ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

中野重治と小田切秀雄対談まとめ

中央公論社が出版した「日本の文学 第41巻 中野重治」の付録38に掲載されている中野重治小田切秀雄の対談を左記の付録から引用しまとめたものになります。『』内の文章は全て引用となります。中野重治の研究の一助となれば幸いです。

 


 この日本の文学に挟まれている付録ことチラシには、著名な方々の数多くの対談を掲載しているので、時として貴重な資料になります。
さて、今回は中野重治さんと対談されている方はこんな人です。


小田切秀雄ってどんな人?
日本の日本の文芸評論家、近代文学研究者。古代から現代に及ぶ幅広い論評とマルクス主義文学に基づいた評が多い。自身も高等科文科1年の時に共産党のキャップとして逮捕され、転向を経験している。中野重治の研究資料にあたると必ずといっていいほど彼が登場する。
なんといいますか、私はパワフルな方だったのではないかと拝察しております。


 この付録では、“短歌のこと”“プロレタリア文学をめぐって”“戦争に向って”“戦後の文学運動のなかで”“このごろ、これから”と各項目に分かれて短い対談が掲載されています。
まずは、“短歌のこと”からご紹介しましょう。


田切 中野さんの巻の解説を書くについて、いろいろの人の「中野重治論」をも読み返したんですが、同人雑誌にすぐれた「中野重治論」を書いている人がそうとういますね。~中略~
 中野 ぼくもいくつかを読んでだいぶ勉強になりました、自分で気づかずにいたことが……。
 田切 あれらは、見ていても楽しいという感じがしましたね。それから、「中野重治全集」の平野謙の解説は、ずいぶん力戦奮闘しているのですが、そのなかで、中野さんが「斎藤茂吉ノオト」を書いたのは、啄木から斎藤茂吉に退いたのではなくて、斎藤茂吉から啄木にいって、それからまた茂吉にきたんで、ちゃんと発展の一サイクルができているんだというふうに書いているのですが、それはぼくも当たっていると思いました。中野さんがいちばん最初に茂吉を知ったのは、芥川をとおしてですか。
 中野 いや、そうでもない。芥川を読んではいたけれども、それでということじゃない。ぼくは文学的には非常に奥手でしたからね、中学のときは、そんなものはほとんど読まなかった。高等学校へ入ったら、文学少年みたいな秀才がたくさんいてね、クラスで手書き原稿の「天才会雑誌」というのが出たな。十六か、十七になってはじめて、短歌も自分でも書いてみた。そのころ「赤光(しゃっこう)」の初版を持っていたけれども、これはほんとにおもしろかった。
 田切 「赤光」を買ったのは偶然ですか。それとも多少茂吉のことを知っていたんだろうか。
 中野 茂吉のことは知っていなかったんだけれども、彼の散文を目にすることがあって、それで、非常にひかれたんですがね。牧水とか、長塚節なんかを知ったのは、もう少しあとになるね。
 田切 啄木は?
 中野 啄木もやっぱりそのころだ、同じぐらいです。なにもかもはじめてなんだから……。しかし茂吉はたえず読んでいたね。
  ~中略~
 田切 そのほかに、散文の単行本としては「童馬漫語」が出ていましたね。中野さんの全集に入っている短歌を見ると、茂吉の影響が非常に強いけれども、なかなかいい歌ですね。しかし啄木の面影というのはほとんど出てこない。
 中野 そうね、啄木より茂吉のほうが早かったかな。』


中野重治は、昭和7年(1932年)29歳の時から二年間獄中生活をした後、(小林多喜二は、重治が逮捕された翌年の二月に逮捕され拷問を受け亡くなっています。)


昭和9年(1934年)に出獄。この時の中野の「転向」は国内外で大きな影響を与えます。中国の魯迅なども当時の中野の「転向」に衝撃を受けたことを告白しています。
すぐに数々の評論を世に出す中野ですが、昭和12年(1937年)の12月27日に中野と同志である宮本百合子内務省警保局から執筆禁止処分を受けてしまいます。


昭和14年にやっと執筆禁止がゆるんだので、発表した作品が彼の代表作とされる「歌のわかれ」という題名の小説なのですが、生涯自分を詩人だと称していたところから鑑みて、文学の出発点が短歌であったことからかもしれませんね。


では、“プロレタリア文学をめぐって”に進みましょう。


田切 芥川龍之介が、プロレタリア文学は芸術ではないと信じていたのは、たとえば「新興文学」に集まっていた山田清三郎らの“ブルジョア文壇撲滅号”などという類の粗っぽさに激しい批判を持ち、大正期の労働文学についても、あれは美的には仕上げられていないものと見ていたろうと思う。しかもその労働文学の人々は、プロレタリア文学がさかんになると、みんな離れてしまうわけですね。ところが彼らの作品の中には、戦後に読み返してみると、そうとういいものもある。だからあれはプロレタリア文学のなかに包摂され、そのなかでそれぞれの個性に応じた伸び方があっていいはずのものだったでしょう。そのへんのことは、プロレタリア文学運動の内部では問題になったことはありませんか。
 中野 あります。同時に、むしろ支配的に、ああいうものをちゃんと読んで評価しないで、マルクシズム、コミュニズムになってからがほんとのプロレタリア文学だという、そういう歴史の観念的手作り傾向といったものがあったね。ぼくもやはり、全的にとはいいたくないが、そこへはいる。
 田切 それがプロレタリア文学のやせたところを作り出す結果になっていて、そのやせなかった人の主な一人が中野さんだと、ぼくなどは考えているのですが、このへんの全体的な関係はおもしろい問題をふくんでいると思う。もう一つは、当時の個人主義自由主義明治いらいの文学を、これはブルジョア文学だとわりきって、一律に低く評価する傾向があり、それらの文学の持っているたくさんの読者をとらえているところのものとの、ほんとうの格闘ができないで、粗雑な安易な思想的作品で対処しようとする文学的な思い上り、というか、政治主義的安易さがともすれば力をふるった。今でもその傾向が一部にいちじるしいが。これは文化政策の問題でもある。
 中野 一つには、日本の革命運動史との関係があるでしょう。ロシアでは、ナロードニキの遺産をどうするかというところからやっている。論理じゃなくて、労働運動の実際と結びつきながらこれが出ている。過去の継承ということが、歴史理論の上でも階段をふんで行っているけれども、日本ではそれがなかった、ように思いますね。』


両者ともに、当時の思想や事実は事実としてきちんと捉え、再評価ならびに整理していることが窺えますね。

 

 二人の対談から“戦争に向って”をご紹介しましょう。この項目では、中野重治が「歌のわかれ」を執筆することになった経緯について対談しています。


田切 「歌のわかれ」は「革新」に発表されたのですが、中野さんと雑誌「革新」というのは、なんともとり合わせがおかしいですね。あれはどういう経過なんですか。
 中野 「革新」は、新人会の昔の知人が編集をやっていて、それがなんか書けといってきたんだ。
 田切 「革新」は戦争の終りに近くなると、とくに極端な右翼の雑誌になりますけれども、その前、中野さんの書いたころは、広い意味での言論右翼的な雑誌です。つまり戦時型総合雑誌のニューフェイスでしたね。
 中野 それでその男のいうには、とにかくこれは右翼的な雑誌だ、しかし小説を載せたい、ぼくに書いてくれという。ただし条件がある。中国戦争が現実に進行しているということだけ認めてくれ、というわけだ。帝国主義侵略戦争というのだけは勘弁してくれーこれは、相手の方で百も承知なのだからーぼくはそんなことを書く段取りでもなし、それなら書こうというんで書きました。
 田切 とにかくいまから見ると、そういう戦争、あるいは戦争と結びついた右翼的なものにたいして、文学的、美的にいちばんよく戦っていた小説が「革新」に出ているというのは、実におもしろいことですね。
 中野 もし事態がどうかなれば、ぼくは書くのをやめればいいんでね……。』


“戦後の文学運動のなかで”では、中野が共産党に入党したことについて話しています。
中野が共産党に入党したのは、終戦した昭和20年(1945年)になります。この年は、6月に取調中に召集され長野県へ行きますが、9月に終戦になったため、召集が解除されたため東京へ戻ります。


この年は、中野は新日本文学会創立のために働いたりと、目覚ましい活躍をします。中野はこの時、42歳でした。


田切 それで戦後、中野さんが共産党に入ったのはいつごろでしたか。
 中野 一九四五年末です。
 田切 共産党の再建の仕方、進め方、そういうものについて違和感を持ったのは、どのときからですか。
 中野 はっきりしないけれど、四六年初めからはそうだね。入るなりといってもいいと思う。しかしぼくは入るとき、再入党ということをもっとはっきりさせるべきだったと思っています。
 田切 あのへんにいろいろ問題があるわけで、戦前の革命運動およびプロレタリア文学運動がつぶれたのは、弾圧のためということが基本だが、同時に、弾圧に対してもっとよく戦えたはずのものが、充分に戦えなかったという運動のスタイル、組織の仕方、あるいは組織の運営の仕方などの、問題がいっぱいあったわけですね。戦後、実際に運動をはじめてからそういう問題が新しい形で出てきて、中野さんは「アカハタ」の文化部長として、党の政治方針や、運営の仕方について、文化面からいろいろとつっぱらざるをえないようなことが出てきた。それらが五十年問題に集約されて出てくることになるけれども、その経過は必ずしも明らかでないので、あれは中野さん自身としても、あらためて検討してもらっていいですね。いま、「群像」に連載中の「甲乙丙丁」のなかでも、その問題にもっと入ってもらいたいと思うのですが。
 中野 そうね。それはこれからの……。敗戦後再入党のことを考えると、ぼくはそのことを問題に出したんだが、総括抜きはだめだというふうに、おのれ自身にも決定的にはとらえられていなかったね。ただぼくは転向のことがあるから、その決着をつけないで再入党ということは、それはできないということは出してあるんだ。ぼくはずっと前、戦争の進行中、記録のことを書いて、われわれがノドを締められて窒息して死んでしまう、その死んでしまう瞬間まで、その記録を作ることをやっておきたい、それが窒息からまぬがれさせるかもしれないと、自分ではこう書いたんだけれども、実行はできなかった。だいたいぼくの生涯は後手後手だが、このごろ少しわかってきたような気もする。』


“このごろ、これから”では、昭和42年(1967年)1月16日64歳の中野の現況が語られています。彼は1月25日が誕生日なので、まだ63歳の時になるのでしょうか。


中野 ぼくは目が悪くなってね、去年、一昨年あたりから、人の書いたものがちっとも読めないんだね。内容がまずいか、書き方がまずいか、二、三行読むとおもうおもしろくなくなる。ところがぼくの経験によると、それは相手もまずいんだけれども、こっちの状態がよくないんだ。こっちの状態がいいときは、どんな下手なやつでも、ガーッと読めるんだ。ところがなにを読んでもおもしろくない、なにを見ても下手さ、おもしろくなさを感じるときは、こっちの状態が悪いんだね。ところがこの暮れから、少しいろんなものを読んでおもしろいんだ、それでこれはちょっとまだ見込みがあるなと……(笑)。
 田切 それではこの辺で。どうもありがとうございました。』