、彼が前期の作品を読んだ者の、認めずにはいられぬことであった。私はあの頃から人の一生が、杉の木などの一本調子よりも、梅や松見たいに枝から枝をさして、段のちがった樹ぶりになって行くのを、得用だと思うような男であった上に、特に田山君においては色々の「次の境がい」が予期せられた故に、いつも気ぜわしなくその変化ある成長を念じたのであった。決して成功ばかりはして居ないが、常に脱出を企てて居る島崎君のような人もある。君も出て来いと、実は何回となく無益なそそのかしを試みたのは私であった。田山君はその気質として、無論必ず重い返事をした。それが追々に強く拒み、苦く不機嫌な顔を背(そむ)けるようになって、私は時代が人を約束する力の、隠れて甚だ猛烈なることを感じたのであった。田山君は結局自分が築城した自然主義の山頂に立て籠って、やや久しく平原のあらしを目送して居なければならなかった。そうして今回はまた人間の活き方が、そう幾通りもああるもので無いということを、しみじみと私たちに実験させてくれたのであった。
 何だ今頃、そればかりの実験に感動する者があるか、といってもよい様なものだが、これが今日になるまで自然主義そのものの、主要なる論点の一つでもあった。私も既にそれにかぶれて居るのである。田山君などはこれを自分の実験と、直ぐ前ので無いものとを取除けようとしたことさえあった。記述を出来る限り物の真髄に接近せしめるためには、これが安全なる方法と認めたことも事実であるが、それよりも強い理由は現代にみなぎる記録の不信用、即ちそういう実験をしたかどうかは疑わないとしても、果してその事実を我々に用立つように、又は自分が獲得したのと同じ程度に、精確かつ有効に伝達してあるか否かが、甚だ覚束(おぼつか)ないからであった。実際そうで無い証拠は多々であり、原因もまた大よそは指摘し得られた。だから文芸はまず個々の実験者が、個々の分担した部分をありのままに報告してくれる様に、改造せられる必要があったわけで、それが協力して新たなる人生観を組立てるというまあでは、あるいはまだ意識せられて居なかったかも知れぬが、兎に角に自然主義運動の、自然の論理はそこへ行かねばならなかった。そうして今では既に予期以上の承認を受けて居ると私は思う。

 ところが田山君とその同士たちは、あたかも今日の若き作家とは正反対に、文芸その世用の大小を計量せられることを忌み嫌った。何か対社会の使命でもある如くいわれると怒った。終始題材を自分の近まわりの、じっとして居ても集ってくる区域から見つけ出して、しかも決してこの方が処理し易いから、またはこの方が有効に、自分の見た真実を現わし得られるからとはいわなかった。そうして世間がその以外のものを期待する事を、心得ちがいのようにいうのであったが、それが私には自然主義の自分からの制限であり、一種後から理屈をつけた骨惜みであるように見えて仕方がなかった。
 一方私たちの方でも、もっとも純良なる読者の要求を代表しているつもりではあったが、その実はやはり楽屋に出入りする連中の、片よった見巧者というようなものに囚われて居たのかも知れない。ちょうどモデル問題などが、馬鹿々々しく論議せられて居た頃であった。もういい加減に家庭などを書くのは止(よ)して、もっと遠くへ出て「重右衛門の最後」のような場合に、ぶっつかって見るようにするといいといった。たれだって皆相応に精透なる自己の観察者だ。それを君だけの厳正な用意をもって、心のひだまでも引きめくって写しだそうとすれば、確実なる記録の遺ることは当り前だ。いまだ証明せられないのは、果してこの方法なり態度なりが、どこまで押しひろめて行かれるかという問題じゃないかともいって見た。あの折の気持に戻って見ることは出来ないが、何でも私は笑われたように記憶して居る。そんな問題ならとっくの昔、もう僕は苦しんで通り越して来て居るのだ。西洋でもたれとかはもっと詳しく論じて居る。二つ以上ある題材の中から、特にこの方をと思って取りあげたのでは無い。書くべく唯一つのものが与えられたのだという様なことをいって、断じてそうだなとは答えなかったのであった。
 兎に角私の説き方拙であり、またやや軽薄みにも聞えたことだけは今からでも想像することが出来る。あの際モデルに使われて腹を立てた二三の人が、ほとんど申し合わせた様に言った言葉は、事実は違っている真相はこうであった。それすら見抜くことも出来ないようでは、自然描写とやらも余り当てにはならぬ、といった様な悪(にく)まれ口であった。私は何の必要もないのに、思慮もなくそれに近いことをいったのである。君と二人で一緒に観た事でも、僕はこう解し君はああ感じて居る。態度さえ誠実ならたまの見損いはあったっていいといって、構わぬから出て見よと説く筈であったのが、却っておく病で引込んで居ることを、責めるようにも聞こえたかも知れない。何にしても三分の一程しか田山君を知らないものが、出過ぎた忠言を試みようとしたことが、却って同君の自然の進路を、累(わずら)わしたことになって居たならば悲しいことだと思う。
 もちろん自分をどこまでも見つめて居ようとすること、深く掘り下げて泉に達するまで、もしくはその底にも潜り入ろうとするのが、強いこの人の気質であったかもしれぬ。また平心に外部から観望しても、たしかに興味多き一つの生活であった。遺伝にもはた境遇にも幾つか悲劇的要素は含まれて居た。しかし求めてその性情の変化展開を試みようとせぬまでも、仮に僅でも自分を小説にした方がよいという心持が、彼の中年の平和に影響して居たとすれば、私は今少しく自由なる境地に置いて、彼を自然に成長せしめなかったことを悔恨せざるを得ない。

 いわゆる自然主義の流行をもって、単なる明治文学史のある一期の現象のように解することは、今は何よりも事実がこれを許さぬであろう。人がこの名前を喜んで名乗るか否かは別として、兎に角に文芸に趣向という語が、入用で無くなったのはあれからであった。自分で観て来た感じて来たということに、大きな尊敬が支払われるのみならず、しばしばその報告の精密さと真率さが、技巧の欠乏を補うというよりも、寧ろ技巧そのものとして受取られる事になったのもあれ以来のことである。新たなる人間記録はかくの如くにして、尚この上にも集積せられんとして居る。私にはこれを他の一つの門口から、持込まれた傾向とは見ることが出来ぬのである。曾(かつ)ての田山君らは無論この様に放漫なる定義に概括せられることを諾しなかったろう。または気六つかしく差別の見を立てたでもあろうが、あの人たちとても各自の変遷をもち、また相互の特色を具えて居た。文学は由来貨幣などとちがって、同じだといえば却って通用が困難になるものだ。だから能(あと)うべくんば毎年でも、異を立てて前進しようとするのでえあるが、そのために底を流れて来た個人以上の力、もしくは共同の功績とも名づくべきものを、無視してしまう事は不可能である。
 独り遠くから眺めた文芸の国ばかりに、そういう事実があるというのでは無い。たとえば我々の携わって居る社会科学の方面でも、名士の独断なるものが必ずしも傾聴せられず、次第に銘々の分担をもって、もう一度直接に観察しまた記述して置こうとする学風に向って来たのは、一半は少くとも文学の自然主義の影響で無かったとはいわれぬのである。殊に私などが題目の大きい小さいについて、丸で世間と懸け構いの無い尺度をもち、果して現実の用途があるか否かを確かめなくとも、平気で記録を取って遺して置くことが出来るようになったのは、善かれ悪かれ、とにかくに田山君の感化であった。それを生前に話して見る機会はなかったかも知れぬ。今までの文士は一様に至って無邪気であった。いわゆる突っ込んだ描写を要件とした作物が、世上に与える恩恵について無知であった。自ら社会の観測と記述とを、職務として居ると称する者が、実は技能において遙に劣って居ることに心づかなかった。いわゆる暴露文学の大いに起るべき素地は、早くからあったのである。それが正直にしてかつ無理の無いものだったならば、当然に我々を学ばしめたのであった。しこうして我田山君の作品などは、期せずして自らそれであったと思う。
 昔自然主義の過渡期に青年であったものは、幾度か無益のき憂論を聴かされて居た。人をもし単なる生物の一つとして、その生き方を見て行こうとすれば、人と人との間の情愛はどこへ行くという類の言葉が、もっとも沈着なる人々の口から出たのであった。今においてその言の当たらなかったことを、これも私は確に実験し得たのである。田山花袋君の死はその多くの旧知によって、大いなる樹木の倒るるにたとえられたが、私は殊にその若き苗木の日を知り、茂り花咲いて色々の鳥の、来り息(いこ)う光景を仰ぎ見た上に、更に落木しょう条の風の音をさえ聴いたのである。仮りに本物の樹であってもやっぱり悲壮である。ましてやこの一個の生存には、その後に色々の現実が続いて居る。六十年もかかってまだ生き尽し得なかった田山君の生き方は、我々に取っていつまでも歴史で無い。
                  (昭和五年五月十九、二十、二十一日)