ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

伊藤整が横光利一について解説する

 伊藤整が寄稿した横光利一の解説は、当時の文壇の状況がうまく整理され、理解しやすい点が特徴です。その代わり、かなり辛口な批評が読んでいて少し、辛いかもしれません。
以下、筑摩書房が出版した「現代日本文学全集65 横光利一集」から『』内の文章は左記の本から引用した上、手前勝手な現代語訳をしたものになります。旧漢字は全て新漢字にて掲載しておりますこと、ご了承ください。横光利一の研究の一助になれば幸いです。

 


伊藤整ってどんな人?


伊藤整(いとうせい)は、明治に生まれ、大正、昭和に活躍した小説家であり詩人、文芸評論から翻訳まで手がけた人です。位階は正五位となります。翻訳では「ユリシーズ」、小説では「吉祥天女」、「花ひらく」、「海の見える町」、「若い詩人の肖像」などがあります。


横光利一の文壇への登場は、大正十二年(1923年)である。この年五月、彼は数え年二十六歳で「日輪」を「新小説」に発表し、「蝿」を「文藝春秋」に発表した。この時までに彼は、二十歳の頃から「村の活動」、「悲しめる顔」、「火」、「御身」等の小説を書いていたが、大正十一年菊池寛に知られ、その翌年一月、菊池寛の創刊した雑誌「文藝春秋」の同人になるまで、その存在は文壇以前のものであった。
 大正十二三年頃は、日本の文学の大きな変わり目に当たっていた。大正の初め頃から六七年にかけて文壇に出て来た新作家たち、即ち武者小路実篤志賀直哉、里見淳、長与善郎、谷崎潤一郎芥川龍之介久米正雄菊池寛佐藤春夫宇野浩二広津和郎、室尾犀星等が、それぞれその資質を十分に発揮した作品をこの時までに書いていた。その上、大正七年に終わった第一次大戦後のヨーロッパの新文学が盛んに流入して来た。同時に大一次大戦の結果起こったロシアノ共産主義革命の影響としてマルクシズム思想が紹介され、それが思想問題の中心に座を占めて来つつあった。それに加えるに、横光利一が「日輪」を発表した直後の大正十二年の九月、関東大震災が起こり、それが日本の経済や社会生活の形式の上に、大戦がヨーロッパ社会に与えたのに似た大きな変化をもたらした。
 ちょうどその変革期に横光利一は文壇に登場して来たのである。菊池寛はこの時期、新聞小説を書いて当代の第一人者と言われていたが、大正十二年一月から、その知友や後輩が自由にものを書ける雑誌として、薄っぺらな「文藝春秋」を発刊した。そして、当時彼の身辺に集まっていた無名作家たちをその雑誌の同人にした。それは、横光利一川端康成、石濱金作、鈴木彦次郎、酒井真人、今東光、菅忠雄、鈴木氏亭、加宮貴一、佐佐木茂索中河与一佐々木味津三、伊藤貴麿、南幸夫等であった。雑誌は文壇人の随筆を主とし、巻末にこれら新人たちの創作が載った。
 その翌年、即ち関東大震災の災害から東京が立ち直りつつあった時、この若い作家たちは、更に別に自分等の雑誌として「文芸時代」を金星堂から発刊した。それが大正十三年十月である。この同じ年の六月に、左翼系の政治思想を持った新しい文学者の集団によって、雑誌「文芸戦線」が創刊された。そして、それ以後、この二冊の雑誌は、昭和初年まで新しい芸術派文学とプロレタリア文学との代表的な雑誌として、対立し、また交流しながら、昭和期の新文学の二つの大きな源泉となった。
 横光利一は「文芸時代」において代表的な作家であった。「日輪」は、二十六七歳の青年の作品として卓越した出来のものであって、昭和初年「上海」を書くまでの彼の作風は、ほぼこの時に確立していた、と言ってもいいものであった。~中略~
 「文芸時代」の十月号に書いた「頭ならびに腹」は次のような文章で始まっていた。「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。」この「沿線の小駅は石のように黙殺された。」という飛躍の多い形容のしかたは、それまでの日本の文章には見られなかったものであって、その他にも「今まで鎮まっていた群衆の頭は、俄に卓子をめがけて旋風のように揺らぎ出した。卓子が傾いた。」というような、荒々しい、弾力のある、しかし新鮮な印象を与える文体を、この時期の横光利一は縦横に使った。それは、明治末年に自然主義が日本の文学を日常生活に直接しばりつける文体を作り出して以来、谷崎潤一郎芥川龍之介の美意識を生かした文体による抵抗があったにかかわらず、頑強に続いていた話し言葉系統の文体に対する挑戦であった。
 当時「毎日新聞」の記者で文芸評論家として権威のあった千葉亀雄が、主として横光利一中河与一と片岡鐵兵と今東光等が使い、川端康成にも多少その傾向のあったこの種の表現の特殊性から、「文芸時代」に集ったこの一群の作家たちを、「新感覚派」と名づけた。横光はそれを意識的に自分等の文学活動の旗印として、このグループの芸術的宣言とも見られる「新感覚論」を書いた。その文章は、更に細かく「独断」、「感覚と新感覚」、「官能と新感覚」、「生活の感覚化」、「感覚触発の対象」、「より深き認識への感覚」、「文学と感覚」等の小節に分かれていた。その中で彼は「未来派、立体派、表現派、ダダイズム、象徴派、構成派、如実派のある一部、これ等は総て自分は新感覚派に属するものとして認めている。」と言い、今東光中河与一、石濱金作、川端康成等同人の作品の特色を、これ等のイズムとの関聯(かんれん)において論じ、それぞれの特色を列記した。そして彼の主目的は自然主義系の文学手法を改革することにあることを明らかにした。

 横光利一は、このような文体を作り出す前に、彼は志賀直哉の影響をかなり強く受けていて、ごく初期の作品「御身」、「火」、「蝿」などには、その文脈をたどることができる。横光がいわゆる「如実派」文体から受けついだものが、特に志賀系だということは、当時の彼の僚友中河与一が、その頃彼等の尊敬した先輩作家として志賀直哉を特に挙げていることからも分かるし、またその頃横光が、志賀直哉佐藤春夫とを乗り越すことは不可能だ、と言ったという文壇伝説も残っている。志賀の文体は大正前期の作家のうち最も強い筋骨を持っているものであって、その筋骨性が横光の「蝿」や「火」などに受けつがれていることは明らかである。
 筋骨的な部分のみを書いて他を棄て去ることによって文章の力を作り出す、という志賀の方法が横光に受けつがれた時、それは変化して、観念を中核とするものとなった。それの変化は最も志賀的な感じのある大正十年に書いた「御身」から、大正十二年の「蝿」を経て、十三年「無体な街」や「頭ならびに腹」に達する間にたどることができる。志賀直哉においては、文章の筋肉的なものは、観察とか描写から遊離せずに、ものの姿のあり方の中に不可分に包含されていたが、横光においては、「御身」の頃から、観念そのものが抽出され、純粋化して、描写過程から切り離されて存在し得るようになっている。即ち横光の初期から現われた特質は思考と描写の遊離であって、これが自然主義系統の写生的文章から彼を自由にしたのである。またこの事は観念の自由な飛躍をも可能にさせたし、形容詞や形容句の思い切った新しい試みをさせる可能性をも生じることになった。
 しかし、彼にこのような思い切った表現を暗示することになった多くの外国文学の紹介が、大正十年から後の日本文壇に数多く現われたのは見のがすことができない。
 第一は、彼が「日輪」を書くに当たって、フローベールカルタゴ戦争に取材したきらびやかな装飾的な文体小説「サランボー」の影響を受けたことである。その頃、批評家として、かつ海外の文学や思想の紹介者として仕事をしていた生田長江が「サランボー」を訳した。その文体を生田長江は、直訳体の面白さを生かして行った。早稲田大学の学生だった横光利一は「古船のような初音館の薄暗い室で、デクェンシイを読み、出世作『日輪』を書いていた。長江の『サランボー』の直訳体が彼の気風に合ったらしく、第三人称と動詞を二つに折り重ねる語勢の強い独自の文体で、その嫉妬文学をつづける破れ自らが、妄執の鬼に憑かれているようだった。」と彼の学友であった詩人吉田一穂が書いている。それ故「日輪」は題材的にも、文体的にも生田長江訳の「サランボー」の影響を受けていたことが推定される。
 また、大正十三年に堀口大学の訳で出たフランスの戦後作家ポール・モランの「夜ひらく」は最も強い影響を「文芸時代」に拠っていた若い作家あっちに与えた。「沿線の小駅は石のように黙殺された。」という表現は堀口訳のポール・モランの特徴的なものである。ポール・モランはダダイズム系の作家であって、その飛躍的な印象手法の文体は、当時極めて新鮮なものに見えた。その外に、ドイツやその周辺の国々で戦後に起こった表現主義系の戯曲が多くその頃紹介された。
 それらのうち相当の量が「文芸時代」の発行所金星堂から出た。~中略~これ等の作品は大震災後に建設されて日本の新しい劇運動の中心になった小山内薫築地小劇場が、主として新しい翻訳劇を上演する傾向であったことと関係があって、そこで上演用に訳されたり、またこの新劇の愛好者たちの読書欲を満たすものとして訳出されたりしたのである。これ等の新しい飛躍的な観念によって作られた戯曲がまた新感覚派の文学に影響した。新感覚派の文学が文体のみでなく、構成においても著しく戯曲的なものを持っていることも、劇の影響が多かった現れであると見ることができる。
 築地小劇場の作り出した新劇の考え方と新感覚派の文学の考え方とは、交流し合っていた。
 即ちその当時の若い文学青年たちには「文芸時代」や「文芸戦線」を読みながら築地小劇場へ行って翻訳劇の上演を見る、という風潮があった。また表現派の映画の傑作と言われた「カリガリ博士」が大正十年に輸入されたことも、この劇と小説の新運動に影響を与えた。大正十四年に横光利一が書いた「表現派の役者」という小説は、そのような時代雰囲気を浮き彫りにしている。
 その外に横光利一が好んで読んだのに、前田晃がこの頃時々雑誌に翻訳をのせたノルウェーの作家キーランドの小説があった。キーランドはもう少し前の作家であるが、風景描写と観念とが美しい綾をなしているような特殊な文体を持った小説家であって、新感覚派的文章に近い形のものである。前田晃訳のキーランドの作品に「希望は四月緑の衣を着て」というのがあり、それと横光の「春は馬車に乗って」という題の近似感を考えてもこの事は推定できる。
 以上略述したような色々な影響の外に、新感覚派の文体と作品構成に影響したのは、社会の変化である。東京を中心とする都会生活は震災後激変して、明治以来の古い形式の建物の多くが失われ、自動車が一般化し、文化住宅という半洋式の建物が増し、アメリカ風のホテルや酒場が出現し、女性の断髪が流行し、洋服が外出用の一般的な衣服になった。そういう社会風俗の変化は新感覚派文学の原因ともなり、またそれが読者に受け入れられる理由ともなった。
 当時ヨーロッパでは、戦後のドイツが、インフレのために市民生活と道徳が崩壊して革命前夜状態にあった。ドイツの戦後文学の作品には頽廃的と言うよりも、革命意識とつながった崩壊的なものがあった。それ故表現主義系の文学作品は、日本の震災後の労働運動や革命運動と反映し合った。「文芸戦線」の動きが次第に協力になったのもそのような空気の中でであり、「文芸時代」の作家たちもまた、プロレタリア革命やマルクス主義の運動にふれて書くようになった。~中略~
 横光利一は芸術論上、マルクス主義と対立する立場を取り、この思想に対して挑戦的な作品「ナポレオンと田蟲」、「マルクスの審判」を書き、またマルクス主義を容認するかのような小説「花婿の感想」を書いた。更にこの頃から昭和初年にかけて「唯物論的文学論について」、「新感覚派とコンミニズム文学」等のエッセイを書いて対抗した。しかし彼自身は、かなり唯物論の影響を受け、地理学的な唯物社会観を骨組とする小説「静かなる羅列」等を書いた。』


作中において、マルクシズムと書かれていたところは、マルクス主義と訳しております。

turugimitiko.hatenadiary.jp