ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

横光利一年譜

 清水書院が出版した「横光利一 人と作品」に掲載されていた年譜には横光の年齢と共に、当時の文壇の様子や世界情勢が掲載されているため、彼の人生をわかりやすく理解することができます。以下の情報は、左記の年譜を元に作成し直したものです。その年ごとにあった出来事を文壇史は★、日本及び世界史は☆で付記しております。

 


明治31年(1898年)3月17日 福島県会津郡東山温泉新滝旅館で長男として誕生。父梅次郎(31歳)母小菊(27歳)一姉静子(4歳)。
父は大分県宇佐郡長峰村大字赤尾(現在の大分県宇佐市四日市町)出身で、鉄道敷設の設計技師であったため、各地を転々としていた。
母は三重県阿山郡柘植(つげ)村(現在の伊賀市伊賀町)出身で、松尾芭蕉の後裔。


正岡子規「歌よみに与える書」、徳冨蘆花「不如帰」を発表。
明治35年(1902年)正岡子規が9月19日に死去。
明治36年1903年尾崎紅葉が10月30日に死去。


明治37年(1904年)利一6歳。滋賀県大津市大津小学校に入学。父の仕事の関係から、以後、8回小学校を変える。


自然主義の全盛期に入る。同時に、家庭小説が流行。
小泉八雲が9月26日に死去。


☆この年、日露戦争が勃発するも、翌年には終結


明治39年(1906年)利一8歳。父が仕事の関係から朝鮮へ渡り、母が入院したため、一人従兄のお寺に預けられる。


島崎藤村「破戒」、夏目漱石「坊ちゃん」「草枕」、正宗白鳥「何処へ」を発表。
明治41年(1908年)国木田独歩が6月23日に死去。
明治43年(1910年)利一12歳。大津市大津小学校を卒業。膳所(ぜぜ)中学を受験したが落ちたため、一年、小学の高等科に通った。
大逆事件が起こり、幸徳秋水らが就縛される。「白樺」「三田文学」、第二次「新思潮」が創刊される。


明治44年(1911年)利一13歳。三重県立第三中学校に入学。父が仕事の都合で姫路に引っ越したため、二年生からは一人で下宿生活をしながら通った。二、三年生の頃から、夏目漱石志賀直哉を愛読。運動においては、万能選手で、特に野球では花形選手であった。


★「青鞜」が創刊される。武者小路実篤「お目出たき人」を発表。
★明治45年(1912年)石川啄木4月13日に死去。
大正5年(1916年)利一18歳。三重県立第三中学校を卒業。4月、早稲田大学高等予科文科に入学する。
森鴎外高瀬舟」、芥川龍之介「鼻」、夏目漱石「明暗」、永井荷風「腕くらべ」、菊池寛「屋上の狂人」が発表される。第四次「新思潮」が創刊。
夏目漱石が12月9日に死去。


大正6年(1917年)利一19歳。1月に神経衰弱を理由に休学し、父母の住む今日と山科にて一年間遊ぶ。白歩のペンネームで「神馬」を「文章世界」に発表。10月「犯罪(つみ)」を「万朝報」に発表。


志賀直哉「城の崎にて」、有島武郎カインの末裔」「惜しみなく愛は奪う」、菊池寛父帰る」を発表。
大正7年(1918年)利一20歳。4月英文科第一学年に編入する。中山義秀、佐藤一英、小島勗との交遊が始まる。
★「赤い鳥」が創刊。室尾犀星「愛の詩集 第一詩集」を刊行。


富山県で起こった米騒動が各地に波及し、米価が暴騰する。


大正8年(1919年)利一21歳。ペンネームを左馬にし「火」を「文章世界」に投稿する。この頃から、小島勗の妹、君子への恋が芽生える。


菊池寛恩讐の彼方に」、有島武郎或る女」、佐藤春夫「田園の憂鬱」を発表。
大正9年1920年)利一22歳。佐藤一英の紹介で菊池寛と出会う。


☆日本で最初のメーデーが行われる。


大正10年(1921年)利一23歳。1月、「時事新報」に応募した「踊見」(のちに「父」と改題)が選外第一位になる。6月、富ノ澤麟太郎、藤森淳三、古賀龍視らと同人誌「街」を創刊。「日輪」を書き始める。この年、菊池寛の紹介で川端康成と知遇を得る。


志賀直哉「暗夜行路」を発表。「種蒔く人」が創刊。芥川龍之介が中国を訪れ「上海外遊」などの紀行文を発表。


原敬が東京駅で暗殺される。


大正11年(1922年)利一24歳。2月、「南北」を「人間」に発表。5月、富ノ澤、古賀、中山、小島らと同人誌「塔」を創刊し「面」を発表した。8月29日に朝鮮京城にて父が脳溢血により客死したため、9月に朝鮮に渡る。


森鴎外が7月9日に死去。


大正12年(1923年)利一25歳。1月に「文藝春秋」が創刊され、2月より同人となる。5月に「日輪」を「新小説」に、「蝿」を「文藝春秋」に発表する。9月以降「マルクスの審判」「クライマックス」などを発表。


☆9月1日に関東大震災が起こる。


大正13年1924年)利一26歳。5月に「菊池寛師に捧ぐ」と献辞して、第一創作集「御身」を金星堂より刊行する。同時に文藝春秋叢書の一冊として「日輪」を刊行。10月、川端らとともに「文芸時代」を創刊し「頭ならびに腹」を発表する。これより新感覚派として活躍するようになる。


★「文芸戦線」が創刊。谷崎潤一郎痴人の愛」を発表。


大正14年(1925年)利一27歳。1月27日に母小菊が亡くなる。6月、「無礼な街」が文芸日本社より刊行。「慄える薔薇」「表現派の役者」「青い石を拾ってから」「静かなる羅列」「街の底」「無常の風」「妻」などを発表。


★ポール=モーラン「夜閉ざす」を堀口大学が翻訳。江戸川乱歩「D坂の殺人事件」を発表。


大正15年(1926年)利一28歳。6月24日に妻君子が亡くなる。「ナポレオンと田蟲」「恐ろしき花」「富ノ澤の死の真相」「春は馬車に乗って」「閉らぬカーテン」「蛾はどこにでもいる」を発表。


川端康成が「伊豆の踊子」を発表。


昭和2年(1927年)利一29歳。1月「春は馬車に乗って」を改造社より刊行。2月、菊池寛の媒酌で日向千代子と結婚。3月、池谷信三郎らとともに同人誌「手帳」を創刊。5月、「文芸時代」廃刊。6月、菊池寛、川端、片岡鉄兵、池谷らと東北地方に講演旅行。11月3日、長男象三が誕生。「青い大尉」「計算した女」「花園の思想」「愛の挨拶」を発表。それ以外では、片岡鉄兵川端康成岸田国士らと衣笠貞之助新感覚派映画連盟に関わった。


芥川龍之介が「河童」「歯車」を発表。7月24日に芥川龍之介が自殺。


昭和3年(1928年)利一30歳。2月、菊池寛が初の普通選挙に東京第一区より立候補したので応援演説に出た。4月、大陸旅行に出たが上海で一ヶ月ほど遊んで帰国。「眼に見えた風」「名月」「愛嬌とマルキシズムについて」「笑った皇后」「上海」の第一編「風呂と銀行」を発表。11月に世田谷区北沢2丁目145番地に新居を建て、犬養健が「雨過山房」と命名。


★「詩と詩論」が創刊。
若山牧水が9月17日に死去。


☆三・一五事件が起こる。


昭和4年(1929年)利一31歳。7月、改造社より「新興文学全集」を刊行。10月に「文学」の編集同人になる。「形式論への批判」「まづ長さを」「形式とメカニズムに就いて」「古い筆」らの随筆、「上海」の第二編「足と正義」、第三編「帰溜の疑問」、第四編「持病と弾丸」、第五編「海港章」を発表。


★日本プロレタリア作家同盟成立。宮本顕治「敗北の文学」、小林秀雄「様々なる意匠」、小林多喜二蟹工船」、徳永直「太陽のない街」が発表。


☆世界的な大恐慌が始まる。


昭和5年(1930年)利一32歳。4月、小林秀雄船橋聖一らとともに新興芸術派宣言と批判の講演会に出る。5月、痔疾のために入院。8月、山形県の由良海岸に滞在し「機械」を脱稿。9月、満州鉄道の招待で菊池寛佐佐木茂索らとともに満州旅行をする。この時は、往復で飛行機を利用した。「高架線」「鳥」「機械」「寝園」を発表。作品の傾向が心理主義的な方向に進むようになる。


田山花袋が5月13日に死去。
プロレタリア文学が隆盛を迎える。同時に、エロ・グロ・ナンセンス文学も流行した。
堀辰雄「聖家族」、阿部知二「主知的文学論」、三好達治「測量船」を発表。


昭和6年(1931年)利一33歳。4月、白水社より「機械」を刊行。11月に同社からエッセイ「書方草子」を刊行。「花花」「時間」「悪魔」「父母の真似」「雅歌」「上海」の最終章「春婦」を発表。


永井荷風「つゆのあとさき」、坂口安吾「黒谷村」を発表。


☆9月に満州事変が起こり、ファシズムが台頭してくる。


昭和7年(1932年)利一34歳。7月、「上海」を改造社より刊行。9月、「寝園」を中央公論社より刊行。「馬車」「日曜日」を発表。「寝園」の続篇を「文藝春秋」に連載。


梶井基次郎が3月24日に死去。
山本有三女の一生」、林房雄「青年」を発表。


五・一五事件が起こり、犬養首相が射殺される。


昭和8年(1933年)利一35歳。1月3日、次男佑典が誕生。9月、温海温泉に滞在。


小林多喜二が2月20日に拷問死となり、これにより転向が相次いだ。
宮沢賢治が9月21日に死去。
★「文学界」「行動」「文芸」が創刊される。


昭和9年(1934年)利一36歳。2月、「文学界」の同人となる。「花花」を刊行。9月に「紋章」を刊行。


直木三十五が2月24日に死去。
★文芸復興が叫ばれ。文芸懇話会が発足する。行動主義文学が盛んになる。芥川賞直木賞が設立される。


昭和10年(1935年)利一37歳。1月、芥川賞医院を委嘱される。3月、静岡、名古屋に文藝春秋社の地方講演のために赴く。4月「純粋小説論」を「改造」に発表。


井伏鱒二「集金旅行」、太宰治道化の華」「ダス・ゲマイネ」、吉川英治宮本武蔵」を発表。島崎藤村「夜明け前」が完結。
★第一回芥川賞石川達三に決まる。


☆国体明徴がしきりといわれる。


昭和11年(1936年)利一38歳。2月20日日本郵船箱根丸に乗船し、渡欧。8月にシベリア経由で帰国。9月、温海温泉にて静養する。「青春」を発表。


★「人民文庫」が創刊。
阿部知二「冬の宿」を発表。


☆二・ニ六事件が起こる。日独防共協定締結。


昭和12年(1937年)利一39歳。1月、「厨房日記」を「改造」に発表。4月13日から「旅愁」を「東京日日」「大阪毎日」に連載を開始する。「欧州紀行」を刊行。12月に妻とともに伊勢神宮に参宮。


中原中也が10月22日に死去。
川端康成「雪国」を発表。


☆左翼作家、評論家の執筆が禁止される。


昭和13年(1938年)利一40歳。4月、「家族会議」「春園」が創元社より刊行。片岡鉄兵川端康成とともに田山花袋著「田舎教師」の跡を訪ねる。11月に約40日間に渡って中国大陸を旅行する。この年は「由良之助」「シルクハット」を発表。


中山義秀「厚物咲く」、堀辰雄風立ちぬ」、火野葦平「麦と兵隊」、本庄陸男「石狩川」を発表。戦争文学が誕生する。


昭和14年(1939年)利一41歳。4月、随筆「考える葦」を刊行。9月、温海温泉に滞在。10月、片岡鉄兵川端康成と小夜の中山にて遊ぶ。この年は、「実いまだ熟せず」「北京と巴里」「秋」を発表。


佐藤春夫が5月6日に死去。泉鏡花が9月7日に死去。
中野重治「歌のわかれ」を発表。


☆国民徴用令が公布される。第二次世界大戦が開始。


昭和15年(1940年)利一42歳。6月、「旅愁」の第一編を改造社より刊行。続く7月に第二編を刊行。同月、青山会館での銃後運動講演会、10月に林芙美子たちと四国へ文芸銃後運動の講演旅行へ行く。


伊藤整「得能五郎の生活と意見」、田中秀光「オリンポスの果実」を発表。


☆日独伊三国同盟締結。


昭和16年(1941年)利一43歳。5月、伊賀から近畿方面へ旅行。6月、文芸銃後運動地方班に加わり各地方をまわる。9月もこのため中国地方を訪れる。この年「終点の上で」「天城」「鶏園」「将棋」を発表。


☆太平洋戦争が始まるに伴い、左翼同調者の多数が検挙される。


高村光太郎智恵子抄」を発表。


昭和17年(1942年)利一44歳。1月、水上温泉に旅行。11月、大東亜文学者大会に出席、決議文を起草、及び宣言。それに加え、文芸報国講演会のために九州へ行く。


萩原朔太郎が5月11日に死去。北原白秋が11月2日に死去。中島敦が12月4日に死去。
昭和18年(1943年)新美南吉が3月22日に死去。島崎藤村が8月22日に死去。徳田秋声が11月18日に死去。


昭和19年(1944年)利一46歳。「橋を渡る火」などを発表。


太宰治が「津軽」を発表。
片岡鉄兵が12月25日に死去。


☆一億総武装が決定される。B29による東京空襲が始まる。


昭和20年(1945年)利一47歳。春に、家族を妻の郷里へ疎開させるが、自身は橋本英吉と共に東京で自炊生活をする。6月に家族の元へ疎開したが、山形県西田川郡上郷村に移り、ここで敗戦を迎えた。12月15日に東京へ戻る。同月、養徳社から「雪解」刊行。


ポツダム宣言の受諾及び、無条件降伏に伴う米軍の進駐が始まる。昭和27年(1952年)まで、オキュパイド・ジャパン(占領下の日本)の時代が続くことになる。


昭和21年(1946年)利一48歳。6月に脳溢血の発作が起こる。「夏蝋日記」「木蠟日記」「秋の日」などを発表。


★文芸雑誌の復刊と創刊が相次ぐ。「世界」「人間」「展望」「近代文学」「中央公論」「改造」「群像」など。


日本国憲法の発布。民主主義文化が起こる。


昭和22年(1947年)利一49歳。11月に「夜の靴」を鎌倉文庫から刊行。12月14日に「洋燈」執筆中にめまいをおこす。15日の夕食後に胃が激痛に見舞われる。一時意識不明となるが、原医師の診察により胃潰瘍と診断される。12月30日に腹膜炎を併発し、午後4時13分死亡。告別式は、昭和23年1月3日。


織田作之助が1月10日に死去。幸田露伴が7月20日に死去。
★戦後派文学が台頭する。
坂口安吾桜の森の満開の下」を発表。
★翌年、菊池寛が3月6日に死去。