ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

寺田透が葉山嘉樹と横光利一を語る

 葉山嘉樹(はやまよしき)は、プロレタリア文学における作家で主に、プロレタリア文学の歴史における初期に活躍した人物です。寺田透は日本の文芸評論家で立原道造と一緒に同人誌をやるなどしていましたが、絶交し戦後は東大教授として活躍するなどしました。
寺田透は、筑摩書房が出版した「現代日本文学全集67 葉山嘉樹 小林多喜二 中野重治 集」において「葉山嘉樹一面」という解説を寄せていますが、内容的に葉山嘉樹横光利一との当時の文壇上における比較や対向について言及がなされています。
ここでは、『』内の文章は全て上記の解説から引用し現代語訳をした上でまとめて紹介しております。

 


『一九四五年の夏以来、葉山嘉樹を思い出す機会が僕には次第に増していた。第一の機会は、言うまでもなく彼の訃が徳永直の追悼の言葉とともに新聞紙上に現れたときだった。満州のどこかに、信州の百姓からなる開拓団に加わって入植していた彼は、戦争終結後、ソビエト群隊の進駐を逃れて、逃走の途中どこかでチフスか何かのために命を落とした。なぜいっそソビエト軍の手につかまらなかったのか、と徳永は残念がっていた。がしかし彼はすぐ思いかえしたように、最後まで百姓たちと香道をとらずにはいられなかったところが、葉山の葉山らしさだと付け加えた。知己の言というべきであろうが、しかし僕には、そういう物言いの深切さが却って、簡単な行為にふくまあれる複雑な意味を取り逃しはしないかと思われて口惜しかったかった。われわれの聞きたいのはもっと意固地な庶民の見解なのだ、と。』
徳永直(とくながすなお)は、熊本県出身のプロレタリア文学の小説家で代表作は「太陽のない街」があります。小林多喜二の死や強まる弾圧の中で、「転向」した作家ではありますが、生涯をかけて労働者の運動を支持する立場を取った人です。
『庶民の心という言葉は簡単だし、又その現れ方も金持ちの心理のような無用に贅沢な複雑さを持ってはいない。だからこそ却って職業的小説家の器用な認識力はそれを見逃すか、平板にしてしまうであろうという危惧が感ぜられるのだ。~中略~こういう感懐と同時に僕は、今日葉山の名をしっている青年が幾たりいるであろうかと、思ったとき、又しても余りに慌ただしすぎた昭和初期の歴史の回転の速度に憤懣を起こさざるを得なかった。何人にも自分の姿を充分に刻むことを許さなかったこの時代に対する憤懣には、彼に対する僕の純粋に個人的な愛着が動機をなしているのは無論である。~中略~反逆的なマドロスとして、乱暴だが、正義感に充ちたユーモラスな言葉を撒き散らす彼の存在は、僕のうちに横たわる幼い抒情精神にとって一つの手本であった。~中略~彼を一個の典型とせねばならぬのは、僕ひとりでなく、僕をも含む一つの世代ではなかったかと思う。言葉づかいの乱暴さに真意が含まれているように思う習わしも僕らの世代の特徴ではなかったろうか。』


寺田透は、大正4年(1915年)に生まれ、葉山嘉樹は大正15年(1926年)に処女作「淫売婦」と「セメント樽の中の手紙」を発表し、認められます。同年の11月に代表作である「海に生くる人々」を刊行し寺田透は、この時11歳でした。大正は15年で終わり、この次の年から昭和が始まります。小林多喜二が亡くなった昭和8年には寺田透は18歳。(大正15年の後は、昭和2年からになります。大正15年は昭和元年とされるためです。そのため1926年は大正15年で1927年は昭和2年となります。)実に多感な時期を戦争の香りの中で生活することを余儀なくされたことに対する深い憤りを感じます。
また、小林多喜二が亡くなった昭和8年には一応満州事変は終息し、昭和12年から日中戦争が始まるまでの間にあったごく短い平和を甘受したのちに、昭和16年から太平洋戦争が始まり昭和20年(1945年)に終戦を迎えます。寺田は終戦時、30歳で文字通り戦争に明け暮れた日々を送った世代なのです。


『今の僕には、複雑な心の綾に酔うよりも、確かな手触りのある魂を自分のそばに引き寄せたいという気持ちの方が強く動くということを無視してはいられない。葉山はそういう数少ない魂の存在を感じさせる作家の一人であった。』


物の無い時代に、葉山の書く魂を自分の拠り所にして生き抜いてきたことを感じさせる文章で、今読んでも胸を深く打つものがありますね。


『必要あって一九二五年前後の月評類を読みかえしているうちに、僕はその頃の文壇に葉山嘉樹の存在が相当に色濃く描き出されているということを思いがけず認め得たのである。横光利一にとってすら、コミュニズム文学のうちでひとり尊敬すべき作家であった。』


コミュニズムとは、共産主義のことであり当時のコミュニズム文学について、横光利一はコンミニズム文学として文章を残すなどしています。また、この文章が書かれた昭和24-29年ではコムミュニズム文学の名称で記載されていましたが、コミュニズム文学として名前を統一しております。

『横光は、《新感覚派》の理論家として、葉山嘉樹の短篇「淫売婦」の肉を形作っている感覚活動に深い推服の念を示している。周知の通り、新感覚派の文学運動は、あらゆる人間の心理と行為を、一つの政治思想によって暴露、批判、指導し得ると信じたコミュニスト達の文学理論に対して、芸術派が張った背水の陣の名であった。』


横光利一は、昭和5年(1930年年)頃から文士や文学者の気風が大きく変わり、勃興してきた大衆文学にどう対処するか真剣に考え「純粋小説論」などを発表したりしました。彼の「純粋小説論」は論理のまずさを含んだ内容でしたが、大衆文学に立ち向かいそれを一身受けていました。
寺田透もそのことについて言及しています。


『横光がそれに加えた説明は彼本来の晦渋(かいじゅう)で、空疎な冗語に満ちていて、今日でも僕らを昏迷させるが、要は、自然主義の情緒的写実にも陥らず、マルキシズムの思想的図式化にも陥らず、現実表象の多彩さを作品に盛るために、理智によって按配された感覚を、表現の主要手段にしようとするところにあったと言えるだろう。』


晦渋(かいじゅう)・・・文章や言葉が難しく意味がわかりにくいこと。


『アントロポロジーという言葉を採用することをやがて思いつくまで、この流派は、自分らの志すところが、思想による人間性の歪曲と静観的態度によるその無力化に対する反抗だということを充分自覚せずにいたようである。』


アントロポロジー・・・アントロポロギーのこと。アントロポロジーはフランス語。アンドロポロギーはドイツ語で両方とも人類学を指します。生物としての人を扱う形質人類学と、人が築き上げてきた文化を課題とする文化人類学とに二分される。


葉山嘉樹の文学を今日なお僕がなつかしむとすれば、その理由の一つは、彼が形式についても内容についても、至って無邪気だったところにある。そしてその結果は、前にも言ったように、彼を石川啄木とともに、ぼくの反逆と漂泊の心情の師としたのである。』


 石川啄木は、明治の末期に国家権力の問題を文学の問題として取り上げ、自然主義文学が権力問題を回避していることを鋭く主張しましたが、石川自身はそれらの問題を作品に表明する前に亡くなりました。ですが、プロレタリア文学は、この石川啄木の思想を受け継ぎ、この問題に取り組んだ文学一派です。


『しかしそれだけだったら、彼も僕の少年の日の動悸をたかめ、筋肉を収縮させて行きすぎたただの黒い形というにとどまったであろう。ところが、彼が信州の山村に土着してからの作品は、僕に飾り気ない幸福の色合いを見させたばかりか、幸福に特有の力で僕の思考力を刺激するに至った。~中略~ただ彼の心が、百姓の生活につねにとりまかれ、すべての考慮が、山村の自然と人間を四六時中映してやまないというだけである。彼の描き出すものは、彼の魂の状態ばかりで、その明るい書布の中に、百姓の姿は、淡彩された木炭画の点景のように出没しているにとどまる。』


葉山嘉樹が長野県に寓居したのは、昭和10年(1935年)で彼が41歳の時です。寺田透は、この時、20歳。昭和12年日中戦争が始まるまでの四年間の間に葉山嘉樹は東京での生活を精算し、長野へと移ります。横光利一は、同じく昭和10年に「純粋小説論」を発表しています。横光はこの時、37歳でした。


『《わしは人並より良い人間になろう、としていたからいけなかったんだ。人並に良く、人並に悪けりゃそれでいいんだ。》
 《わたしはこの、気が楽になったちうことが、しあわせだと思うんだ。違うかね。》
 彼(葉山嘉樹)の言葉づかいも又、百姓のそれによく似ている。ものの色や形をとり立てて描き出そうとする配慮はなく、ただものをそれと言い当てる言葉ばかりが好んで取り上げられるのだ。何かここで尾根の日の色や雨に腐った稲田の色や鮎を釣る渓谷の淀の水色が見えるように思われるとすれば、それは即物的な言葉の持つ喚起力のおかげであって、文字による写真術のせいではない。それらの言葉は見させようと望むかわりに、想起させ、感取させようとする意図に基づいて用いられている。そしてそれがいわばわれわれの普遍的な潜在記憶を刺激するのだ。
 これはかつての新感覚派横光が、ちょうど同じ頃、その純粋小説の構成に当たって試みたことと正反対である。横光は文字によって絵をかいた。その絵が美しく描かれれば描かれるほど、描かれるべき実体と文字の与える現象の隔たりは広くなり、それにつれて作品の真実感は薄らぐという不幸に見舞われる。』

 

『心理描写にしても横光の場合は、模様を描くことだった。彼の作品のうちに、理智の操作によって図式化された感情の論理はあっても、その図式をうちに抱き、それを本当の生きた人間の心理たらしめる魂の振動はつかまえられていないのだ。実際小説技法としての心理分析は、いつの場合でも、なんらかの感情を抱く人間から抽象されたその人間の論理的意識活動の言いに過ぎなかったようである。それは文字にされると、もう震えも揺らぎもできない抽象体である。それは、図案と同じように、読者の追体験を許さない、眼と頭だけの問題なのだ。
 ところがわれわれの追体験を許すような、魂の状態そのもに表現が与えられることこそ重要なのである。心の理屈などは聞きたくもない。葉山嘉樹の作品は、自然主義文学の凋落以来、というか、シネマの流行以来というか、ともかく、われわれの周囲から影をひそめたそういう種類の文学に属している。
 ~中略~
 あらゆるものは、それが存在する以上、かならず他者との関係のうちにある。その認識が、これほど自然に明るく、告白の形式そのものによって表明されるためには、長い道程と試練の時が必要だったのは言うまでもない。それを僕は、古い彼のプロレタリア作家としての業績の中から見い出す。
 未完に終わってはいるけれど彼自身、自信作の日乙に数える「誰が殺したか」又は「鼻をねらう男」などという作品で、彼はみじめな個人の経験が、いかなる社会的拡がりを持ち得るものか、実地に証明した。そしてその証明を可能ならしめたものは、自己の存在の諸契機のうちに社会を認め、その方向に自己の動きを追って行く、まことに私小説的な実践だったのだ。』


 色々と横光利一について書かれていますが、横光利一は「寝園」という作品で、大衆文学の読者にも読めるように純文学的手法を使った小説を残しています。この作品は、今まで描かれることのなかったブルジョア階級の社会性を小説にした画期的な作品で、正宗白鳥紫式部がサロンを小説にし、昭和のサロンはこの作品でもって横光利一が書いたと「横光利一論」の中で褒めています。
夏目漱石ブルジョアを描いた小説を残していますが、彼はあくまで一個人を題材に扱った作品で社会性を伴ったものではないため、それが正宗白鳥の高評価に繋がったようです。
また、昭和9年(1934年)頃の新感覚派は「文芸時代」を拠点に展開されていましたが、既成文壇への反抗、新興文学のコミュニズム文学、マルキシズム文学との対決の矢面に立たされていました。横光利一は、新感覚の代表でもあったため下記の言葉を残しています。


『私は古い情緒の纏綿(てんめん)する自然主義という間延びのした旧スタイルには、もはや忍耐することが出来なくなって反抗を始めた。それと同時に、来つつある新時代の道徳と美の建設に余儀なくとりかからねばならない状態となったが、この時、早くも唯物史観がわが国に顕われた最初の実証主義となって、精神の世界に襲って来ていたのであった。この思想の襲来のさまは日々刻々激しくなり、天日のために暗澹となるかと思われたほど一世を風靡した。われわれ芸術派は自然主義の堅類と闘う鉾を、この思わざる強敵に向け闘わねばならぬ運命となって来た。』


横光利一が書いた河出書房「三代名作全集」の内「横光利一集」における「解説に代えて」には、このように零しています。


そして、昭和20年(1945年)8月に終戦を迎え、10月に葉山嘉樹は列車の中で病死し、横光利一も昭和22年(1947年)12月30日に病死しました。寺田透にとっては、この二人は相反した存在ながらどこか近しい者同士のように感じていたのかもしれませんね。
最後に、寺田透の締めの文章を掲載してこの語りを終わります。


『以上の文章を書いてからちょうど、一年たったが、当時僕をもっとも強く動かしていた葉山の文章が「印度の靴」であったことを思い出す。
  青い海は、黒く暮れていた。
  船首の噛み砕く泡だけが、山間に流れる小河の飛沫のように、チラチラと白く見えた。
  羽生は、船館(ママ)を離れた。タラップを降りて船尾のハッチへ行った。
  「ラム・サラップ」
  「ハウ。」
 この文章のあとにつづく哲学と貧困と貴族の靴に関する一見寓話めいたい会話にはプロレタリアのアンニュイがある。そのアンニュイの韻律がたしかにこの会話の流動のうちに生かされている。僕はそのアンニュイにしのび込まれ、それを愛撫して、葉山に接近するよすがとした。
 何となれば、アンニュイほど一つの生活様式に関する熟通の証拠はないからである。(昭和二十四年-二十九年)』