ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

横光利一の作品及び人物評伝

 ゲーム「文豪とアルケミスト」で初めて横光利一について知った方も多いのでは無いでしょうか?ここでは、彼と交遊の深かった中山義秀(なかやまぎしゅう)と菊池寛の言葉をメインに紹介しております。

 


『横光の長編『日輪』が、五月の『新小説』に載る。二三年もかかった労作である。本誌の『蝿』を読んで、彼の才分を認めた人はぜひ読んでほしい。』(菊池寛 大正12年5月「文芸春秋」編集後記より)


『文章にリズムがある。毬(まり)のはねるような。万遍なく実によく書いてあると思うね。』(徳田秋声 大正13年2月「新潮」合評会における「蝿」の評価より)


 横光が「旅愁」を新聞に執筆していた当時、同じく永井荷風による「濹東綺譚」(ぼくとうきだん)が新聞小説として連載されており、思想的な小説である「旅愁」に対し淫売窟玉の井を舞台に繰り広げられる耽美流麗な「濹東綺譚」の方が世間的な評価が高く好評を博していました。横光はこの永井荷風の作品に対抗しながら、筆を進めていましたが、ついに執筆を断念します。その時の状況を中山義秀は「台上の月」でこう回想しています。


『『濹東綺譚』の連載が終わった六月のひと日、私が横光をたずねてゆくと、彼は青白い顔に珍しく明るい表情をみせて、応接間に私をむかえ、
 『中山、僕は新聞の連載をやめたよ』
 私は突然のことに、びっくりして
 『えっ、旅愁を中絶するのですか』
 『さっき毎日の記者に、そう言ってことわった。記者は後の作者をきめるまで、少し待ってくれと、あわてて飛んで帰った』
 『そりゃそうでしょう。しかしー』
 私が何か言おうとすると、横光は後頭部に両手をあてて、椅子にそりかえり、
 『やれやれ、これでホッとした』
 私は『濹東綺譚』が連載されていた三ヶ月間、彼が歯を食いしばる思いでそれに対抗してきたことを知った。そうと分かれば、今更何もいうことはない。私は無言で彼と相対していたが、彼の救われぬ思いに暗然とならずにはおられなかった。』
また中山義秀は、同じく「台上の月」の中で、横光が亡くなった当時、自分も病床の身であったにも関わらず横光の死を知らされた途端、家人が止めるのもきかず、杖にすがりながら横光の家がある北沢まで走って行きました。
『横光は顔をしかめ、苦しげな表情で死んでいた。それほど病気の苦痛がひどかったのか、それとも招かざる死神に、最後まで抵抗して闘ったのか。つきぬ憾(うら)みと執念とをまざまざとこの世にとどめているような、いたましい死顔であった。
 『まだ、死にたくない。今死んでは犬死にだ、くそっ』
 歯がみをしながら何ものかにむかって、必死にそう叫んでいるかのように思われる。
 『そのとおり、死にたくはなかったでしょう、横光さん。中山がただ今、別れを申上げにまいりました。』
 私は別室にしりぞくと、あたりかまわず身をもんで哭(な)いた。』


 中山義秀(なかやまぎしゅう)は、数え年19歳の時に初めて横光氏と知り合い、半年あまり同じ下宿先で一緒に生活をしていました。また、早稲田在学中に横光と一緒に同人誌を作るなど、横光とは30年に渡る長い交遊のあった人です。
 自身も小説家ですが、平家物語の現代語訳も手がけており、その中でも那須与一の現代語訳は現在でも国語の教科書に採用されています。もしかしたら、皆さんも読んだことがあるのではないでしょうか?


『横光君のこと     菊池寛
 横光君が、僕の家に来たのは、大正十年頃ではないかと思う。最初に、「日輪」を持って来たのか、それとも僕の家に来ている裡に、横光君が、「日輪」を書くとき、「真珠夫人」から、ある種のヒントを受けたようなことを言っているから、「日輪」が書かれたのは、大正十年頃だと思う。「日輪」は、大正十二年五月の「新小説」に発表されているところを見ると、僕が「新小説」に頼んでから、発表されるまで半年くらいは、経ったのであろう。もっと経っているかも知れない。僕は忘れっぽいので、何事もボンヤリしている。
 その頃、横光君は、丁度僕の家の在った小石川中富坂の坂下である小石川初音町の裏町に住んでいたらしい。あの通り寡言の人だから、何も話さなかったし、横光君が結婚していた事も知らなかった。その後、横光君の最初の奥さんについては、人伝にきいた丈で、会ったことは一度もない。その人が、病気であったことなどは、横光君の小説で知った位である。
 しかし、大正十二年の一月に、「文藝春秋」が創刊されるとき、「新思潮」の人々や、佐佐木味津三などの「蜘蛛」の連中と交じって、同人に参加しているのだから、その前に相当僕の家へ出入していたように思うのだが、ハッキリした記憶はない。
 横光君は、「日輪」発表後、「新潮」に数作を発表しているが、「中央公論」に作品が載ったのは大正十五年である。だからトントン拍子に進出したわけではない。
 昭和二年には、横光、池谷、片岡、久米などと一緒に、秋田から新潟へ講演旅行したりなどした。この頃は、よほど親しく出入りしていたのであろう。その頃は、既に横光君は、最初の奥さんと死別していたのである。まもなく、僕の所へ出入りしていた古里さんと言う女性と恋愛した。この女性は、女子大出身で文章も上手で近代的な女性であったが、異常な性格で、恋愛してからすぐ、横光の寝ている蚊帳の中へ(わたし、そこへは入ってもいい)と行って、一緒に寝た位奔放であったが、横光君と同棲しながら、ついに身体をゆるさないと言う女であった。こう言う女にかかっては、性愛技巧などは全然知らない横光は、どうにもならず相当悩まされたらしく、間もなく別れてしまった。
 そのあと、間もなく現在の奥さんを知ったのである。その頃、有島武郎邸にあった文藝春秋社の離れで、横光君が、誰かと話している。相手は障子の陰にかくれているので、誰だろうと思ってのぞくと、若い女性だった。世にもこんな美しい人がいるかと思う位、美しい人だった。それが、今の奥さんである。文章などもうまく、その手紙は横光がいつか小説に使っていた。
 その奥さんとの話は、僕が奥さんのお父さんに直接会って、話をまとめ、仲人なども僕がしたのである。
 この時代の横光に、経済的に援助していたかどうか、すっかり忘れたが、横光が家を建てる時には、金を融通してやったように記憶している。
 昭和五年には、満州へ一緒に旅行した。池谷、直木なども一緒であった。池谷と横光とはかなり親しかった。
 横光とは、旅行などもいく度もしたが、僕と二人ぎりで旅行する時などは、切符を買ったりする雑用は、僕がしてやらなければならない位、彼は世事にうとかった。
 いつか岡本かの子さんの家に、二人で遊びに行ったが、かの子さんと横光との問答を聴いていると、まるで子供同志が話しているようであった。
 これで二人とも、小説がかけるのかと疑われる位であった。
 池谷が、慶応病院で、まさに死のうとするとき、横光に頼んで、自分の奥さんに電話をかけて貰った。看護婦などには頼めない電話であった。横光にとっては、それが電話をかける最初であったらしく、困り切ったらしい。
 横光は、麻雀などもやったが、下手だった。もっともらしい顔をして考えた末に、とんでもないパイを捨てたりした。酒なども飲まず、花柳界などにも興味がなく、女性に対しても謹直であった。生涯を通じて、前後三人の女性以外に恋人などを持たなかったのではないかと思われる。
 ただ、一寸意外なのは、中学時代に野球の投手だったと言う事丈である。
 自分とは、三十年に近い交遊であるが、横光に対していささかでも不快な気持を持ったことは一度もない。
 僕の長女が、結婚する時、仲人は頼めばどんな人にでも頼めたが、僕は横光にやって貰ったのである。
 僕は、始終彼を信頼し、愛していたのである。(1948.2)』(河出書房新社「文芸読本 横光利一」より)


 横光利一は1947年12月30日に亡くなり、菊池寛は1948年3月6日に亡くなりました。この文章を書き上げ、菊池寛は横光を追うように亡くなっていることが分かります。

 

『横光左馬のこと   吉田一穂
 坪内逍遙先生が張扇の名調子で沙翁劇を講じた、最後の特別講演も聴かれたし、その前年は、教授の位置をハムレット役に換えた士行が、帝劇で鉄笛の唄う墓堀りを相手の科白も耳に残っていて、文学をやるなら早稲田へという、何の疑いもないコースをとった私たちだ。死の直前の抱月が、小さい芸術座の舞台裏から須磨子を操ったのも見た。~中略~
 私は短艇の舵をひいていたので稀にしか教室へ入らなかったが、すぐ一人の異状な人物が眼についた。長髪蒼白、苛々しく唇を痙攣させ、寒々とマントの襟で覆ったその顔は、講義をよそに、見えない砂時計の秒針でも計っている表情だった。しかも催眠剤で胃をこわした堂々たる文士振りで、物言えば直ちに鋭い逆説で相手を切らんずの構いだった。その横光を太陽のない街を後背地にもった初音町の下宿に訪ねたのは、ともに学校を退いてからの事で、彼はその揺れる古船のような初音館の薄暗い室で、デクェンシイを読み、出生作「日輪」を書いていた。長江の「サランボー」の直訳体が、彼の気風に合ったらしく、第三人称と動詞を二つ折りに重ねる語勢の強い独自の文体で、その嫉妬文学をつづける彼自らが、妄執の鬼に憑かれているようだった。その時、彼は無名作家のひとしく負う貧乏の中で、不幸にも恋をし、それをめぐる仮装敵をつねに感じていた。それとも知らず私たちの仲間は、小島勗(こじまつとむ)の家へ集った。その妹が横光の対象だったのだ。谷底のような夜更けの街を、飲まない彼とつれだって帰る途すがら、私は屋台で酒をあおり、停まった終電車の腹を叩いて叱られたりした。~中略~
 薄暮本郷通りを二人で歩いていた。私は質から出してきたばかりの金縁の近眼鏡をかけ、久し振りで水透くような美しい夜景に爽だっていた。筋向かいの赤硝子の軒灯を白く抜いた文字が読み得たので、嬉しくなって叫んだ。
 『おい、あの〈鉢の木〉って字が見えるんだ。』
 『仏蘭西料理』云々……と彼は小声で読み出した。
 『どこにそんなことが書いてある?』
 『あの〈鉢の木〉の下の緑色の硝子だ。』
 私は彼の細い柔しい目を見て、その力に驚いてしまった。私は彼に一寸まっているようにと頼んで「鉢の木」もどきにまた質屋へ逆戻りだ。
 『その仏蘭西料理なるものを、一つ食おうじゃないか?』とかえってきて彼を誘った。
 『僕はフランスで嫌でも食わんならんだろう。一体、金があるのか?』と彼は心もとなげに言って微笑した。
 この挿話時代、酒飲み子がこっそり、屋根裏で彫った面を見つけられて親を唸らせ、成長して下駄屋になる、「面」という彼の作品を、子供が主題だからという理由に、私がある童話雑誌へ持ちこんで断られた記憶がある。それは横光の短篇の中でも性格的な作品で、彼の要素的な特質が、表現的にも、骨格的にも含まれていて、横光芸術の一つの鍵たるに価するものだ。異状なるものに対する興味、逆説的な転置、非連続的感覚、つねに仮装敵を持つ姿勢……その彼が私に「横光左馬」と書いた紙片を示して、新しく筆名にすると言った。
 『ヨコミツ・サマか。いい名だよ』
 『どんな絶交状をたたきつけられても、僕を呼び捨てにできんからね。』
 『なる程!横光様ってことになるな。』彼にもこんな半面があるのだなと思ったが、ユーモラスどころか、鋭い皮肉というよりも、真底からの彼の構いなのだった。(1948・11)』


『残照    永井龍男
 この七月、銀座出雲橋際の「はせ川」が小料理の店を閉じ、近く画廊に転じることになった。出雲橋際といっても、八丁堀は戦後埋め立てられたので橋はなくなり、二十代から通い馴れたわれわれも、小さなビルの一階に改装された「はせ川」を、しばしば見失うありさまであった。~中略~
 夕刻下北沢から出て来られて、文藝春秋社の在った内幸町の大阪ビルの地階、レインボーグリルというレストランの広々とした休憩室に寄り、来合せた人々と談笑した後、夕方はせ川へ場所を換えるのが、書斎を出た横光さんのきまりであった。たまたま道がそれる時は、何かの会合に出席するか、「鳥×」へ鳥の鉄板焼を食べに行くかであった。特に一仕事済ませた後は、必ずこの鳥屋へ足を向けた。
 はせ川に、漫画家清水崑の描いた作家のスケッチが数葉遺っている。清水君は筆と墨で描くのを常としたが、その中に横光さんと川端さんが卓を挟んで一酌している図がある。川端さんは一切酒を口にしないが、横光さんはわれわれ若い連中にならって、いつの間にか文字通り小酌をたのしむ術をおぼえ、酒はうまいものだと洩すようになった。清水君のスケッチは、川端さんは似ても似つかぬ出来だが、横光さんの盃を手にした形はまことに見事で、当時の横光さんを偲ばせるに充分である。一口も酒を呑まぬ川端さんは描きにくかったと思う。清水君は底抜けの大酒家であった。
 実生活の上で、横光さんほど不器用な人を私は知らない。不器用以上に、無能力と言った方が当たるかも知れない。(そういう横光さんの、パリでの生活を想像するのは辛い。)
 たとえば、前記の鳥屋だが、(名前を度忘れして残念だ。)画家の佐野繁次郎と一時非常に親しい交際が続き、佐野君に教えられて以来、疲れたらそこの鳥を食べる、必ず栄養を取り戻すことが出来ると信じて、他の一切を省みない、そういうところがあった。
 戦争が厳しくなるにつれて、食料は乏しくなる一方だが、横光さん夫妻はその対策をまったく知らなかった。~中略~
 麹町区内幸町の大阪ビルは、危く焼野原の中に残っていた。二三の社員と、その四階に在る文藝春秋社の留守を私は守っていたが、ある日の夕方、突然横光さんが顔を見せた。すでに久しく、訪問者のないオフィスであったし、憔悴した横光さんの姿に接して驚愕した。横光さんが東京に残留されているとは、私は夢にも思っていなかった。幸いなことに、当日菊池寛が在社した。NHKでは、すでに局内で使うメモ用紙が不足して困っているが、社の倉庫にはNHKの急場を助ける紙の在庫はないかと、私に話があったばかりで、世の中はそれほど逼迫していた。菊池さんは家族を全部疎開させ、雑司ヶ谷の家に数人の人々と暮らしていた。私はすぐ横光さんを社長室へ通した。
 菊池寛は、全文壇中横光利一の人となりに、最も信頼していた。二十年に近く社長菊池寛の下にいて、私はそれを知っていた。横光利一もまた、菊池寛を心から敬愛していた。それも私は知っていた。二人が逢えば、話はいつも短かく、それで心の通じ合っていることがわかった。
 その日の対話も、窮迫した事態に対して極めて淡々たるものであった。横光さんは、夫人の疎開先きへ身を置くことにしたが、ついては稿料の前借をしたいと、私に申し出られた。応諾して、私が会計に行こうとすると、菊池寛がそれを止め、自分が持っているからそれから手渡すと云った。それ以上同席するのはと思って、私は社長室を外した。横光さんの顔色は極めて悪く、黄疸を心配するほど黄色かった。横光さんとは、私はそれきり再会出来なかった。
 横光さんは、戦後昭和二十二年十二月三十日に故人となり、菊池寛は翌二十三年三月六日にその後を追った。下北沢の横光家の通夜に、人眼を避けた菊池寛の姿があった。焼香の後物陰に身をかくし、眼鏡を外して涙をぬぐい、それからそそくさと去って行った。


 追記
 大正十二年というから、いまから五十数年前に、菊池寛から横光利一に宛てた封書を一通私は保存している。菊池寛が三十五歳、その年「私は頼まれて物を云うことに飽きた。自分で考えていることを読者や編集者に気兼ねなしに、自由な心持で云って見たい」という主旨のもとに、二十八頁の小雑誌「文藝春秋」を発刊した。横光利一は当時二十五歳、無名の文学志望者である。
 「例の“日輪”は出来たか。なるべく八○枚位がいい。新小説は約束済だ。ナルベク早くかき上げてくれ。
 君の“蝿”は、のせる。君のだけが小説だ。
    三月十四日
             菊池生
 横光君」
 如何にも菊池寛の手紙らしく、一次の無駄もない。神楽坂の文具店「松屋製」の原稿用紙に、うすい墨で走り書きしてある。
 宛名は「小石川区初音町十一 初音館 横光利一様」。差出人の住所は、「小石川町一九○菊池寛」。初音館は下宿屋の名だが、初音町も林町も現在は廃止されてしまった町名ではないか?おもしろいのは封筒が女子用の細い形のもので、気の急くまま菊池寛は、奥さんの封筒と巻紙を使ったに違いない。そういうことには、一切無頓着な人であった。「日輪」も「蝿」も、新進作家としての横光利一を世に認めさせた作品である。この手紙のことは、他にも書いたので、省略して追記した。(1977.12)』