ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

伊藤整が横光利一について解説する2

以下、筑摩書房が出版した「現代日本文学全集65 横光利一集」から『』内の文章は左記の本から引用した上、手前勝手な現代語訳をしたものになります。旧漢字は全て新漢字にて掲載しておりますこと、ご了承ください。横光利一の研究の一助になれば幸いです。

 


『一、谷崎潤一郎が「改造」に連載していた「卍」の大阪弁の独白体。そして谷崎の文体がまたプルーストの影響下にあったことも推定される。
 二、プルーストの小説の淀野等の訳。
 三、ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」の堀口訳。』


 上記の三点については、河出書房新社「文芸読本 横光利一」内において「横光利一 その評価をめぐって」にて、曽根博義がニと三については、完全に伊藤整の勘違い及び認識不足であることを論破しており、一についても無理矢理感があるけれども、論考としては面白いので、もう少し厳密な論証をしてみる必要があるにとどめております。
本解説においては、この三点における伊藤整の考察については、上記の理由から該当箇所を割愛しております。


『人間観の上においては、横光を最も強く支配していたのは愛の問題と性の問題であったと思われる。「御身」は彼の青春時の清潔な倫理観を示した作品ではあるが、その中に、性の問題でなく、叔父と姪の間における愛の問題が純粋に扱われていることは注目に値する。数え年二十四歳で愛の精神をこのように純粋にとらえた作家が、更に性の問題を考えねばならなくなるに及んで、その思想が唯物的な解決と対立することになったのは当然のことであった。「御身」を書く前年の大正九年に書いた短篇「火」は、子供が母親の不貞に気づくことを主題にした作品であるが、その描出の老成ぶりには驚くべきものがある。
 また更に彼は大正十四年に母を失い、大正十五年に妻君君子を失い、死という問題をもその思考の中に組み入れるようになった。妻の死によって死の問題に直面した大正十五年に彼は傑作と言われる「春は馬車に乗って」を書いた。この作品は更にその翌年「花園の思想」において円熟した構成で描き直されたものであるが、前者「春は馬車に乗って」は構成の不完全さを補う印象の鮮明さと、死の認識との結びつきとして、新感覚派手法を使い出してからはじめて彼の作品が人間的生気を強く放つものとなったと言えよう。
 横光利一の中には、新感覚派的なものと融和し得ない自然感情的なものが生きていた。それが最も端的に現われたのは、短篇「草の中」である。この短篇にあるような自然感情は新感覚派作風以前の「火」や「御身」にあるものであって、これ等の作品は、この作家の素直な人間性をじかに読者に伝える。しかし、自然主義に反対し、大正期の新現実主義をも乗り越えようとする意志を持っていた闘将としての横光利一は、このような自然感情が直接に流露するのをきびしく意志的に拒んだ。そのため、大正末年の彼の作品には意匠の新鮮さがあっても、人間的な訴える力には欠けていた。その自然感情的なものが、新感覚派的手法と融和して頂点となったのは、彼が妻の死という問題に直面した時に書いた「春は馬車に乗って」であった。
 「春は馬車に乗って」を書いた翌年の昭和二年、彼は日向千代子と再婚した。そしてその翌年の四月、彼は上海に一ヶ月ばかり遊んだ。この旅行に胚胎したのが長編小説「上海」であって、その四月に彼はその最初の部分「風呂と銀行」を書いた。場面は上海である。』


 実は、横光の上海旅行には芥川龍之介の強い影響があります。芥川龍之介は彼が再婚した年の七月に亡くなり、横光は当時のことをこのように振り返っています。
芥川龍之介はわれわれの意識の上に、穴を開けた。われわれはこの穴の周囲を廻りながら、彼の穴の深さを覗き込んだ。しかし、われわれは何を見たか。私は自分の口の開いていたのに気付いただけだ。穴の傍でー次に私は笑い出した。」(「控え目な感想」より)
 そして、横光は生前、芥川龍之介から「君は上海を見ておかねばいけない」と言われたことを思い出します。そのことから、横光は再婚の翌年、昭和三年に上海に一ヶ月ほど滞在しました。
 芥川は大正10年(1921年)、彼が29歳の時に上海を訪れています。この時、横光は23歳でこの年に菊池寛によって川端康成と知遇を得ます。1912年に中国では清朝が終りを迎えていますが、芥川龍之介が見た上海では長く続いた王政が未だに影を落とし、街には革命前夜の重い気配が漂っていました。
 対する横光は、蒋介石南京政府という形によって独裁を成立させてから一年後の上海を訪ねたことになります。


『昭和二年に芥川龍之介が死んでから後、それまで芥川と谷崎潤一郎佐藤春夫との間に保たれているように見えた大正期の純文学の理論的な中心は崩れ去った。志賀直哉は大正の末年から昭和初年にかけて全く創作の筆を絶ち、奈良に住んでいた。佐藤春夫は新しい文学の理解者創始者としての第一線を退いた。ただ谷崎潤一郎のみは、この時機横光と並んで「改造」に「卍」を発表していたが、谷崎もまた大震災以後は、関西に居を移して新しい文壇との接触が絶えていた。それ故昭和初年代には、横光利一はほとんどの文壇の中心的な存在となっていた。
 かあれが引き受けていた当時の日本文学の中心問題は、第一、ヨーロッパ文学が大戦争の後に産み出した新しい文学を日本の文士として如何に取り入れるかという問題と、第二、自然主義以来の日本文学の行きづまりを打開して、どのような将来の文学形式を作り出すかという問題と、第三、ちょうどこの頃徳永直、葉山嘉樹小林多喜二武田麟太郎中野重治というような新作家の活躍によって最盛期に達したプロレタリア文学に対して芸術派がいかなる方法でその立場を守るか、という三つであった。

 また昭和三年に詩の季刊誌「詩と詩論」が発刊された。この雑誌には横光等の次のジェネレーションである春山行夫北川冬彦中島健蔵三好達治西脇順三郎堀辰雄阿部知二渡辺一夫飯島正等が、新しいイギリスやフランスやドイツの文学の紹介を次々に行った。~中略~また堀口大学はレーモン・ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」を訳出した。それで昭和四、五年の頃には、大正末年と違った意味での西ヨーロッパの戦後文学が芸術派の側から日本の文壇に盛んに紹介されはじめていた。大正末年に紹介されたものがドイツ、オーストリア、イタリアを主としたのに対して、この時に紹介されたのは、フランス、イギリスが主であり、その中心思想はフロイディズムに裏づけされた心理主義であった。この新しい文学潮流の影響が横光利一の文学の方法に第二次の変化を与えた。
 即ち彼は昭和五年の夏、山形県の海岸に一ヶ月滞在して、その間に新しい方法による短編小説「機械」を書いた。この作品の傾向は、この年三月に発表した「鳥」の頃からきざしていたものであったが、「機械」において頂点に達した。それまで彼の書き方が、外の世界の印象を飛躍的な記述と観念との織りまぜにあったとすれば、「機械」においては独白的な心理描写を中心として、外形の描写は、その心理的なリアリズムに触れて来るものだけを取り入れるようになっていた。~割愛~
 彼の人間観の中には、初期からあった「愛」と「性」の問題の外に、社会構造としての人間の組み合わせの問題が、次第に発展してきて、中心的な場所を占めるようになっていた。その主題は、「上海」の中心主題であった。大会社の組織が人間を奴隷化すること、国家意思が人間性を無視してその野心を植民地で押し進めること、そして、そういうものの中に生きる知識人のニヒリズム、労働者の民族意識や集団による闘争、というようなものが「上海」では大きな野心的構図で描かれている。だが「上海」を現実に読むものの誰もが感ずるように、そのような論理的主題を描き出すには、新感覚派的手法の特色なる印象飛躍法は適当でなかった。
 新感覚派手法は、印象の模様化の面白さのために思考の論理的構成を絶えず崩すことで、まとまりなくしてしまうのである。~中略~横光の社会観人間観は初めは人間存在の不安定の意識から発して、後にマルクス主義によって社会的なものに拡大され増殖したものであったと私は考えている。』


 中略した部分や割愛した部分には伊藤整の「機械」に対する、ちょっと普通ではない執心が余さず書かれてあります。彼は、「機械」を初めて読んだ時の回想を下記のように書いております。


『私は牛込の電車道を歩きながら買ったばかりの雑誌で『機械』を読み出した時、息が詰まるような強い印象を受けた。(中略)あの新感覚派流の印象を跳ね飛びながら追う『上海』までの手法を突然彼はやめ、柔軟な、谷川徹三の所謂『唐草模様』的連想方法を使い、文体も切れ目なく続いて改行のほとんど無い、字のぎっしりつまった形になっていた。率直に言えば、堀も私もやろうとしてまだ力が足りなかったうちに、この強引な先輩作家は、少なくとも日本文で可能な一つの型を作ってしまった、という感じであった』(清水書院横光利一 人と作品28」福田清人 荒井惇見 共著 より引用)

 堀とは、堀辰雄のことです。堀は、横光より6歳年下、芥川にとって堀は一回り違う同じ辰年生まれの弟子でした。横光自身から見た芥川は6歳年上でしたので、芥川→横光→堀らは6歳ずつ年が離れています。
 また、横光は昭和7年5月に雑誌「改造」にて伊藤整が翻訳した「ユリシーズ」について、下記のような見解を掲載しております。恐らくそれを読んだ上で、伊藤は自分が翻訳した「ユリシーズ」が発表される前に、既に「機械」は書かれていたにも関わらず影響を与えたものとして書き記しています。
『人は誰でも一度は蓄音機のレコードを逆にかけて、終始点から初めへ向かって針を動かしてみたくなったり、人間一日の行動を休むことなく、フィルムに撮り続けてみたくなったりしたことがあったであろうと思う。
 『ユリシーズ』や『失いし時を求めて』の企ては甚だ簡単なものである。ただあれほどの馬鹿なことを誰もする気が起こらなかっただけなのだ。一日中の人間の行動を一日かかって撮影することは、鳩の音を出さんとするとき本物の鳩を使う擬音の脱法行為とどこが違うのであろう。
 ジョイスもプルーストも明らかにこの点にかけては脱法者だ。脱法者は犯罪人である。しかし、裁判官はこれを罰する判例を知らない。
 しかも、何人も知らぬのだ。彼らは呆然とした自身のその逆説的な態度を押し隠すがために、自身の頭に解釈を与えねばならなかった。現実というものは、他の何物でもない自分の頭の貧弱さにすぎない。文学におけるこの端的な解釈学は『ユリシーズ』と『失いし時を求めて』の批評から新しく始まって来た。(中略)
 現実の暗面』ーなるほど、現実には暗面はあるであろう。しかし、暗面というものは、文字では絶対に表現することは出来ない。『ユリシーズ』の成功は、人間心理の暗面を描いたことではなく、暗面とはおよそ文字から逃げていく余白そのものに等しいということを誰よりも明瞭に身をもって調査したことにある。われわれはこれに疑いをもっても、もう一度調査しなければならぬという懐疑的精神を振るい起こすには、もう人々の肉体はほど良く疲労を感じてしまっている。
 一度は必ず誰かがしなければならなかったであろう徒労な疲労を日夜せっせと翻訳した人々に対しては、私は恐怖を感じる。それは確かに科学的精神以上のものだ。』(「現実界隈」より)


 横光の「ユリシーズ」に対する書きようが良ければ、伊藤整もここまで固執することは無かったのではないのかと思いますし、プルーストの影響があったなどと推論を述べることは無かったのではないか?と私自身はそう思いました。
では、引き続き伊藤整の解説に戻りましょう。


『その不安感の初めは、「火」に見ることができる。それは、幼な子にとっての母なる人のイメージが崩壊して行くという人間存在の危機感であり、その危機感を心底に持っている人間であったが故に、「御身」に描かれたような姪への愛の実体の立体的な把握が可能であった。また「蝿」においては、馬車の顚覆という事件が、蝿と人間という立場を異にした二種の生命に与える巨大な差を、微視的な認識法でとらえている。』

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