ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

川端康成が横光利一を語る1

 昭和41年(1966年)に出版された横光利一の本には、川端康成の解説が掲載されています。
以下、『』内の文文章は中央公論社が出版した「日本の文学 横光利一」より川端康成が書いた「解説」から引用したものとなります。川端康成横光利一の研究の一助になれば幸いです。

 


 川端康成のこの解説は、それぞれ『横光利一との出会い』『「悲しみの代価」とその周辺』『「文芸時代」のころ』『新感覚派の担い手として』『「上海」「機械」』『大作「寝園」』『肉体の中に現われていた時代』『遺稿「微笑」』と項目が分けられており、最後に川端自身が横光に贈った弔辞が全文掲載されています。


横光利一との出会い 横光氏に初めて会ったのは小石川中富坂の菊池寛氏の家であった。その日夕方、三人で家を出て本郷弓町の江知勝(えちかつ)で牛鍋の御馳走になったことを覚えている。~中略~横光氏の話しぶりには、激しく強い、純潔な凄気があった。横光氏が先に帰ると、あれはえらい男だから友達になれと、菊池氏が言った。大正十年、横光氏数え年二十四歳、私二十三歳のことである。』


これは、大正10年(1921年)の出来事で、この時は横光氏は箸をほとんど持たず、鍋に手をつけなかったそうです。それに加え、横光はショウウィンドーに歩み寄り、ガラスを病院の壁に見立て病人が壁添いに倒れ落ちる身真似をしました。なかなか忘れろと言われても、忘れられない出会いですね。これに加え、締めのように菊池寛に『あれはえらい男だから友達になれ』と言われて、本当に友達になるあたり川端康成もユニークさでは負けてはいないようです。


文豪達のこうした常識に捕らわれない奔放な姿は、今でも新鮮に感じますし文豪達の私生活が当時の新聞や雑誌を賑わせたのも、なんとなく納得がいく気がします。


「悲しみの代価」とその周辺 戦後、昭和二十四年か五年に、私が広島で「悲しみの代価」その他の横光氏の草稿を預かってから、三十年五月、「横光利一読本」(「文芸」臨時増刊)に発表するまで、発表すべきか、すべきでないかについてはずいぶん迷った。』


横光は、昭和20年(1945年)に終戦を迎えた後、昭和22年(1947年)の12月30日に亡くなっています。よって、彼の死後から2~3年後に預かった草稿となります。


『発表を私がためらった理由はいろいろあったが、その第一は、発表はおそらく個人の意志ではないだろうということだった。横光氏自身が死後の発表を思って遺したような秘稿でないのは明らかである。第二に、横光氏の手もとを離れてしまって、縁者によって保存されていた原稿である。保存が横光氏の意志だったかどうかは分らぬ。横光氏の手もとにあれば、後年自ら破棄したかもしれないのだ。~中略~
 第四に、「悲しみの代価」は事実に近い小説、あるいは横光氏の私小説と読まれる危険があるのを私はおそれた。横光氏がなぜこのような小説を書いたか、全編を貫く真率沈痛な調子は異様なばかりである。そこにこの遺作を発表する価値もあったのだが、私の躊躇もあった。横光氏は大正十二年には前夫人小島君子さんと結婚生活にはいっていたが、「悲しみの代価」はおそらく大正十年以前の執筆であろう。この草稿の作風、文体、その書体、漢字の誤り癖、使用していた原稿用紙などから、私はそのように推定したので、まちがってはいない。』


 横光は大正8年(1919年)から小島勗(こじまつとむ)の妹キミと交際し始めます。この時、横光は21歳でしたが大正10年、11年頃に彼が書いた手紙には4年前からキミを愛し出したと綴られており、つきあい始めるまでに長い歳月を要したことを窺わせます。
また、この交際は小島の家ぐるみで反対され、結局、横光が28歳の時にキミは亡くなります。大正15年(昭和元年1926年)6月24日に亡くなりましたが、戸籍簿には、婚姻届出が死後の7月8日になっています。
 こういった出来事から、川端は「悲しみの代価」は横光の前妻であるキミのことを書いた作品だと、読者が誤読してしまうことを大変危惧しました。
ですが、川端は横光の古い友達である中山義秀と会って、この作品に描かれている内容が一連のプライベートにおける出来事と無縁であることを確認した上で、発表に及びました。
 川端がこの作品を発表したいと思ったのは一重に、


『「悲しみの代価」は未熟不備なところも多分に見える草稿であるけれども、これほど横光氏の人間が素直に、そして切々と訴えるように出ている作品は、初期にも後期にもないと私は思うのである。』


 横光利一という人間がよく顕われているからこそ、発表したかった川端康成の優しさが感じられる一文ですね。

 

文芸時代」のころ 「春は馬車に乗って」、「花園の思想」はその前夫人の病と死とを書いて、横光氏の美しい挽歌である。「花園の思想」に、「お前は、俺があの汚い二階の紙屑の中に坐っているころ、毎夜こっそり来てくれたろう。」「俺はあのころが、一番面白かった。お前の明るいお下げの頭が、あの梯子を登った暗い穴のところへ、ひょっこり花車のように現われるのさ。すると、俺は、すっかり憂鬱がなくなっちゃって、はしゃぎ廻ったもんだ。とにかく、あのころは、俺も貧乏していたが、一番愉快だった。」とあるのは、横光氏の思い出でもあり、述懐でもあるだろうが、私もその「汚い二階」の下宿を覚えている。
 ある夜、その小石川餌差町の下宿に横光氏を訪ねて、二人で散歩に出た。春日町、水道橋から、神田の通りを遠歩きして、下宿の近くまでもどると、「今夜嫁が来ることになっているんだ。寄ってゆかないか。」と横光氏が言った。私はおどろいた。そんな話はまるで聞いていなかった。私は結婚の当夜とは知らないで散歩していたわけである。
 また、横光氏の二度目の婚礼のために、私は伊豆湯ヶ島の長い逗留から、湯本館の主人の紋付袴を借着して上京した。上野の精養軒での披露宴が終わった後、横光氏は私に言った。「君、今夜は泊るところがきまっていないんだろう。僕らは逗子のホテルに行くんだが、いっしょに行こう。」まさか新婚旅行についてゆくわけにはゆかなかったが、そんなこともあった。昭和二年である。』


 横光にとって川端は、気の置けない友人というより、もう家族も同然の印象を受けますね。


『金星堂というのはちょうどこのころまで横光氏らと出していた同人誌「文芸時代」の発行にあたってくれたところで、その扉に「菊池師に捧ぐ」と献辞してある横光君の第一創作集「御身」が出たのも、ここからであった。片岡氏、石浜氏、菅氏も「文芸時代」の同人であった。』


 横光と彼の師である菊池寛の関係は面白く、普段、菊池は明るい取り巻きや、ちやほやしてくれる人と遊んだそうですが、いざ何事かあればお互いきちんと心と心を通わせる会いかたをしていたそうです。
 なぜ、いつも菊池と横光は会って遊ばなかったというと横光はいつもむっつりと腕を組んでいて面白くなかったからだそうです。菊池寛は横光に対して深い信頼を寄せていたそうで、その信頼を疑わなかった上でのつきあい方だと思いました。


『「蝿」は、大正十二年の五月、「文芸春秋」に創作が載るようになった、その最初の号に、三宅幾三郎氏、佐々木味津三氏、中河与一氏、鈴木彦次郎氏、石浜金作氏、加宮貴一氏、片岡鉄兵氏、それに私の作品とともに発表されたもので、ここに挙げた顔ぶれはいずれも後に「文芸時代」の同人に連なったものでもある。私たちは「文芸時代」の同人である以前に「『文芸春秋』の同人」であった。』


 一般的に、横光・川端・片岡らを指す「新感覚派」は、大正13年10月に創刊された同人雑誌「文芸時代」から始まったとされています。創刊の翌月、評論家である千葉亀雄が「新感覚派の誕生」を書き、これら「文芸時代」に掲載された主要な人達の傾向を指して新感覚派と命名しました。これが、新感覚派の誕生であるとされています。
ですが、上記のように川端の言うところ必ずしも共通の文学上の目標を掲げ、集まった訳ではなく、自然に集った同人たちで雑誌を発刊したところ第三者の指摘によって自分達の集団としての姿を認識するに至ったというところでしょうか。
これ以降、川端を含む「文芸時代」の同人たちは千葉の名称を積極的に受け入れ、文字通り「新感覚派」として活躍します。


新感覚派の担い手として 横光氏が後年、河出書房から出た「三代名作全集」の一冊「横光利一集」の巻末に添えた「解説に代えて」は、自らの文学の道程を振り返り、その変移をも明かして、横光利一自解として珍重すべき一文であると思われるので、そこから、「蝿」、あるいは「日輪」のころをかえりみているところを抜書きしておく。~中略~
 初期の「最後の作」と言っている「日輪」と、「一番初めに書いたもの」と言っている「蝿」とは同時に発表を見たもので、いずれにも相当の歳月が注がれて成った作品であることは明らかであるが、この二作が文壇の注意を招いたその年、大正十二年は関東大震災の年であった。
 最後の作が処女作となると同時に、大正十二年の大震災が私に襲って来た。そして、私の信じた美に対する信仰は、この不幸のためたちまちにして破壊された。新感覚派と人々の私に名づけた時期がこの時から始まった。眼にする大都会が茫々とした信ずべからざる焼野原となって周囲に拡がっている中を、自働車という速力の変化物が初めて世の中にうろうろとし始め、直ちにラジオという声音の奇形物が顕われ、飛行機という鳥類の模型が実用物として空中を飛び始めた。これらはすべて震災直後わが国に初めて生じた近代科学の具象物である。焼野原にかかる近代科学の先端が陸続と形なって顕われた青年期の人間の感覚は、何らかの意味で変わらざるを得ない。(「解説に代えて」)
 横光氏がこのように言っている新感覚派の時代はおおよそ昭和三、四年ごろまで続くのであるが、「静かなる羅列」はこの間に発表された、まさに横光氏の流儀による新感覚的と認められる作品である。関東大震災は新感覚文学の誕生の一つの明確なきっかけを与えるような大きな異変であったので、それからほぼ十年を経過した昭和九年の初め、横光氏は、「大正十二年の関東の大震災は日本の国民にとっては、世界の大戦と匹敵したほどの大きな影響を与えている。」(「異変・文学と生命」)とまで書いている。』


 巨大地震が国民に大きな影響を与えているーなんだか、今の日本を彷彿とさせる文章ですね。
 現在の日本も、いろんな道具やツールが次々に登場し自分などはついて行くだけで精一杯な部分があります。恐らく、当時の横光らが受けた衝撃は我々以上に計り知れないものがあったのではないでしょうか。

 

「上海」「機械」 「上海」が書かれたのは昭和三年から六年にかけてであったが、その主たる部分は三年、四年に書き終えられていた。横光氏の最初の長篇であって、新感覚派の手法の集大成とも見られる。昭和七年、改造社から慣行するにあたって附した「初版の序」には、「この作の風景の中に出て来る事件は、近代の東洋史のうちでヨーロッパと東洋の最初の新しい戦いである五三十事件である」、』


五三十事件とは、中国は上海で起こった事件のことです。これは、大正14年(1925年)に上海では深刻なインフレからデモが発生し、鎮圧のために租界警察が発砲、学生と労働者13人の死者と40人余りの負傷者がでました。


『「私はこの作を書こうとした動機は優れた芸術品を書きたいと思ったというよりも、むしろ自分の住む惨めな東洋を一度知ってみたいと思う子供っぽい気持ちから筆をとった。」とある。こういう言葉もあるところからすると、横光氏の最後の十年をついやしてなお畢生の作に終わった長篇「旅愁」に取り扱われている東洋と西洋の問題も、すでに早くから関心されていたと見るべきだろうか。「旅愁」が昭和十一年の渡欧に因を発しているのと同様に、「上海」には昭和三年に上海に約一月遊んでの見聞が作用している。
 横光氏は「上海」には「捨て切れぬ愛着」をいだいていて、昭和十年、書物展望社から「決定版」の「上海」を出すにあたって、自ら「最も力を尽した作品である」とこの作を言い、「私はそのころ、今とは違って、まず外界を視ることに精神を集中しなければならぬと思っていたので、この作品も、(中略)自然を含む外界の運動体としての海港となって、上海が現われてしまった。」とも書いている。横光氏が外面を見ることから内面を見ることへ、感覚的手法から心理的手法へ移ろうと試みたのもだいたい「上海」を境にしてのことであった。』


 昭和2年(1927年)は横光利一にとって慌ただしい年で、2月に菊池寛の媒酌により日向千代子と結婚します。5月には「文芸時代」を廃刊し、大正13年1924年)からの短い雑誌の歴史を閉じます。
また、この年は7月に芥川龍之介が亡くなるなど文壇にとっては大きな変化があった年でした。
 続く、昭和3年の2月には菊池寛が第一回衆議院議員選挙に社会民衆党から立候補したため、その応援演説をします。そして、4月に上海に30日間滞在し帰国。
昭和4年に入ると、10月に川端康成堀辰雄、永井竜男、深田久弥らと一緒に「文学」を第一書房より創刊します。


『「鳥」も「機械」も昭和五年の発表であるが、それは「最も苦中な時期」から「心理的主義すなわち人間主義という確信おのずから生じて来たのと等しく、唯物史観自然主義の包囲陣を脱出する血路を見いだした」時期に移る転機を形作った画期的な作品であった。小林秀雄氏が「機械」を評して、「世人の語彙にはない言葉で書かれた論理書だ。」と言ったのはあまりにも有名だが、「心理主義すなわち人間主義という確信」は作家としての横光氏の倫理であったとも見られる。』


 昭和5年(1930年)は5月に痔疾(じしつ)のために2ヶ月入院するなど、横光の体に変調があった年でした。この時、彼は32歳です。徳田秋声も晩年に痔瘻(じろう)になって入院しているので、座り仕事である小説家には案外多かった病気なのかもしれませんね。余談ではありますが、痔疾より痔瘻の方が重篤な症状です。


大作「寝園」 「寝園」も昭和五年から書き始められた。横光氏は数え年の三十三歳である。「東京日日」「大阪毎日」に連載された横光君の最初の新聞小説であった。「機械」と「寝園」とが同年の作品であることは、両作が一見まったく異質の作品のようでありながら、照映し合い、交流し合い、たがいにその意味を深め合っている点で注目される。あるいは「機械」が苦業の不幸を匂わせているのにくらべると、「寝園」は明発の怡和(いわ)の色を見せているとも眺められるであろうか。
 ただし、「寝園」の続篇にあたる部分は昭和七年に「文芸春秋」に連載されていたものである。「寝園」は「上海」に次ぐ横光氏の長編の第二作であったわけだが、以後、「旅愁」を別として、「上海」の型の長編はほとんど現われなくて、長編といえば「寝園」の心理主義の流れを受けたから、「寝園」が横光氏の長編の出発とも言えるであろう。
 「このときから私は短篇を次第に放れて長篇に意欲が動き始めたのを思い起こす。」と「解説に代えて」に書いたのも、「寝園」を念頭にうかべてのことであったろう。「寝園」の新聞連載を終えて後、横光氏は「花花」、「雅歌」を婦人雑誌、新聞に連載している。「寝園」の続篇の連載を終えての翌年(昭和八年)には「紋章」を書き始めている。「伝統という地下水」の流れに行きあたったのはこの長篇のあたりからであった。そして、「旅愁」という大河に棹(さお)さすに至るのである。~中略~
 小林秀雄氏は「機械」について、「この作品から倫理の匂いをかがぬ人は楽書を読むに如(し)かぬ。」と言っているが、おそらく「寝園」もそうなのであろう。「機械」にもお人好しがいる。ネームプレート工場の主人がそれで、人を信じて疑わぬ「底抜けのばかさは」、「よほどの人物でないと出来るものでなく」と書かれ、この主人は、「寝園」の仁羽に通じ、次の長編「紋章」の雁金にも一脈通じているのかもしれない。奈奈江や梶はその後の横光氏の長編にしばしば面影を浮かべ、「旅愁」の千鶴子や矢代にまで続いているようである。横光氏はこれらの人物を理想化し、善意を注いで大切に扱い、苦悪に沈め、地獄に墜(おと)すことはようしなかった。~中略~
 苦業の不幸を匂わせているとも見える「機械」に点じられた主人の善良が救いとなって光っているように、「機械」の系統を引いた昭和六年作の「時間」の心理の綾糸、図式、あるいは交響、波動の根底に私は横光氏の仏心とも、心理主義人間主義の倫理とも受けられるものが作用しているように思えてならない。』

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