ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

現代から見た織田作之助

 小学館が出版した「昭和文学全集13 織田作之助 武田麟太郎 阿部知二 尾崎士郎 火野葦平 中山義秀」には、石崎等氏による「織田作之助・人と作品」という解説が掲載されています。この本が出版された昭和64年(1989年)の視点に基づいての織田作之助の作品に対する考察がなされているため、現代の我々にとっても織田作之助の作品全般から彼の辿った道までがわかりやすく、理解しやすい解説となっております。以下、『』内の文章は左記の解説の引用となります。また、この解説を読む前に、宇野浩二が語る織田作之助シリーズをご一読されてからだと、より理解が深まります。織田作之助と彼の作品の理解と研究の一助になれば幸いです。

 


夫婦善哉


 織田作之は、大阪と切り離して考えることのできない作家である。昭和十五年四月、同人誌『海風』に発表した「夫婦善哉」が注目され、それが同年七月号の『文芸』に第一回文芸推薦作品んとして再掲されたことが文壇への登場のきっかけとなった。この作品は、柳吉・蝶子という一組の男女を中心に、職業を転々と変えながらねばり強く生きる大阪庶民のヴァイタリティが、卓抜な話術によってみごとに表現されている傑作である。ここに織田文学の原郷があることはいうまでもない。同時に掲載された織田の「感想」には、「『夫婦善哉』は私の魂の郷愁のような作品であるが、これから魂の放浪を続けて行きたい」という覚悟が語られている。
 「夫婦善哉」を発表して以後、彼の文学的生涯は、わずか七年間に過ぎない。しかもそれは、戦時下の困難な状況をはさんでの七年であった。その間、織田は人の数倍のスピードで「魂の放浪」の旅を続ける。まさに生き急ぎであった。
 発表された当時、その老成した西鶴的作風と手だれの文章は、新進作家とは思わせない強烈な印象を人々に与えた。織田自身は、西鶴の影響を否定しているが、もしそうだとしたら、大阪人に脈々と流れる西鶴的なるものの伝統が、織田作之助の体内にも生き続けていたことを物語っているといってよいだろう。


 哀傷と孤独の文学


 「人と交るや、人しばしばその長所を喜ばず、その短所を喜ぶものと心得べし」
 これは、「猿飛佐助」の中で、師匠白雲斎が佐助に訓えたことばである。まさに然り。織田作之助に関して、人はかならずしも彼の長所を認めて喜ぼうとはせず、むしろその短所を喜んだようである。白雲斎の教訓は、戦中から戦後にかけて「昭和文学」というフィールドをやみくもに駆け抜けて、あっという間に退場した織田自身が身を以て体得した人間観といえるだろう。だから、人との交際において、その短所を平気で晒すことを厭わなかった。それがまた大胆かつ奇矯な言動と受け取られた。世に言う「無頼派」の呼称もそこから来ているといってよいであろう。
 しかし一方、織田は、多くの人の証言にあるように、人の気をそらさぬ、サービス精神の旺盛な心優しい人間であった。生前、面識があった先輩の大阪出身の作家・藤沢桓夫(ふじさわたけお)は、織田を評して「おもろい男」だったといい、「陽気で、おっちょこちょいで、お喋りで、移り気で、見栄坊で、本当は小心で気が弱いくせに、一たん調子に乗るとブレーキが利かず、無謀に近い大胆不敵な言動を繰り返し、それで成功することもあったが、失敗することもしばしばだった」(『大阪自叙伝』)と回想している。こおポートレート批評は、彼の性格をみごとにとらえているように思われる。孤独な性格のために、積極的に誤解されるのを楽しんでいたかのようでさえある。
 しかし、作家としての自尊心は、人間に対する批評よりも作品に対するそれのほうにより鋭敏に働くのが一般であろう。だから、短所のみをあげつらう意図的・罵倒的な批評が応えなかったはずはない。自分に投げつけられた批評語のいくつかを蒐集していることからもそれが分かる。「可能性の文学」にある「げす、悪達者、下品、職人根性、町人魂、俗悪、エロ、発疹チビス、害毒、人間冒涜(にんげんぼうとく)、軽佻浮薄(けいちょうふはく)」がそれだ。また、「世相」の語り手「私」は、作中で「『風俗懐乱』の文士」「放蕩無頼の風俗作家」「デカダンスの作家」「才能乏しい小説家」などと自嘲的な自己規定をさえしている。
 こういう感性の触手の働かせ方にはユーモアすらかんじさせる面がある。しかし、織田の心に、自分の仕事が軽視され、世に正当に受け容れられないことへの悲しみが潜んでいなかったといったら嘘になろう。
 もっとも、そういう無理解な批評は、彼の急逝後、急速に沈静化に向かったことも確かである。そのきっかけを作ったのが、同じ大阪出身の作家で織田に大きな影響を及ぼした宇野浩二の「哀傷と孤独の文学-織田作之助の作品」(昭和二十二年五月『中央公論』)という好意的な作家論の出現であった。結末近く、宇野の宿屋の部屋を訪ねてきたときの織田の印象を語り、それに続けてこう述べている。
  そのときの織田のうしろ姿を心の目にうかべながら、心の目に涙をうかべながら、織田の人と文学を回想すると、私は、やはり、結局、織田は、ほとんど、一生、哀傷と孤独のなかに、生き、しぜん、その大部分は、哀傷孤独の文学(織田の言葉をかりると、哀傷と孤独の物語(ロマン)を、書き続けた、と、私は、考えるのである。)
 感傷にやや流されていなくはないが、これほど心を傾けて書かれた追悼的な作家論はそうざらにあるものではない。ここには、織田作之助論の基本的な枠組がいち早く提出されている。とくに見落とせないのは、「庶民にそそぐ、切ない愛と、深い憂いがあり、真に孤独な魂が、この世にうらぶれた人たちによせる、(自身も身につまされる)深い思いやりと、切ない涙と、共感がある」という指摘である。織田文学にとって、主人公と現実的諸関係の総量は、他の作家にくらべると確かに大きくはない。しかし、地に足をつけた庶民の哀歓を語る作者の姿勢は、さまざまなヴァリエーションをとりつつ、「俗臭」(芥川賞候補作)「夫婦善哉」「放浪」から、「雪の夜」「立志伝」「完全懲悪」を経て、戦後の「六白金星」「アド・バルーン」「世相」へと続く書作品に一貫しているのである。それは、事実上の処女作といえる「雨」、続篇「二十歳」を併合した長編『青春の逆説』でも変わらない。たとえば、「弱くうらぶれたもの」に惹きつけられる毛利豹一の結婚相手が、美貌の女優ではなく、行きずりに関係をもったカフェーの貧しい女給であったというように。

 

 戦時下の動向


織田作之助が自己滅却して書いた歴史小説は、端正な完成度を示しており、今日でも比較的面白く読むことができる。しかし、これは織田文学の本道からはずれていた。『青春の逆説』(昭和十六年)以後、時代の要請で多くの作家達と同様に、しかたがなく歴史物に赴かざるをえなかったからである。『五代友厚』とその続篇『大阪の指導者』、『月照』『異郷』などの書下ろしがその主要なる仕事だが、ここには時代との関係で自己を滅却させたひとつの型が示されている。
戦後に書かれた「世相」の主人公「私」は、『青春の逆説』が発売禁止処分を受けた昭和十六年七月以降のことに触れ、「自分の好きな大阪の庶民の生活や町の風俗が描けなくなったこと」を痛感して憂鬱になるが、やがて江戸時代の戯作者のことを思うと、反逆精神がむらむらと燃え上がり、現代版『好色一代女』というべき「十銭芸者」を書き上げる。この小説は、ありえたかも知れない小説の可能性を追求したというより、西鶴を模した反俗的な色彩の強いもので、時期的には、ちょうど一連の歴史小説の裏面に定位されるべきものである。戦中記における文学精神の健在ぶりを示そうとして仕組まれた「十銭芸者」のアリバイは、しかし「世相」では充分には成功していないのだ。どうして戦後になって織田はそこに拘泥したのか。
たとえば、石川淳は、「散文小史-一名、歴史小説はよせ」(昭和十七年七月『新潮』)を発表して、時局に便乗した安手の歴史小説を厳しく批判しているが、さらにその補説といえる「歴史小説について」(昭和十九年八月『新潮』)では次のように書いている。
 何しろ統整された史観と配給された材料とを取扱う仕事だけあって、話はたわいなく片がつく。これで歴史小説という呼称の、上半分の歴史の儀は滞りなく相済ということになる。そして小説の儀は……これはどうまちがっても小説とは申上げられない。
石川淳が、その頃繁盛を極めていた歴史小説にみたのは、それが「散文の運動」とはおせじにもいえない「窮屈な古典幾何学」や「通俗国史解説」の跋扈にほかならなかった。
こういう批判の正当性は、多少とも昭和十年代後半に大量生産された歴史小説を繙(ひもと)いてみれば、ただちに納得のゆくところである。織田の場合がそうだというのではない。むしろ「統制された史観配給された材料」を料理した手際は実に鮮やかであった、今日けっこう面白く読めるとは、そういうことだ。しかし、石川淳いうところの「散文の運動」は空転しており、「地の文と会話のつながりや、描写と説明との融合や、大胆な省略法、転換法」(「大阪論」)など、伝統的な話術を摂取した初期の頃の独特の文体がすっかり影をひそめてしまっている。
もともと織田作之助の文学には、嫉妬や自尊心に悩む屈折した人間の情念の本流が多く認められ、それがときにうるさく感じられさえするのが特色だった。したがって、大義とか憂国とかの超越的倫理(イデオロギー)に拘束された歴史的人物を描くのに馴染まない。彼は、若い頃から慣れ親しんだ固有の心理や情念を圧し殺し、ストーリー・テラーに徹しようとする。それは、川端康成の批評語とされる「下向きの表情」の持ち味がよい意味で発揮されなくなることであった。しかも、彼は、大義とか憂国とかの心情を書くことにより、自己を昂揚させて満足するには、あまりにも醒めた現実認識をもつ散文作家であった。そう考えると、歴史小説は、身過ぎ世過ぎもさることながら、時局に対するささやかな抵抗としての意味もなくはなかった、といえるだろう。
だとしたら、「世相」の中で、どうしてあんなに「十銭芸者」の存在に固執したのだろうか。われわれは、歴史小説の系譜とは別に「天衣無縫」「勧善懲悪」「聴雨」「木の都」「蛍」「猿飛佐助」という短編秀作の存在を知っている。とくに、生まれた大阪の街の青春回顧をみずみずしく描いた「木の都」や、歴史物の副産物として「蛍」「猿飛佐助」の二編を得たことは何よりの収穫であった。ここには本来の織田作之助が生きており、「散文の運動」のみごとな展開がある。これらの作によって、彼がこころみた長編歴史小説はすべて吹き飛ぶのである。ことに、戦争の押しつまった昭和二十年の二月と三月に発表された「猿飛佐助」には、したたかな戯作精神が息づいており、無頼派作家・織田作之助の面目躍如ぶりが発揮されている。』


終戦は、昭和20年(1945年)の8月で、織田作之助はそれから2年後の1947の1月10日に亡くなります。

 

ロマンへの夢


 敗戦後、自己解放の時代を迎えたとき、織田作之助には、武田泰淳野間宏における仏教、椎名麟三における実存哲学やキリスト教埴谷雄高におけるインド・ジャイナ教の雰囲気など、戦後派作家にあった宗教性というか求道性というか、超越的なるものへの関心はまったくなかった。また、大岡昇平のように一兵士として戦場に駆り出され、生死の限界状況をさまようという体験ももちあわせていなかった。もし、これらと拮抗しうるものとしたら、それは、「僕はほら知名や職業の名や数字を夥(おびただ)しく作品の中にばらまくでしょう。これはね、曖昧な思想や信ずるに足りない体系に代るものとして、これだけは信ずるに足る具体性だと思ってやってるんですよ。人物を思想や心理で捉えるかわりに感覚で捉えようとする。左翼思想よりも、腹をへらしている人間のペコペコの感覚の方が信ずるに足るというわけ。」(「世相」)という脱イデオロギーと庶民的な具体性感覚の思想であった。これは、大阪ないしそこに生きる人々に対する愛着に裏打ちされたものであり、また大阪的伝統や西鶴文学につながるものにほかならなかった。あるいは、「自身放浪的な境遇に育って来た私は、処女作の昔より放浪のただ一色であらゆる作品を塗りつぶして来たが、思えば私にとって人生とは流転であり、淀の水車のくりかえす如くくり返される哀しさを人間の相(すがた)と見て、その相をくりかえしくりかえし書き続けて来た私もまた淀の水車の哀しさだった。」(「世相」)という日本的な無常感を対置してみることもできるであろう。しかし織田は、戦後の時代を生きてゆくにあたって、かつて自分の感受性を培い、文学の核を形成していたこれらの人生観だけで乗り切れるとは信じていなかった。
 京都を舞台に若き日の芸術家の肖像を『青春の逆説』でたんねんに彫り刻み、大阪を中心に「魂の放浪」の諸相を徹底的に対象化しはてた(と思われた)とき、織田にとって残された課題とは、自分の文学の可能性の芽が戦争によって無残にも摘み取られてしまったという悔恨もあって、「『赤と黒』は私に小説というものを教えた」という通り、スタンダール流の西洋的なロマンによって現代社会を描くことしかないように思われた。戦後いち早く復活したジャーナリズムの上げ潮に乗った彼は、スタンダールとの運命的な出逢いに触発されたロマンの夢を「夜光虫」「それでも私は行く」「夜の構図」「土曜婦人」などの長編に生かそうと、憑かれたように書きまくる。評論「可能性の文学」は、横光利一の「純粋小説論」を織田なりに消化発展させたもので、「土曜夫人」はその実践であった。しかし、「偶然というものの可能性を追求することによって、世相を泛(うか)び上がらせよう」、「世相が変わらせた多くの日本人」(ともに「土曜夫人」中にあることば)を描こうという野心は、理屈通りには行かず、ストーリーは空転するばかりであった。登場人物にも肉付けがなされず、まったく結末を予想できないまま作者の死によってその世界は閉ざされてしまった。
 織田文学の主人公の特徴は、両親を次々と失い、係累から切り離された孤独な単独者が多いということだ、兄弟姉妹がいても、いわゆる健全な家庭を形成しておらず、皆ばらばらに生きている。そして、まるで人形の首をすげ替えるように出入りのはげしい義父、義母。また、夫婦という最低限二人の家庭を描いても、男女どちらかには必ず過去の異性の影がちらつき、嫉妬に苦しむあまり、家庭はつねに不安定な状況に置かれている。つまり、織田は、真に家庭的なるものの核に遭遇し、それを文学の磁場にすることに疎遠な作家であった。だから、主として孤立した人間の暗い情念を掘り下げ、そのリアリティを現実との函数関係においていろいろと追求することに文学的な生命を賭けてきたのである。宇野浩二のいわゆる「哀傷と孤独」はそのことを言ったものだし、先きに引いた「世相」の流転人生観も彼の文学的本質を自ら言いあてたものである。だが、織田は、ロマンの創造という夢を追いかけ、それに専心するあまり、小説文体の危機について少々無自覚であったようである。
 「小説の面白さとは物語性にある。いいかえれば小説とは嘘の芸術なのだ、が、誤解を招かぬために云って置くが、ここにいう嘘とはリアリティを薄めるための手段ではない」と『西鶴新論』(昭和十七年刊)の中で述べている。反論しようのない定義である。また、一流に反逆して、二流に徹せよ、そこからしか「新しいスタイル」「新しい文学」は生まれてこない、という「二流文楽論」の主張にも異存はない。だが、織田は、そういう「文学の可能性」を性急に追い求めるあまり、戦後に相応しい文体の創始に配慮していたといえるだろうか。こころみに、同世代の戦後派作家である野間宏の「暗い絵」や武田泰淳の「蝮のすえ」を置いてみればそれは明らかであろう。
 そうだとしたら、彼の文学の神髄は、やはり戦後の作品にあっても、「土曜夫人」のような奔放なロマンのこころみではなく、「世相」や「六白金星」や「競馬」などの世界にあったというべきであろう。なぜなら、織田作之助は、大阪と切り離して考えることのできない作家であり、出生地の大阪高津の河童(ガタロ)路地の記憶にたえず回帰してゆくことによって、虚実の間をゆくその濃密な私小説的な文学空間を維持し、発展させてきたからである。


 再評価のきざし


 織田作之助をめぐって、最近いくつかの現象がみられた。そのひとつは、『都市空間のなかの文学』で研究に新領域を拓いた前田愛が、瀬戸内晴美との対談『名作のなかの女たち』の中で「夫婦善哉」を取扱ったのに引き続き、『幻景の街 文学の都市を歩く』(昭和六十一年 、小学館刊)の一章に、大阪の街を描いた代表的作品として「夫婦善哉」を取りあげ、都市空間と文学という新しい視覚から織田文学の再評価をうながしたことである。
 ふたつは、昭和五十九年、カナダのモントリオール大学で戦後文学を講義したフランス文学者の西川長夫が、その一日を割いて「織田作之助と焼跡のジュリアン・ソレルたち」と題して講述したことである(その講義録は、『日本の戦後小説 廃墟の光』として昭和六十三年八月、岩波書店より刊行)。
 都市空間、国際性など-これらは無関係に発生したものだが、この中に織田作之助がすんなり収まるということは、無頼派のイメージからするとやや似つかわしくない。しかし、没後四十年にして、その文学を見直そうとする動きがようやく始まったことを示しているのではないだろうか。』