ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

横光利一の書簡と随筆集

 河出書房新社から出版された「文芸読本 横光利一」より『』内の文章は全て左記の本からの手前勝手な現代語訳をした上での引用となります。この本は、多くの文人横光利一に寄せた文を集め、間に横光自身の書簡や随筆、写真が掲載されている本です。写真では、横光が「宮沢賢治全集」の刊行を手伝った際に撮影された高村光太郎との写真や、芸術家の岡本太郎、関西講演旅行の時に一緒だった吉川英治との写真があり当時の文壇における横光の人脈の広さを感じさせます。また、書簡では菊池寛芥川龍之介の二周忌に参加するようしきりと言われたと書かれてあるもの堀辰雄宛のもの、随筆では中原中也の葬儀に参加した時のことを書いています。

 


『藤沢恒夫宛
 昭和四年七月二十四日
 冠省。今日は芥川氏の二週忌で、参らねばならぬ。僕にしきりに出席せよと菊池先生が仰るので、少しブキミだ。どこか弱っているのじゃないかと思ったりする。
 先日、片岡と池谷と三人で、君の所へ行ったら、今、大阪へお立ちになった所だと女中が言った。
 九月号のを、四十枚まで書いて、少しへたばっている形である。暑いね。
 こないだ久野豊彦君が来て、君に藤沢君に叱られたのだけは、叱られたような気がして、うん、もっともだと思った、と感想をのべた。
 君の「写真」は、評判が大へん良いそう。
 嬉しい。岡村が、沢山新聞を見ているので、嘘ではない。「報知」「都」それからどこやら、皆、良いそうなり。喜ばしい。
 例の人は、僕とこから帰った。
 君の正統を造ろうとして、胸が裂けている。襟の合わせ方が、つまり、着物の寸法が足りない。それで広い肩幅が出る。帯の締め方が、正しい感がする。僕はいつも、糞をしているのだ。片岡の捨身は一寸恐い。捨身というのは、忍術だからね。
 池谷のこの頃は、何んか分らん。
 モウパッサンは官能で、最も形の正しさを愛した。狂気までが、正しい。
 僕は一寸やけくそになるほど、忙しい。』


 昭和2年(1927年)の2月に横光は菊池寛の媒酌により千代子夫人と結婚。同年7月に芥川龍之介が亡くなっており、この時は個人的にも文壇的にも忙しい年でした。
 昭和4年は、2月3月と続けて改造社から本を出版、原稿の発表。6月にも同社の雑誌で作品を発表し、7月には文芸春秋に作品を発表、そして同月に平凡社改造社からそれぞれ「横光利一集」「横光利一編」を刊行、10月には川端、堀辰雄らと「文学」を創刊するなど文豪として多忙を極めた年でした。
 また、この本では宛名が藤沢恒夫となっていましたが、正しくは藤沢桓夫(ふじさわたけお)となります。藤沢桓夫は、新感覚派の小説家としてデビューした後、プロレタリア文学に転向した作家です。


堀辰雄
 昭和六年五月二十八日消印
 冠省。お悪いとのこと、その後いかがです。この頃は誰も身体が悪いと言っています。僕なんか頭と腹を悪くして、雨が晴れぬかなとばかり思っています。五月だと言うのに火鉢に火を入れ、懐手してつづじの雨に濡れたのを眺めながら、西鶴をよんでいたので西鶴ものんきな男だと思い、浮世草紙をひきずり出したり、この頃西鶴西鶴西鶴ばやりになったのも、小説が行き詰まりになったのかと思い、いつも行き詰まりになって西鶴が出て来るのは、行き詰まりに西鶴がいるからにちがいないと思ったり、行きつまりとは、「ドルヂェル伯の舞踏会」みたいなものだと考えたり、まアそんなことでこの頃を暮らしていますが、雨が降り続くと、ハイカラなことを考えずに、浮世草紙をひっぱり出すのは、雨というものが浮世絵と似ているからだと思います。
 これから文学が行き詰まると、必ず行き詰まりにあった文学がひっぱり出されて問題になって来て、そのためにでも、「行き詰まり」文学は役に立つのでしょう。今は午後の二時で、もう僕の頭はこれから四時間ばかり全然役に立たなく悪くなりますからこのあたりでやめます。私が人に逢うのは、たいてい、この頭の一番悪い時間にばかり逢うので、私を皆の者は非常に阿呆だと思っているにちがいないと思います。ところが、私はもうすこし、頭が回るときには賢い。
 何となくこの手紙が間がぬけているのも、午後の二時だからです。
 僕の本の扉の所の裸体女の絵は僕もあれはいやです。何ぜ入れたか見当がつかない。
 (この所一週間あまりそのまま)
 お身体お大事に願います。三四日、伊豆の下田へいっていました。下田では永井君が一番美人の芸者にひっぱり舞されてしまって「永井はあ無用じゃ」とひやかされ続けました。
 僕は今日はひどく疲れていますのでこれで失礼。』


 堀辰雄昭和4年(1929年)に横光、川端とともに同人雑誌「文学」を刊行しています。この雑誌は残念ながら昭和5年で六号で終刊となりました。この年の10月に堀辰雄はひどい喀血をし、療養生活に入ります。続く昭和6年の4月には信州富士見のサナトリウムに入院することを余儀なくされていましたが、堀は病床でも原稿を書き続け発表しています。堀が27歳、横光32歳の時に交われた書簡です。


『ある夜(覚書)


 横須賀行の品川駅ホームは海近い。このに立っていると線路も無数に見え、その上を東西に次から次へと間断なく辷(すべ)って来る省線の乗り降りする客はたいへんな数である。中原中也君の葬に鎌倉へ行く途中だが、ふと故人の最後の詩をそのとき私は思い出した。ビルディングや駅の口から人の溢れ出て来るところを詠んだもので、
   出てくるわ出てくるわ出てくるわ
  とこのように繰り返してあったものだ。
 この夏故人はどういうつもりかひょっこり私の家へ訪ねてくれたが、初めて来てそれが最後となってしまった。そのときには有名な氏の元気さも鳴りを沈め、澄み透った眼だけがよく光って据わっていた。種々な腹綿を食い破って来た眼である。出てくるわ出てくるわというのも、もう口を拭くのも忘れた動かぬ豹の物憂げな眠さであった。
 ときどきこの豹は意外な所へ踊り出ていて耳を喰い破られた物凄さのまま、また突如としてどこかへ姿を消すのが例であった。
 私は故人とはあまりよく知らず交際も特にしなかったが、故人の噂は絶えず私に群り襲って来てやまなかった。ある冬の夜、偶然に私は氏と初めて逢った。
 「僕はあなたに注告しますが、あなたはもう人と逢わずに街の中へ越して来なさい。そして、電話をひいてときどき話をするようにしませんか。」と中原君は私に言った。これと同じ注告をしてくれた人は他にもあるが、年齢の若い人で作品の注告をせず、初めて逢っていきなり生活の注告をしてくれた人はごく少ない。この詩人はこれはただの詩人ではないとそのとき私は思ったが、この人は噂に違わず生活に概念のなくなってしまった人と見えて、その場で周囲の人も介意ず唄う歌は、どの歌も節回しが同じで御詠歌のようにひどい哀調を帯びていた。私は人と逢うのはこのごろ疲労を感じるときとてよく中原君の注告を思い出す。』


 中原中也が亡くなったのは昭和12年(1937年)9月22日のことで、横光37歳、中原30歳の時のことです。

 

『佐藤一英宛
 大正九年七月二日
 手紙ありがとう。昨日から試験になった。
 十日間もあるのだから困る。君の下宿の方はかたをつけておいた。そんなにあわてて上京しなくても落ちついていたってもいいように思う。無論、上京出来れば結構だが。しかし、そう早く田舎者になるきづかいもなかろう。せいぜい柔いけんかですますよう。君はたっしゃか。俺は二三日やられて寝たがもう起きた。寝ている時は凡てのものが、青くていきいきしているようにみえたが、起きるとそうでもないのだ、やっぱり宿場の馬みたいに、いつくるやら分からない物をぼんやりと待って退屈しとる。空には風があるとみえる。栗と桐と欅の梢が揺れている。こんな真昼に黙って一人誰かが死んでいはせぬか、ほったらかされて。』


 大正9年1920年)、横光利一はこの時、22歳でこの年の1月に作品「宝」を「サンエス」に発表、9月には現在の文京区の初音町11の初音館に下宿していました。


川端康成
 大正十三年八月七日
 お手紙拝見。御努力感謝いたし候。こんな所にいるのがすまなく思い候。京都へ下さった手紙拝見仕らず候。残念に候。菊池氏へは京都にいる時委(くわ)しくお報らせいたしおき候。決して悪くはお思いなさるまいと存ぜられ候。貴兄編集責任恭しく存じ候。貴兄反感の矢おもてにお立ちになること甚だ残念に存じ候へども、その時は小生出来得る限りのことはいたすべく候。雑誌発刊の説は雑誌設立理由及び心理を書くことといたそうではございませぬか。その方が片岡氏にも君にもいかがかと存ぜられ候が。
 十月号の小説のこと。目下小生、十月号の「改造」のを一つ書き居り候につき、余り長きものは及ぶこと之れ難からんと存ぜられ候が、十枚ばかし小生の所予算にお入れ下され度く、右お赦し下されば好都合と存じ候。
 喧嘩ばかりいたし居り候て、筆思うようにはかどらず。参り申し候。なるほどあの同人の顔ぶれでは犬養氏も押し出され候はんと微笑いたし候。鈴木彦、加宮、佐々木氏入り候は小生にとりても喜ばしく候。とにかく、片岡、貴兄編集となり候上は、皆もそう遊ぶこと許りは考えずと察せられ候。
 ただ皆々言い出すことに遠慮しているに過ぎず候へば皆々、形、はっきrと定まればいさぎよくお助けすることと存ぜられ候。
 何はともあれ感謝いたし候。早々。      左馬』


 大正13年1924年)における横光は、前年に新感覚派として菊池寛の元で新進作家として地位を確立し、この年は10月に川端らと一緒に「文芸時代」を創刊しました。


川端康成
 大正十四年十一月八日
 ここに新鮮にして、アクビ出る程。
 一句あり、「この秋はキキョウも見えずに寒菊や。」昨夜暴風参り、伊豆からなり。
 「風、伊豆から吹けば、源ヶ島の僧正いかにをはすらんと、岩より見れば、あはれ雲光りて一条の岬、閃々として。」なん口ずさみ候ぞ。東京なる程小生もいやに相成り候。時計も相かけ忘れ、時を見るに陽の光にて、夕どき来れば鯖一本浜より下げまいり鍋に入れ、一日に煙草十本。馬鹿馬鹿しきことのみ書き連れ候はまたと云うこと。』


 続く、大正14年は一月に母が亡くなり、また妻の状態も思わしくなかったため、横光は10月に神奈川県葉山森戸へ転居しています。


『千代子夫人宛
 昭和十一年五月二十四日パリより
 手紙を今日書かぬと、四五日、汽車が遅れてしまう。今日は五月二十四日で日曜だ。そうだ、日曜だったんだ。忘れていた。今は午後の五時だから、もう君たちは寝てしまったことであろう。ルクサンブールを歩いて来て、手紙を書きに戻って来たばかりだ。三四日前、一日旅行で、ルーアンという町へ樋口君と行って来た。この町はフローベルのボヴァリー夫人が村から出て来て、愛人と馬車に乗った町だ。
 それから、ジャンヌダルクが火あぶりにされた町である。ノルマンディー地方とて、明るく美しい。一晩とまって帰って来たが、もうマロニエの花は尽く散ってしまった。明日は月曜だから、君から手紙の来る日だ。
 ルーアンへ行く前日、君の洋服とハンドバッグと、手袋と帽子を送らせた。手袋がもし小さければ粉白粉を手にぬって最初はめるが良ろしい。
 帽子が小さければ、帽子にひもをつけ、かぶったときに、頭の後ろのマゲの上の所へひっかけるようにすれば良ろしい。七月の初めか六月の終わりに、横浜の税関から、荷物のついたことを報せるだろうから、何がしの税金を送れば、そちらへ送ることと思う。
 この次の手紙は、ひょっとすると、スペインから出すから遅れる事と思う。二三日ひどく寒く、ルーアンでは慄えた。ひどく暑くワイシャツ一つだったのに、びっくりした。パリへ帰っても寒さがつづいた。
 さっぱりわからぬ。早く日本へ帰りたいばかりだ。早く逢いたいと思う。何をしよう、かにをしようなんて気はなくなった。
 日本へ帰れば、そうでもあるまいけれども、何となく今は、そうだ。
 一週間なんて見る間にたってしまう。
 これでまだ、これからスペインへ行き、イタリアへ行き、ウィーン、ドイツと廻るのかと思うと、何だか忙しいが、まだ六、七、八月とあるのだから、思えば長くもある。
 セザンヌの展覧会がある。三十年祭の事とて、世界各国からセザンヌの絵が集って来ているとの事で、パリに長くいても、めったに見られぬそうだ。これを明日あたり見るのだ。マチスピカソ、皆見た。
 スペインは十日あまりかかるらしい。
 六月の中ごろには、またここへ帰っている筈だ。マドリードから、セビージャ、アンダルシア地方を廻るのだ。ここは夢みたいだそうな。』


 昭和11年(1936年)、横光は38歳にしてパリへと旅立ち各国を訪ねます。当時は船旅であったため、2月に福岡県の門司港から出発し帰りは8月でシベリア経由で帰国しました。船中にて、高浜虚子と食事をしたり俳句会に出席し、パリでは友人であった岡本太郎を訪ね、一緒に撮影した写真も残っています。


『千代子夫人宛(ベニスより)
 昭和十一年六月二十五日
 今ベニスの葉書を出したばかりだが、すこし印象を書いておこう。
 橋のところで(絵葉書の)夕食を食べ、ホテルへ帰ったばかりだ。このホテルは、宮殿だと云っても良い。ベルサイユの宮殿の中もよく見たが、これほど美しいとは思わなかったほどだ。ホテルは海に向かっている。ここの街は妙な街で、露地ばかりみたいな街だ。その露地がときどき水なのだ。
 というよりも、つまり入り組んだ露地の大半は水路なのである。家と家との間に舟の通っている幅一間ばかりの深い水路ばかりだから、隣の家へ行くにも、橋を渡って行くのさ。水は濁っているかと思ったら、そうじゃない。青々とした深い水だ。佑典ぐらいな子供が欄干の何にもないその水端で、遊んでいるが、よくほっておけたものだと、不思議な気がする。浅い水ならともかく、底が見えない深さだ。』

 

横光利一随筆


『解説に代えて
 外国文化に影響を受けた人物というものは、日本人ともつかず、西洋人ともつかぬ、一種不可思議な人種である。これらの善悪はともかくとして、精神が虚空に浮き上がり、したがって動作が奇怪で判断に迷う場合がしばしば日常に起こっている。このような人物の良心がある悲しみを感じつつ、次の時代のある来かかった光を望んで無我夢中に進もうとした態勢を、私は「時計」の中で描いてみたかった。「紋章」と「時計」は同年の同時に書きすすめてみたのであるが、文学作品は時には読者に反省を要求したり、巻き込みを望んだりすること、作者のその時の精神の強弱に比例するとはいえ、この二作ではともかくその反対の現象を書くことに意を用いた。』


『満目季節
  妹と見し紅梅の枝折れてをる
 
 自作について疑問を書いてみたいと思う。この句、折れてをるが口語調になり品位を失うと思った。このような句は図太さがなければ古くなり、野に立つ心理が出ないように思われたので、無理にそのまま使ってみた。私は品位よりも時には主観を尊びたいので、無理をすることによって無理なからしめようと骨折ってみたい危ない考えなのであるが、この場合は日頃の癖の散文行き方のほうが勝ったのであろうか。』


横光利一詩集


『海
 このしののめの渚にて林檎を磨く
 海底の魚介七色の祭典峻烈にして
 おもむろに靡く海の草。海の花。
 (大正十四年一月)』


『捨子
 春になれば見よかの波は群れ来る赤子
 磯に額(ぬか)づく祈願の女立ちて望めば
 朗々と群れ寄る波の波頭(なみがしら)
 真夏はいよよ声を潜めて漫歩するなり
 緑の褥(しとね)、露の影
 ああ、はるかにはるかに遠く彼は産女の胸に昇り来る
 曠野(こうや)は叩かれて秋
 平安に帯解きて母の眼は時を追う
 空は早すでに憤怒を忘れて無言なり
 ああ母よ、捨子は磯に泣き疲れて石を投ぐ
 ただ浪々と波の音の高ければ、天心の正午も見えず
 御身何処(いづく)に
 (大正七年)』


『死
 さて話変って彼の番だ。
 何をし出すかあのここな曲者め。
 「諸君」と彼は言った。
 彼は唇にあてた盃をつと捧げ、
 「諸君、耳を澄まして聞き候へ、
  この一盞の酒の中にも、満干の潮がさしてござりまするぞ。」
 言い終わったとき、不意に屋根ががらがらっと落ちて来た。
 「諸君、諸君」
 (大正十二年)』


『扇子を使う
 女は林檎の模様の着物を着て、
 時には掌の上の卵をうっとりと眺むべし。
 一口の悪口にも均衡を失う男、
 あな賢きかんばせして桜かざせるは、
 自ら馬を示す。
 風吹けど延びたまま縮まざるは物の美事とは言い難いけれど、
 言いたきことあれば大の字に拡がりて美しく扇子を使い、
 われら気候の挨拶をしてみたい。
 (昭和三年五月)』


横光利一俳句


『ふるさとの菓子噛み割りし寒の明け
 残る雪枯草よりも沈みいる
 木橋のそり狂うあり水温(ぬる)む
 蟻台上に餓えて月高し
 また楽し友遠方の五月文
 
 日の光り初夏傾けて照りわたる
 肌に触る風しばしば新樹なり
 待つ朝の鏡にうつす青落葉
 人待てば鏡冴ゆなり青落葉
 芍薬を売り残したり花車
 膝抱きて旅の疲れや白あやめ
 栗の花ときおり思う人もあり
 栗の花ちる経たるむ腕時計
 紫陽花に霧くづれ舞う強羅の灯(箱根にて)
 眠りよるインコ真白し夏の月(同)
 梅雨曇りベルの音よく冴ゆる門
 梅雨曇り皮囊(ひのう)よく匂う朝
 梅雨晴れや手枕の骨鳴るままに
 五月雨や居ねむり顔の傷の痕(子のねむりを眺め)
 古釘や蚊帳吊り落す梅雨のあけ
 花菖蒲茎真直ぐに螢這う
 夏草の溝越え茂る街汗す
 つかの間に夏草胸を没しけり
 吹き撓(たわ)む若竹長き堤かな(中利根を行きて)
 若竹を吹き曲げにけり青嵐
 夏椿峡(はざま)の湯岩古くなりぬ
 茉莉花の香指につく指を見る
 夏菊や人衰えてたたづみぬ
 傾きて崩るるごとき百合の山
 
 松の芽の伸び美しき雲の峰(米子にて)
 河の石青みどろ濃く雷来る
 夏の花一つも見えず雷来る
 ブロニュの滝も無言(しじま)を破りをり
 ブロニュのオール少しく鳥追えり
 病院へ行く道いつも汗を拭く
 炎天の馬あれつのる峠かな
 静脈の浮き上り来る酷暑かな(飛騨にて)
 秋立つやみ仏の髪の捲きちぢれ
 耶蘇の紋彫り残したる城の秋
 藍よりも濃き花開く初秋かな(松村恭太郎氏長女出産の祝いに贈りたる書翰)
 山峡のレール秋ひき立ち迎う(強羅にて) 
 蜩(ひぐらし)や風呂わきくれば人にすすむ
 五味の実は紅に透き葉洩れ陽に
 柿の実の青き秋暑や兵士去る
 秋半ばモンマルトルの霧を思う
 二百十日額吹き流る虫の声
 二百十日塀きれぎれに蔦の骨
 墓の上の一本の樹ただに暴る(二百十日
 あづき煮る火もとさみしき野分かな(上野俊介君の京城へ転居につき炭多く届けられる)
 畳替錐残りをる秋の宵
 でこぼこの鍋なつかしや秋の夜
 秋の夜や掘る穴の底に水ありき
 秋の夜や交番の人動かざる
 山茶花や瓣(はなびら)たまりよる石の段
 横綱と顔を洗うや冬の宿(大村にて安芸の海と同宿す)
 銃眼を残して生うる蓬かな(萩にて)
 春暁や罪ほの暗く胃に残る(正食二十日の後、ある夜ひそかに菓子を食う)
 花冷や眼薬をさす夕ごころ(ある街角の茶房にて)』