ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

川端康成が横光利一を語る2

以下、『』内の文文章は中央公論社が出版した「日本の文学 横光利一」より川端康成が書いた「解説」から引用したものとなります。川端康成横光利一の研究の一助になれば幸いです。今回で、日本の文学からの引用を終わり、次回からは筑摩書房が出版した「現代日本文学全集65 横光利一集」に掲載されている川端康成の解説を紹介します。

 


 今回は『肉体の中に現われていた時代』、『遺稿「微笑」』と川端康成横光利一に送った弔辞についてご紹介します。


肉体の中に現われていた時代 横光氏は昭和十四年、数え年四十二歳の時、十年ばかり前の自作「機械」、「寝園」を顧みて、次のような感慨ももらしているのである。
 
  自分のたいていの作品はそれを書いているときの考え方が眼に見えて、あのときはあのようなことを、そんな風に考えていたのかと思い、腹立たしくなったり微笑したりするものだが、この二つの作にも多分にそれと同じ感懐を感じる。考えというものは文章のスタイルに現われるというよりも、むしろ考える前に、そのようなスタイルをとらねばいられぬ肉体が作者の中に潜んでいて、ときにはその特別の生物のごときものが考えをスタイルとして押し出していくことが多い。この作者さえ識らずして自分の中に潜ませていた生物は、多くは時代というものだ。今からこの「寝園」と「機械」を振り返ってみると、私の肉体の中に現われていた時代がよく分かるように思われる。今は私はこのようなものを寸断したく思うが、当時にはこれが生きていたのだからやむを得ない。しかし、生きていたものはたとえ良かろうと悪かろうと、今ではもう出来ないことだけは事実である。
 これはそのまま横光氏の遺言とも見られるような言葉である。昭和十四年という時点においてたまたま発せられた感慨ではあるが、作家としての横光氏の昭和十年代についての証言とも聞きなされてくるような一節である。自らの「肉体の中に現われていた時代」というものを横光君は信じたのである。「旅愁」を書き続けたのもひとえにこの「良かろうと悪かろうと」の思いからではなかったろうか。そして、それだけに敗戦を迎えた横光氏の悲しみは深かったのである。それは戦後に横光氏がはなはだしいまでの批判を浴びたことなどとは別個のことである。~中略~
  こういう時ふと自分のことを思うと、他人を見てどんなに感動しているときであろうとも、直ちに私は悲しみに襲われる。文士に憑きもののこの悲しさは、どんな山中にいようとも、どれほど人から物を貰おうとも、慰められることはさらにない。さみしさ、まさり来るばかりでただ日を送っているのみだ。何だか私には突き刺さっているものがある。
 日本が降伏して間もない昭和二十年の九月某日、東北の鎌倉時代さながらという一農村に疎開していた、横光氏の胸懐である(「夜の靴」所収)。このような考えによって、横光氏はかなしさを噛み、かなしさを支え、かなしさを通ろうとした。そしてそのかなしさを通ったことで横光氏は逝った。昭和二十二年十二月三十日、数え年の五十歳であった。古くから横光氏に兄事していた石塚友二氏はその死を、
    
    人生五十年一日(ひとひ)余ししかなしさよ
 と詠んだ。そのかなしさは今もなお私にある。』


横光が亡くなったことにより、川端の心の裡にしんと静かな悲しみが雪のように降り積もっているを感じますね。


遺稿「微笑」 「微笑」は遺稿である。横光氏は、この最後の作品の「微笑」にも数学を取り入れたように、構想の計算や製図に努めたが、東洋風の象徴とも見られるような飛躍が一方からそれに独断を交えて、この二つが必ずしも充分協和せぬ折りふしもあった。「微笑」には、しかし、俳句も挿入されていてなつかしい。横光氏は俳句がずいぶん慰めになっていたようである。晩年の文には一種の俳文を思わせるものがある。~中略~
 私はこれまで横光氏について書く場合もできるだけその言葉をのこすように努めてきた。この解説はそれらをつづり合わせ、編み直した体裁ではあるが、またある程度の手入れをもほどこしておいた。終りに「横光利一弔辞」を載せる。この弔辞は私の集にのっているが、重ねてここに収める。』


 川端が横光に送った弔辞ですが、全文掲載する訳にはいかないので、途中、中略を差し挟みますこと、どうぞご容赦下さい。


横光利一弔辞
 横光君
 ここに君とも、まことに君とも、生と死とに別れる時に遭(あ)った。君を敬慕し哀惜する人々は、君のなきがらを前にして、僕に長生きさせよと言う。これも君が情愛の声と僕の骨に沁みる。国破れてこのかた一入(ひとしお)木枯(こがらし)にさらされる僕の骨は、君という支えさえ奪われて、寒天に砕けるようである。
 君の骨もまた国破れて砕けたものである。このたびの戦争が、殊に敗亡が、いかに君の心身を痛め傷つけたか。僕等は無言のうちに新たな同情を通わせ合い、再び行路を見まもり合っていたが、君は東方の象徴の星のように卒(にわか)に光焰(こうえん)を発して落ちた。君は日本人として剛直であり、素樸(そぼく)であり、誠実であったからだ。君は正立し、予言し、信仰しようとしたからだ。
 君の名に傍(そ)えて僕の名の呼ばれる習わしも、かえりみればすでに二十五年を越えた。君の作家生涯のほとんど最初から最後まで続いた。その年月、君は常に僕の心の無二の友人であったばかりでなく、菊池さんと共に僕の二人の恩人であった。恩人としての顔を君は見せたためしは無かったが、喜びにつけ悲しみにつけ、君の徳が僕を霑(うるお)すのをひそかに僕は感じた。その恩頼は君の死によって絶えるものではない。僕は君を愛戴(あいたい)する人々の心にとまり、後の人々も君の文学につれて僕を伝えてくれることは最早疑いなく、僕は君と生きた縁を幸とする。生きている僕は所詮君の死をまことには知りがたいが、君の文学は永く生き、それに随(したが)って僕の亡びぬ時もやがて来るであろうか。~中略~
 君に遺された僕のさびしさは君が知ってくれるであろう。君と最後に会った時、生死の境にたゆとうような君の目差の無限のなつかしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあえるであろうか。さびしさの分る齢を迎えたころ、最もさびしい事は来るものとみえる。年来の友人の次々と去りゆくにつれて僕の生も消えてゆくのをどうとも出来ないとは、なんという事なのであろうか。また今日、文学の真中の柱ともいうべき君を、この国の天寒く年暮るる波濤(はとう)のなかに仆(たお)す我等の傷手(いたで)は大きいが、ただもう知友の愛の集まりを柩とした君の霊に、雨過ぎて洗える如き山の姿を祈って、僕の弔辞とするほかはないであろうか。
 
 横光君
 僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく。幸い君の遺族に後の憂えはない。
 昭和二十三年一月三日』

 

 ここから、本を代えての紹介となります。筑摩書房が出版した「現代日本文学全集65 横光利一集」から『』内の文章は左記の本から引用した上、手前勝手な現代語訳をしたものになります。旧漢字は全て新漢字にて掲載しておりますこと、ご了承ください。川端康成横光利一の研究の一助になれば幸いです。


 筑摩書房から出版された横光利一集には、川端康成における「横光利一」というタイトルによる解説が掲載されています。横光の弔辞から始まるこの文章は、どちらかと言えば二人の思い出を綴った内容となっています。

『一
 横光利一君は昭和二十二年十二月三十日午後四時十三分に死んだ。
 その時刻に私は萩須高徳氏の画室で絵を見ていた。フランスの田園風景を二枚並べて見ていた。二枚とも空が大きく雲の多い絵であった。雲は私を遠い思いに誘った。その雲を頭に残して鎌倉に帰ると、横光君の死を聞いた。
 雲の絵を見ている時横光君が死んだことになるので、私は萩須氏から二枚の絵を借りて、その後自分の家で眺めていた。雲によって私は横光君に出会うようにも感じた。


 二
 私の近作「しぐれ」に、手のデッサンの夢を見、覚めるとそれがデューラーのデッサンだったと分り、デューラーの画集を見て、その手のデッサンから友人の手を思い出すところがある。
 その友人は横光君ではないかと言う人があった。私は驚いた。「しぐれ」の友人は架空の人物である。心理も行為も横光君とはまったく縁がない。横光君はこの友人のように病的ではない。
 しかし、夢さめて画集を見た時、デューラーのデッサンの手から横光君の手をいくらか思い出したことだけは事実であった。~中略~


 三
 この文章を書き出した時、私の机の上にはロダンの手があった。~中略~ブロンズの小さい手で、文鎮には大き過ぎるがならぬこともない。~中略~
 女の左手である。~中略~女の手であるのに、このロダンの手から私はやはり横光君の手を思い出した。~中略~


 四
 デューラーロダンの手からなぜ横光君の手を思い出したのか、今私にはよくわからない。~中略~
 おぼろげな記憶だが、横光君の手は均整のいい形ではなかった。円みのある姿ではなかった。指は細長い方だったと思うが、すんなりと伸びてはいなかった。少し節立って、いくらか曲っていた。美しい精神的な手であった。涼しい愛情の手であった。
 いつか触れた時横光君の手が冷たかったのを私は覚えている。人の手は時によって冷たかったり温かかったりするものだから、私のそんな記憶で横光君の手が冷たいとは言えない。とにかくしかし横光君の手の冷たい感触が私に残っている。
 また私は横光君が死ぬ幾日か前の手を覚えている。胃の出血後少し持ち直した時だったが、ひどく衰えて寝ていた横光君は、まだ頭が十分はっきりしないために、手で思考と表現とを助けようとするかのようであった。手をそう動かすわけではないが、表情的に見えた。勿論青白く細った指であった。


 五
 手のデッサンにしろ、手の彫刻にしろ、人体の小部分の手を切り話したものだけになお象徴的である。手は顔ほど意味が明らかでないから顔よりも象徴的である。人体のうちで手は顔についで表情のある部分だが、私達は手に個性、個人別を見分けることは一向馴れていない。
 それでデューラーのデッサンからも、ロダンの彫刻からも、横光君の手を思い出すというおかしな話になるのかもしれない。~中略~


 六
横光君は二十歳から二十五歳の出発のころ、「私は何よりも芸術の象徴を重んじ」と自ら言っている。
 そうしてまた四十歳を過ぎてからは、「私も年とともに再び象徴を重んじた初期の風懐に戻って来たのを感じる。」~中略~
 二十の象徴と四十過ぎの象徴とでは、それを言う横光君自らの考えにも移り変わりはあったろう。初期の象徴的な短篇として、横光君は「蝿」、「御身」、「碑文」、「日輪」などを数え、後期の象徴的短篇として、「秋」、「睡蓮」、「シルクハット」などを数えている。初期では、「私は何よりも芸術の象徴性を重んじ、写実よりもむしろはるかに構図の象徴性に美があると信じていた。いわば文学を彫刻と等しい芸術と空想したロマンチシズムの開花期であった。」後期では、外面の視覚的な構図よりも内面の倫理的な構図の象徴性を志したようである。初期を彫刻的とすると、後期はあるいは幾分音楽的と言えるのかもしれない。
 横光君はまたこうも言っている。「常に現実の様相を追い回すことのみに専念する謀みからは、所詮、美も道徳も生まれる筈なく、智もまた自己の目的を知らずに腐り果てることを思えば、文学する者は、おのれの持った主題を含む題材の意味とともに常にそのときどきに死に、天に昇る象徴の使命を果たし、再び地上に下る困苦を繰り返すべきかと思うことは、私にはようやく自分の行くべき道のように見えて来た。」
 これらの言葉は河出書房版「三代名作全集」中の「横光利一集」に「解説に代えて」書かれたものである。
 
 七
 三代名作集は昭和十六年、開戦の年の出版だが、横光君は昭和二十年、終戦の年の日記「夜の靴」にも次のように書いている。~中略~
 
 「愁いつつ丘をのぼれば花茨(蕪村)
 と誰も口ずさむのは理由がある。この句は人と共に滅ぶものだ。耕し、愛し、眠り、食らうものらと共に滅んでゆくものでは、まだ美しさ以外のものではない。人の姿などかき消えた世界で、次に来るものは異様な光を放って謎を示す爪跡のような象徴を、がんと一つ残すもの。それはまだまだ日本には出ていない。人のいた限り、古代文字というものはどこかに少しはあったにちがいなかろうが。」~中略~
 このような詩の象徴が常に横光君のうちを流れていたことも疑えない。輪つぃは象徴という言葉のついでに引用しておきたい誘惑を感じた。
 横光君がこうまで芸術至上の嘆声をもらす時は稀で、論理的な試考が不断に強かったのである。』

 

 ここからは、河出書房新社から出版された「文芸読本 横光利一」より『』内の文章は全て左記の本からの手前勝手な現代語訳をした上での引用となります。この本は、多くの文人横光利一に寄せた文を集め、間に横光自身の書簡や随筆、俳句に加え写真が掲載されている本です。横光利一から川端康成へ宛の手紙も二通掲載されています。


 河出書房新社「文芸読本 横光利一」に掲載されている川端康成の文章には、筑摩書房が出版した「横光利一集」と同じタイトル「横光利一」で執筆がされています。
 ですが、筑摩書房は1950年3月に書かれたものですが、河出書房新社の方は1940年2月に作成され、また内容が全く違うのが特徴です。横光は昭和22年(1947年)に亡くなったため、この本に収載されている川端の記事は横光が存命だった時代に書かれたものとなります。


横光利一  川端康成
 横光君には自伝風な作品が少ない。また、自分を語ることはつつしんでいるようだ。従って、その出生や幼少時代のさまは余り知られていない。「横光氏の生立ち断片」という車谷弘君の記録が、それを伝えて、恐らく唯一のものであろうか。これは車谷君が横光君から親しく聞いて書いたという。横光君は常に問題の作家であるだけに、彼に関する論評も実に多いが、そのなかで、車谷君の文章は格別なつかしく思われる。今度横光君の作品が本全集(新日本文学全集)の一冊として出るにつけても、読者に紹介したいのは、この「横光氏の生立ち断片」である。ここに少し抜書きすることを、車谷君にゆるしてもらおう。
 横光君の本籍は大分県宇佐郡長峰村、明治三十一年三月十七日の出生、火山の爆発と同時に生まれたそうだが、その土地がどこかは知らないという。横光君の父上は、鉄道技師だったので、任地が度々かわり、小学校だけでも八度転校したそうである。初めて入ったのは、大津市の大津小学校だが、幼いころの古里という印象の深いのは、伊賀の柘植(つげ)である。ここは横光君の母上の生れた町でもある。
 私(川端)も横光君から柘植の話をよく聞いた。
 横光君の最初の記憶は、蜂に足を刺されたことと、兎の耳のなかの美しさに見とれたことの二つだという。後年父母に話しても、一家が福島に住んでいたころには、確かに蜜蜂や兎を飼っていたけれど、それはまだ横光君が二つか三つの時のことだから、覚えているはずないと言われたそうである。「やっと二三歳の横光さんが、兎の耳の中をじっと見つめて、その赤らんだ美しさにうっとりされたのを想像すると、横光さんの眼の美しさは、涼しく一生を貫いている感じで……」と、車谷君は書いている。五歳の時には呉の町にいた。この町の便所は一丈も深い。横光君はこれに落ちた。父上に襟首をつかまれ、そのまま海のなかでじゃぶじゃぶ洗われた。「その時、小さな魚が、貝の中から出たり入ったりしていた小底の美しさを、はっきり憶えているという。」
 九歳の時には、従兄が住職をしていた寺へしばらく預けられた。この山寺の鐘を毎朝つくのが、小さい横光君の役目だった。雑巾がめもした。ある時、本堂の金の大仏にまで雑巾をかけてしまった。この大仏は後年国宝になった。
 中学は伊賀の上野中学である。中学生の横光君は弱々しい文学少年ではなく、スポーツの選手という一面があったことは、私(川端)も時々横光君から聞いた。
 横光君の父上は測量技師で、「鉄道の神様」と言われていた。勘のいい人で、トンネル工事の入札は名人だった。
 山をじっと見ていると、工事の見積りが立つという風だった。その生涯で最も華かだった時代は、生野で銀山をあてた時である。幾度か浮き沈みの一生であった。金銭には淡泊で、人に言われるままに貸し与え、証文は破いた。京城で死んだ。行年五十四。
 車谷君の記録は大体右のようだが、これだけの断片も横光君を知る助けとなろう。横光君が「後年父上の展墓に帰った時、本籍地の人々が、横光さんを亡父にそっくりだと言ったそうだ。」横光君はこの父上の血を受けているところが多いだろう。父上が亡くなって、朝鮮へ行った時のことを、横光君は「青い石を拾ってから」という短篇に書いていたと思う。そのころ横光君はもう新進作家で、私達とも交友があった。横光君が二十四歳、私が二十三歳の時、二人は菊池寛氏の中富坂の家で初めて紹介されたのである。父上の晩年は不遇で、横光君もずいぶん窮迫していた。横光君の中野の家で母上は亡くなった。
 二十年近い私の作家生活は、横光君なしには考えられぬほどで、その信義に厚い友情についてはここに書きつくせない。私は横光君の作品の最もよき理解者とは言えないかもしれぬが、古い友人の作品には、先ず第一に作者の美しい人柄を感じるのも自然であろう。この集の三作を今読み返してみてもやはりそうである。~後略~』


 このように川端康成は著述していますが、現在では横光利一福島県の東山温泉の新滝旅館の一室で誕生した説が正しいとされています。また、火山が爆発した訳ではなく、この日は九州の太宰府へ左遷された菅原道真の命日であったため、横光の母は「この子は天神様の命日に生まれた子だから運が強い。」と言って育てたそうです。


 それに加え、横光の母は松尾芭蕉の後裔で、伊賀の松尾氏の血を引いた方でした。横光利一元禄時代俳人の血を引いた文豪で、血筋の点で言えばこれほど文士として生まれるべくして誕生した文豪はいないと言われていたそうです。


 横光の父である、梅次郎の実家は大分県宇佐郡長峰村大字赤尾で、代々藩の技術部門を担っていた名家の出でした。横光曰く、父は「青年時代に福沢諭吉の教えを受け、欧州主義を通して来た人物だった。ただひたすらに欧米に負けたくない諭吉の訓育のままに、西洋も知らず、山間にトンネルを穿つことに従事し、山嶽を貫くトンネルから文化が生じて来るものだと確信した。」(「旅愁」より)


 その父も、大正11年9月に亡くなり、横光は無一文になり失意のどん底にいました。その翌年、関東大震災を経験し、更に次の年、大正13年に「文芸時代」の創刊において「新感覚派」として認められ、活躍し始めますが大正14年1月27日に母小菊が亡くなります。
 この時の横光については、中山義秀の回想によると「君のお母ァさんは、亡くなったそうだね。おれは貧乏になったから、香典は出さないよ。」と言ったところ横光は「そんなことに気をつかってくれんでもよい。お袋はおやじの死んだ三年目に、おやじの側に行ったのだから、それはそれで本望だったわけさ。」と答え平然としていたそうです。
 ですが、大正15年6月24日に横光は最初の妻を亡くすことになります。そして、翌年の昭和2年に千代子夫人と菊池寛の媒酌により結婚しました。横光の激動の数年は大正の終りと共に、幕を下ろしたようですね。