ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

宇野浩二が語る織田作之助2

 筑摩書房が出版した「現代日本文学全集81 永井龍男 井上友一郎 織田作之助 井上靖 集」に掲載されている、宇野浩二織田作之助に寄せた解説「哀傷と孤独の文学 織田作之助の作品」は、織田作之助の人生と作品に対する深い愛情が差し伸べられた解説です。ここでは、左記の解説を現代語訳した上で、全文掲載しております。

 


 織田は、それが絶筆になったという、『可能性の文学』という評論のなかで、「嘘は小説の本能なのだ、人間には性欲食欲その他の本能があるが、小説自体にもし本能があるとすれば、それは『嘘の可能性』という本能だ、」と述べている。しかし、織田のすぐれた作品の一つである、『アド・バルーン』のなかに出てくる、その小説の主要な人物の一人である、「振り向くと、バタ屋ーつまり、大阪でいう拾い屋らしい男でした。何をしているのだと訊いたその声は老けていましたが、年は私と同じ二十七八でしょうか、やせてひょろひょろと背が高く、鼻の横には大きなホクロ。そのホクロを見ながら、私は泊るところが無いからこうしているのだと答えました。……男はじっと私の顔を見ていましたが、やがて随いて来いと言って歩き出しました。」とある、その秋山という男も、「十銭白銅六つ。一銭銅貨三つ」をにぎって、大阪から東京まで線路づたいに歩いて行こう、とおもいたった、「やはりテクテクと歩いて行ったのは、金の工面に日の暮れるその足で、少しでも文子のいる東京へ近づきたいという気持にせき立てられたのと、一つには放浪への郷愁でした」という主人公も、もとより織田のいう、『嘘』の人間であろうが、ともに、織田の、心を持つ人間であり、『郷愁』の人間である。
 そうして、さきに引いた『世相』のなかの一節でも、この『アド・バルーン』のうちの一節でも、その文章のなかに、哀傷の調子があり、述べる作者の、『流転』をあこがれる心と、『孤独』なたましいが、これだけでも、うかがえるではないか。
 また、織田の佳作の一つである、『六白金星』の主人公の、父親にきらわれ、しだいにひがみ根性の出る、妾の子の、楢雄が、この小説の最後のところで、はだのあわない、兄の修一から、電話で、『強情はやめて、女と別れて小宮町へ帰れ』といわれて、『無駄な電話を掛けるな。あんたらしくない』と返事をしながら、修一から、『じゃあ、一度将棋をやろう、俺はお前に二回貸しがあるぞ!』と、「ちくりと自尊心」を刺されると、『将棋ならやろう、しかし、言って置くが将棋以外のことは一言も口をきかんぞ。あんたも口を利くな、それを誓うなら、やる』とこたえる、それから、最後のところの、約束の日、修一が千日前かの大阪劇場の前で待っていると、楢雄は、濡雑巾のようなうすぎたない浴衣を着て、のそっとやって来た。青黒くやつれた顔に髭がぼうぼうと生えていたが、しかし眉毛は相変わらず薄かった。さすがに不憫になって、飯でも食おうというと、
「将棋以外の口をきくな」
と怒鳴るように言い、さっさと大阪劇場の地下室の将棋倶楽部にはいって行った。
そして、盤の前に坐ると、楢雄は、
「俺は、電話が掛かってから、今日まで、毎晩寝ずに定跡の研究をしてたんやぞ、あんたとは意気込みが違うんだ」
と言い、そしていきなり、これを見てくれ、とコンクリートの上へ下駄を脱いだ。見れば、その下駄は将棋の駒の形に削ってあり、表にはそれぞれ「角」と「龍」の駒の字が彫りつけられているのだった。修一はあっと声をのんで、暫く楢雄の顔を見つめていたが、やがてこの男にはもう何を言っても無駄だと諦めながら、さア来いと駒を並べはじめた。
 とあるところなどを読めば、「この男にはもう何を言っても無駄だ」とあきらめる修一のかんがえなどは読む人のあたまにそれほどこたえない、そのかわり、楢雄の、強情が、それ以上に、せつない孤独が、宿命的とさえおもわれる、反逆の心が、よく読む人の胸を、うつ。これは、織田の心の一面であるからである。そうして、さらに、「さア来い」と駒をならべはじめる修織田は、『郷愁』という小説のなかで、仕事をするために、無理やりに仕事をするために、自分で、何本かの駐車を、「日によっては二回も三回もうつ」と書いたあとに、あまり注射をするので、左の腕は、「皮下に注射液のかたい層が出来て」針がとおらなくなり、しまいには、「針が折れそうに曲ってしまう、注射に痛めつけて来たその腕が、ふと不憫になるくらいだった。新吉は、左の腕はあきらめて、右の腕をまくり上げた。右の腕には針の跡はほとんどなかったが、そのかわり、使いにくい左手をつかわねばならない。新吉は、ふと不安になったが、針が折れれば折れた時のことだと、不器用な手つきで針のさきをあてた。そして、顔を真赤にして唇をとがらせながら、ぐっと押しこんでいると、何か悲しくなった。しかし、今は仕事以外に何のたのしみがあろう。戦争中あれほど書きたかった小説が、今は思う存分に書ける世の中になったとおもえば、可哀そうだといいながら、ほかの人より幸福かもしれない。」と書いている。そのように、織田は、空襲のはげしかったときでさえ、『表彰』と『アド・バルーン』という、すぐれた作品を書いているくらいであるから、その翌年の昭和二十一年には、『髪』、『道なき道』、『訪問者』、『神経』、『六白金星』、『世相』、『競馬』、『郷愁』、『四月馬鹿』、その他を、やつぎばやに、書いた。それは、はからずも、その翌年の、しかも、一月十日に、永眠するまでに、と、あとになって、思われるほどであった。
 そうして、これらの小説のなかで、『六泊金星』などともに、よかれあしかれ、すぐれた作品である、『世相』は、なかに、男女の関係のことを、織田流に、簡単に、あっさりと、述べているところが、すこし多く、いくつか、あるので、好色(だけの)小説の見本のようにいわれて、一部の人たちに、けなされたけれど、あおの小説のなかの、
……十銭芸者ー彼女はわずかに大阪の今宮の片隅にだけその存在を知られたはかない流行外れの職業婦人である。今宮は貧民の街であり、ルンペンの巣窟である。彼女はそれらのルンペン相手に稼ぐけちくさい売笑婦にすぎない。ルンペンにもまたそれ相応の饗宴がある。ガード下の空き地にゴザを敷き、ゴミ箱からあさって来た残飯を肴に泡盛や焼酎を飲んでさわぐのだが、たまたま懐の景気が良い時には、彼等は二銭か三銭の端た金を出し合って、十銭芸者を呼ぶのである。彼女はふだんは新世界や飛田の盛り場で乞食三味線をひいており、いわばルンペン同様の生活をしているのだが、ルンペンから「お座敷」の掛かった時はさすがにバサバサの頭を水で撫で付け、襟首を白く塗り、ボロ三味線の胴を風呂敷で包んで、雨の日など殆ど骨ばかしになった蛇の目傘をそれでも恰好だけは小意気にさし、高下駄を履いて来るだけの身だしなみをするという。花代は一時間十銭で、特別の祝儀を五銭か十銭はずむルンペンもあり、そんなあ時彼女はその男を相手に脛(はぎ)もあらわにはっと固唾をのむような嬌態を見せるのだが、しかし肉は売らない。最下等の芸者だが、最上等の芸者よりも清いのである。もっとも情夫は何人もいる。……
 語っているマダムの顔は白粉がとけて、鼻の横にいやらしくあぶらが浮き、息は酒くさかった。ふっと顔をそむけた拍子に、蛇の目傘をさした十銭芸者のうらぶれた裾さばきが強いイメージとなって頭に浮かんだ。現実のマダムの乳房への好奇心は途端に消えて、放蕩無頼の風俗作家のうらぶれた心に振る苛立たしい雨を防いでくれるのは、もはや想像の十銭芸者の破れた蛇の目傘であった。……
 などというところを読めば、『好色』などというものをはるかに通りすぎている。この一節のなかには、織田の、むずかしい言葉をつかうと、庶民にそそぐ、せつない愛と、かいうれいがあり、真に孤独なたましいが、この世にうらぶれた人たちによせる、(自分も身につまされる)ふかい思いやりと、せつない涙と、共感がある。ここに、織田の、人に知れない、涙があり、詩があり、慰めがある。一も、また、やはり、織田の心の一面である。

 永井荷風の、『あめりか物語』のうちの、『秋のちまた』という文章のなかに、荷風が、フランスに行って、悲しい、淋しい、秋のある日、せまい部屋のなかで、「机の上のともし火は、いかほど芯をひねり出しても、妙にうす暗く見える」ような晩が、バルコニーにしたたる雨の音に聞きいりながら、「思わずともの事ばかりを思い」かえしながら、
こういう晩である。ーバルコニーにしたたる雨の音が、わけもなく人の心を泣かせるのは!ヴェルレーヌの詩に、
Il pleure dans mon cocur
Comme il pleure sur la ville,
Quelle cette langueur
Qui penetre mon cocur?
(以下の詩ははぶく)
『都に雨のそそぐが如く、わが心にも涙の雨が降る。いかなれば、かかる悲しみの、わが心のうちに進み入りし。地にひびき、屋根にひびく、ああ、しめやかなる雨の音よ、雨のしらべよ。しかし、わが心は、なにがために憂うるとも知らず、ただ訳もなくうるおう。わけもなく悲しむ悲しみこそ、悲しみの極みというのであろう。憎むでもなく、愛するでもなくて、わが心には無量の悲しみがやどる……』というような意味がうたってある。
 私は、二十歳の青年のころ、荷風の、『あめりか物語』のなかでも、ことに、この文章のうちの、このあたりを、愛読し、愛唱して、いつとなく、右のヴェルレーヌの詩のはじめのほうを、かってに、『都に雨のふるごとく、わが心にも雨がふる。いかなれば、……』と、じぶんで、かえてしまって、ときどき、しばしば、愛唱したものであった。
 いま、私は、織田の、『世相』のなかの、さきに引いたところを、よみかえして、はからず、荷風のむかしの文章のなかの、右にひいたところを、おもい出した。
もとより、さきに引いた、織田の文章と、荷風の文章とは、書かれていることも、おもむきも、まったく、ちがう。しかし、ヴェルレーヌの詩のなかの、『わけもなく悲しむ悲しみ』は、織田は、ときどき、しばしば、あじわったであろう、とおもう。
雨のふる日に、ほとんど骨ばかりになった、やぶれた、蛇の目傘をさし、小意気に、高下駄をはいて、ルンペンたちのいる、ガードの下の、あき地まで、あるいていく、『十銭芸者』は、(おそらく、織田が、空想で、こしらえたものであろう、が)織田の、みずから、放蕩無頼の風俗作家(と、これも、逆説のつもりで)と自称した織田の、「心に降る苛立たしい雨」をふせぎ、「わけもなく悲しむ悲しみ」をなぐさめる、『郷愁』であり、『童話』のなかの人物であろう。
 私は、さきに引いた織田の文章のなかの、「放蕩無頼の風俗作家のうらぶれた心に降る苛立たしい雨を防いでくれるのは、もはや想像の十銭芸者の破れた蛇の目傘であった。……」というところ、なんど目かで、よみかえしたとき、おもわず、目がしらの痛くなるのを感じた。それは、『十銭芸者』を空想し、その十銭芸者を、「たまたま懐の景気が良い時」に、まねいて、まずしい饗宴をするルンペンたちの姿を、あたまのなかに、えがく、織田の、孤独な、やるせない、時には、じぶんで知りながら、無茶な事をしたくなる、心が、しのばれたからである。
 私は、織田には、二年ほどあいだをおいて、二度しか、それも、二三時間くらいしか、あわなかったけれど、二度とも、私には、わらうと、顔じゅうに皺をよせるような笑いかたをした、その織田の笑い方も、話しだすと、そのはなしが、長くても、みじかくても、しまいまで立てつづけに話した、その織田の話し方も、はなしながら、しじゅう、からだをゆする癖のある、その織田のからだをゆする癖も、名作『六白金星』のなかに、「市電で心斎橋まで行き、アオキ洋服店でジャンパーを買い」というところがあるが、その織田ごのみらしい。ジャンパーをきて、去年(昭和二十一年)の秋のすえのある日の晩、私が、上京すると、いつも、とまっている、森川町の、下宿屋のような宿屋の部屋に、その、よくにあう、ジャンパーをきた織田の姿も、(織田がなくなってからの殊更の感想でなく)やはり、どこか、さびしそうに、ものがなしそうに、たよりどころのない人のように、見えた。
 そのとき、織田は、東京にすんでいる、したしい友だちと一しょに、たずねて来たのであるが、織田が、「これから築地の宿にかえります」といいながら、玄関で靴をはき、私が、みおくりながら、「その外套ではもうさむくはないですか」というと、「ええ、しかし、きてきたままだすよってに……」と、からだをゆすりながら、例のさびしく見える笑い方をしたが、その横に友だちが立っていたのにもかかわらず、私のほうをむいて、おじきをした、織田のジャンパーをきた姿は、くらい玄関のタタキの隅であったから、というだけでなく、やはり、『ひとり』という感じと、それからくる、『さびしい人』という感じが、私の心をうち、私の目をうるませた。
 そういう姿の織田が、私のとまっている宿屋のまえの、ほそい道を、くらい中を、あるいていく姿を、見おくったのが、私が織田を見た、最後になったのである。
そのときの織田のうしろ姿を心の目にうかべながら、心の目に涙をうかべながら、織田の人と文学を回想すると、私は、やはり、結局、織田は、ほとんど、一生、哀傷と孤独のなかに、生き、しぜん、その大部分は、哀傷と孤独の文学(織田の言葉をかりると、哀傷と孤独の物語〈ロマン〉)を、書きつづけた、と、私は、かんがえるのである。この文章に、『哀傷と孤独の文学』というものものしい題をつけたのも、ひとつは、そのためである。
 しかし、いま、ふと、かんがえたのは、この題でなく、いっそ、ものものしい題にするのなら、『哀傷と孤独と流離の文学』という題にして、織田のほとんど全作品のなかにただよっていた、流離と放浪の、『すがた』と『おもい』を、織田が心をひそめたように、私も、もうすこし力をこめて、書けば、とおもい、書きたくなったのであるが、いろいろな事情で、それらの事は、別のときに、述べることにして、残念ではあるけれど、はぶくことにする。
 なお、流離といい、放浪といえば、織田は偶然に、とおい旅さきで、織田その人も、世の人びとも、永眠したが、それをおもえば、そういう理屈などはまったく別にして、ふるい、つかいふるされた、言葉ではあるが、やはり、感慨無量である、(というよりほかに、言葉がない、なぜなら、大へん感傷的ではありながら、こう書きながら、目に涙をもよおすからである。)    (昭和二十二年四月)