ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

宇野浩二が語る織田作之助1

 筑摩書房が出版した「現代日本文学全集81 永井龍男 井上友一郎 織田作之助 井上靖 集」に掲載されている、宇野浩二織田作之助に寄せた解説「哀傷と孤独の文学 織田作之助の作品」は、織田作之助の人生と作品に対する深い愛情が差し伸べられた解説です。ここでは、左記の解説を現代語訳した上で、全文掲載しております。

 


 こんど、織田作之助の作品と評論とを八分ぐらい読みかえしてみて、おもいのほか、いたく感じたのは、織田の文学が、ひと口にいうと、哀傷と孤独の文学である、ということであった。
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 織田の第一創作集である『夫婦善哉』、のなかには、『雨』、『俗臭』、『放浪』、『夫婦善哉』、『探し人』の五篇がおさめられている。この五篇の小説は、『雨』が昭和十三年の十一月の作であり、『俗臭』が同十四年の六月の作であり、あとの三篇は、みな、同十五年の作で、『放浪』が三月の作であり『夫婦善哉』が四月の作であり、『探し人』が五月の作であるから、年でいうと、織田が、二十六歳、二十七歳、二十八歳の年の作である。それで、二十八歳の年が、もっともアブラがのっていたわけである。
 ところで、いっぱんに、たいていの人が、それは、「文藝」の推薦になったからでもあろうが、『夫婦善哉』が、織田の初期の代表作のようにおもわれ、殊にすぐれた小説のように見なされているけれど、そうはいいきれない。たとえば、『雨』は、織田の処女作であるけれど、織田その人が、昭和十六年の六月に、「年代記小説ともいうべきジャンルの作品がいま流行しているが、『雨』は、昭和十三年に書いたものであるから、私は別に流行を追うたわけではない」と、いくらか、自負して、述べているように、(それは本当であろう)いわゆる年代記小説としては、もっとも初めのものであろう。それから、また、織田は、この小説について、「私の物語(ロマン)形式への試みがはじめて成されたのはこの作品である」と述べているが、これは注目すべき言葉である。なぜなら、織田の小説の大部分が、『物語形式』であり、それが、織田のほとんど全作品の、独特の、特徴であるから。
 それから、これは、話がそれるが、織田は、永眠するまえに、「ぼくの小説はエロではない、ロマンである」といったそうであるが、この言葉は、織田の弁解ではなく、正当である。
 さて、『雨』は、いわゆる年代記小説としてすぐれているばかりでなく、この作品に、すでに、織田の言葉をかりると、「人間に対するたぶん消極的な不信」も、「叫ぶことに何か照れざるを得ない厄介な精神」も、「現代の諸風景への情けない継子への反逆」も、実に、よく、出ている。こういう小説を、二十六歳の青年が、書いた、とおもうと、私は、つまり、この作者が、二十代のころから、すでに、すくわれようのない、哀傷の気もち、孤独なたましいのようなもの、『流転』や『放浪』のこころ、「継子の反逆」などを、胸に、心の奥底に、いだいていたことを、回想して、『わたくし』の感情もあるけれど、感慨にたえないのである。しかし、この私の感慨は、また、『わたくし』の感情ではない。読者よ、織田のいくつかの作品をよくよめば、それらの作品のうらに、織田の、孤独な、やるせない、反逆しながらに心のなかに涙をながしている、切なる哀傷が、『サハリ』のごとく、『唄』のように、にじむように、かたられ、述べられていることが、わかるはずである。
 『夫婦善哉』の結末は、さまざまの、いろいろな、俗な言葉をつかうと、『大阪』人らしい、欲と愛の苦労をしつくした末に、「蝶子と柳吉はやがて浄瑠璃に凝り出した。二ツ井戸天牛書店の二階広間で開かれた素義大会で、柳吉は蝶子の三味線で『太十』を語り、二等賞をもらった。景品の大きな座布団は蝶子が毎日使った。」とあるように、いわゆる『めでたしめでたし』でおわっているように、ちょっとは、見えるけれど、「めっkり肥えて、そこの座布団(註-『夫婦善哉』屋の小さな座布団)が尻にかくれるくらい」になった蝶子が、「景品」の大きな座布団を毎日つかった。と書いた作者の心ーそれから、蝶子の気もちーは、『めでたしめでたし』どころか、やはり、孤独であり、切なきものであり、哀愁きわまりなきものである。こころある読者ならば、この小説のおわりにいたって、ふかいため息をつくであろう。
 『表彰』(昭和二十年六月、「空襲がもっとも激しかった頃の」作品)も、その書き出しに、「夫の伊三郎がもう七年も前から鳥取に妾をかこっていて、二人の子供さえ出来ている由、筋むかいの古着屋の御寮(ごりょ)ンさんから聞かされた時、お島は顔色をかえて驚いた。」とあるが、これも、お島は、耳の遠い、放蕩者の、夫のために、さまざまの、ならぬ堪忍をし、できない辛抱をしたが、最後に、空襲のために、焼け出された二人が、「伊三郎が言いだし」て、妾の家にたよるために、鳥取ゆきの汽車に乗る、そうして、この小説の終りのほうの、「お島は、東條が阿呆な戦争したばっかしに、わては妾の厄介にならんならん、と口走っていたが、やがて疲れきって、コクリコクリ居眠ってしまったお島のやつれはてた顔を見ると、伊三郎は鳥取まで行く気が変わってしまった。伊三郎は松太郎(註-お島が夫をおちつかせるためにもらった子)の生みの母親の兄が石川県で百姓をしていることを思い出し、どこの駅で乗りかえれば石川県へ行けるのか、と隣りの座席の人をつかまえて、くどくどと遠い耳をかたむけた。お島は、よだれを流して、かすかな鼾を立てていた。」というところにいたれば、啓蒙的なことをいうようであるが、お島は、長いあいだの念願が、夫の伊三郎が、「鳥取まで行く気が変ってしまった」ので、「コクリコクリ居眠って」しまったのではなく、「疲れきって」眠ってしまったのであるから、伊三郎が鳥取ゆきをやめる気になったのは知らない、それを、伊三郎は、伊三郎で、ただ、「お島のやつれはてた顔」をながめて、「鳥取まで行く気」が変るところ、その他、小説として、あまりツジツマがあいすぎ、作者の、いわゆる『嘘』の、小説作法がわかりすぎるところはあるけれど、(これは、織田のほとんど全作品に通じる、長所であるとともに、短所であるけれど、こういうことは、専門の、批評家などが、考えることであるが)結局、この作品も、大げさにいうと、人の世の、愛欲のいきさつやもつれなどを書いているように見えるけれど、やはり、人それぞれの、孤独を、流転のありさまを、物語っている。これは、「空襲がもっとも激しかった頃」でも、織田は、「大阪(焼けた大阪)をなつかしむ意味で」書いた、とは述べているのが、やはり、作者が『宿命的』とさえおもわれるほど、根ぶかく、持っていた、せおわされていた、寂貘、孤独、哀傷、哀愁の心(気もち)が、全篇のいたるところに、にじみこみ、ゆきわたっている。

 この、「空襲がもっとも激しかった頃」に、書いた、二つの小説のなかで、『表彰』は短篇であるけれど、『アド・バルーン』は、かなり長いもので、昭和二十年三月、「大阪が焼けた直後、大阪惜愛の意味で、空襲警報下に、こつこつと書いた」と織田は述べているが、それにもかかわらず、この小説は、(これも、作者が、はじめから、『アド・バルーン』というものを、あたまにおいて、作ったらしいことが、よくわかり、いかにも、おもしろい、小説らしい、小説であり、物語であるけれど)ひとりの、どこに行っても、いかなる人にあっても、むかえられない、やはり、孤独な、人間の半生の物語であるが、そうして、やはり、織田の小説に共通する、『めでたしめでたし』でおわってはいるけれど、最後の、主人公の、縁のうすかったような濃かったような、父の遺骨をもって、それを納めるために、高野山に行って、「茶店を出ると、蝉の声を聴きながら私はケーブルの乗場へ歩いて行ったが、ちょこちょこと随いて来る父の老妻のしわくちゃの顔を見ながら、ふとこの婆さんに孝行してやろうと思った。そして、気がつくと、私は『今日も空には軽気球(アドバルーン)……』とぼそぼそ口ずさんでいました。」というところなども、主人公も、作者も、いかにも、のんきらしくは見えるけれど、やはり、流転の波に、たえず、しじゅう、ただよい、ながされている、ながされていた、ようにおもわれる、織田の、物事を逆にいわねばならない、やるせない、孤独な、たましいが、この軽薄さえも見える、物語のいたるところに、ただよいながれている。
 私は、去年(昭和二十一年)の秋ごろであったか、織田に出した手紙のなかに「あなたの小説は、すらすらと、読め、よみながら、せかせかと追いたてられるような気のするところはあるけれど、読みだしたら、むちゅうで、しまいまで、読みとおしてしまう、が、読んでしまってから、いつも、たいてい、巧みな嘘をつかれた、というような気がする、小説に、いわゆる実際世界にない『嘘』を書くのは、私も、さんせいであり、私も、たいてい、そのとおりであるけれど、読んでしまってから『嘘』とおもわれるような作品には、私は絶対に、さんせいできない、どうぞ、これから、読んでしまってから、『真実』とおもわれるような作品を、書いてほしい、そういう小説ができたら、私は、あたまをさげる」という意味のことを、書いたことがある。
 私は、織田には、二度しか、逢ったことがない。しかし、二度とも、織田に逢って、私がうけた印象は、逢うと、すぐ、顔じゅうが笑い顔になるような笑い方をするけれど、その笑い顔のなかにも、『寂しい』ところがあり、ぜんたいに、作品のうわべに見えるような、『かるい』ところも、ときとしては、『人もなげに見えるような』ところも、『しゃれのめすように』おもわれるところも、そういうところは、ほとんど、なかった。それどころか、誇張していうと、世に、たよりない、たよりてのない『孤児』のような感じさえ、あることがあった。そうして、その『孤児』のような感じのなかに、なんともいえぬ、人なつかしく見えて、いじらく思われ、したしみが感じられるところと、じぶんは、ひとりだ、だれにもかまってもらいたくない、とおもわれるような、はたから、手のつけようのない人のように感じられるところがあった。
 織田の、みじかい一生のうちの、晩年の、すぐれた作品の一つである。『世相』のなかに、こういうところがある。
 ……自身放浪的な境遇に育ってきた私は、処女作の昔より、放浪のただ一色であらゆる作品を塗りつぶして来たが、思えば私にとっては人生とは流転であり、淀の水車のくりかえす如くくり返される哀しさを人間の相(すがた)と見て、その相をくりかえしくりかえし書き続けて来た私もまた淀の水車の哀しさだった。流れ流れて仮寝の宿に転がる姿を書く時だけが、私の文章の生き生きする瞬間であり、体系や思想をもたぬ自分の感受性を、唯一所に沈潜することによって傷つくことから守ろうとする走馬燈のような時の場所のめまぐるしい変化だけが、阿呆の一つ覚えの覘(ねら)いであった。……
この一節は、織田が三十四歳の年の述懐と見てよい。三十四歳のわかさで、「人生とは流転であり、淀の水車のくりかえす如くくり返さえる哀しさを人間の相(すがた)」と見た織田は、その翌年(昭和二十二年)の一月十日に、この世を去ったのであった。
織田は、じぶんの、ほとんど、全作品のなかで、『流転』(あるいは『放浪』)する人間を書いているけれど、織田じしんは、実際は、『流転』どころか、『放浪』どころか、その生涯を、大阪と、京都と、そのちかくで、ほとんど、そのへんを、はなれたことがなく、住みついていた。しかし、『流転』あるいは、『放浪』のせつない思いは、ふだんに、織田の心のなかに、あった。そのことを、織田は、「執拗なまでに流転の生涯を書いたのは、私の童話への憧れであり、人間への愛情の反芻作用であった。」と述べている。

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