ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

夜明け前と島崎藤村の足取り1

 ほるぷ出版の「夜明け前四 島崎藤村」に掲載されている三好行雄氏による解説は、「夜明け前」の解説と共に島崎藤村に対する深い研究が光っている内容です。以下、『』内の文章は左記の解説からの引用となります。「夜明け前」及び島崎藤村への理解の一助となれば幸いです。

 


藤村文学の最後の到達
 -幻滅と挫折の悲劇- 
           三好行雄


 『夜明け前』は(未完に終わった『東方の門』を別にしていえば)、島崎藤村の最後の長編小説で、全二部から成る。
 第一部(序の章および第一から十二章の全十三章)は「中央公論」の昭和四年(一九二九)四月号から昭和七年一月号まで、原則として年に四回、一月、四月、七月、十月の各号にそれぞれ一章ずつ(ただし、昭和六年のみは八月号を加えて年五回)発表された。第二部(第一から十四章および終の章の全十五章)はひきつづいて昭和七名年四月号から第一部とおなじ方式で年四回、四年にわたって分載され、昭和十年十月号の〈終の章〉で完結した。第一部、第二部とも初出稿では各章ごとに作者の感想、正誤、執筆状況の報告などをふくむ自由な体裁の「附記」ないし「はしがき」が附されている。
 初版は第一部が雑誌連載稿の完結後まもなく、徹底した補正を加えて、昭和七年一月二十日に新潮社から出版されたが、その後、第二部の完結を機として企画された定本版『藤村文庫』の第一篇として、昭和十年十一月二十五日に新潮社から再版されている。『藤村文庫』は藤村自身が自分の作品を編集再構成した自選全集で、第一篇(第一部)と同時に、第二部がおなじく若干の補訂を加えて、『藤村文庫』第二篇として昭和十年十一月二十五日に新潮社から刊行された。
 小説の発表にさきだって、「中央公論」の昭和四年一月号に、予告にあたる「『夜明け前』を出すについて」が発表されているが、藤村はその一節で、つぎのようにいう。
 《これを出すについて、何かここに書きつけることを本誌の編集者から求められた。しかし私は今しばらく黙していたい気がする。自分の内から子供の生まれて来る前であればあるだけ、その沈黙を作者としての言葉に替えたい気がする。実のところ、私はこの作をするについて何も読者に約束することは出来ない。ただこれが私にとって第五の長篇小説であること、私はまた成るべくやさしい平談俗語をもってこれを綴るであろうということが言えるのみである。……『夜明け前』一篇は私として、一つのスタデイを持ち出して見るに過ぎない。》
 これは一見、さりげない挨拶のように見えるが、〈第五の長篇小説〉といい、〈平談俗語〉で語るといい、〈一つのスタデイ〉という、そこは『破戒』『春』『家』『新生』と書きつがれてきた藤村文学の半生の脈絡を継いで、なお新しい世界をひらこうとする作家の自負が読みとれる。
 藤村はみずからの内に熟してくるものの気配をひそかに確かめながら、それが産声をあげる刻(とき)の近づくのを慎重に待っているのである。
   *
 『夜明け前』の主人公青山半蔵のモデルは、いうまでもなく、藤村の父島崎正樹である。七年の歳月をかけて成ったこの大河小説で、作者は父の苦悩にみちた生涯を、父の生きた時代の状況と合わせ鏡にして、明治維新前後の動乱期を生き生きと描きだすのに成功した。個人の歴史を辿りながら背後に、時代全体の移りゆく大きな流れを彷彿した重量感は比類がなく、わが国の近代歴史文学の最高峰という評価がすでに確立されている。同時に、小説の成立過程やモチーフにかかわっていえば、『夜明け前』はたんに歴史小説としての傑作というだけでなく、藤村自身の生の軌跡にとって、たとえようもなく重い意味を持った作品であった。
 藤村は明治五年(一八七二)三月二十五日に正樹の四男として馬籠(まごめ)で誕生したが、明治十四年、九歳のとき、兄にともなわれて東京に遊学して以後、大正十五(一九二六)年に『夜明け前』の準備をかねて馬籠を訪れるまで、ほとんど故郷に足を踏み入れることがなかった。『夜明け前』のモチーフを手に入れたとき、藤村は名実ともに故郷にもどったのである。
 『夜明け前』の構想をうながすモチーフの発端は、大正二年のフランス行にまでさかのぼる。この年の四月、藤村はいわゆる新生事件として知られる実姪との危険な関係から逃れるためにフランスへ旅立ち、帰国の船に乗る大正五年五月までのまる三年間を、第一次世界大戦前後の物情騒然たる異国で過した。大正三年八月には戦禍を避けて南仏のリモオジュに移るなどのこともあったが、藤村はこの戦争を通じて、もはや頽廃(たいはい)の底をきわめたかに見えたフランス国民が、敗戦にひとしい打撃を受けて逆に民族の自覚にめざめ、廃墟からたちなおろうとする不死鳥のような生命力に驚嘆した。みずから銃をとって戦い、祖国のために死んでゆく詩人たちにも感動した。現地で書かれた随想「戦争と巴里(パリ)」(大正四年)でも、〈私は今自分の周囲を見廻すと、戦後の仏蘭西の為めに来るべき時代のためにーせっせと準備しつつあるものに気が着く。どう見てもそれは芽だ。間断なく怠りなく仕度して居るような新生の芽だ〉(「春を待ちつつ」三)という発見が語られている。藤村はその〈氏から持来す回生の力〉の根源を、フランス民族が守り育ててきた伝統のなかに求めた。廃墟に新生の芽を芽ぶかせるものこそ、戦禍によっても滅びることのない伝統の力なのだという発見である。〈回生の力〉への驚嘆は直接には、みずからのデカダン(背徳と不倫の愛)から自力でよみがえろうと『新生』への道を用意することになるが、同時に、民族の精神や伝統についてのあらたな自覚は、幕臣栗本鋤雲(くりもとじょうん)の『暁窓(ぎょうそう)追録』を旅窓で読んだことなどが機縁になって、十九世紀日本の考察という大きなテーマの前に藤村を連れだすことになった。
 《もし吾国(わがくに)における十九世紀研究とも言うべきものを書いてくれる人があったら、いかに自分はそれを読むのを楽しむだろう。明治年代とか、徳川時代とか。区画はよくされるが、過ぎ去った一世代を纏めて考えて見ると、そこに別様の趣が生じてくる。先ず本居宣長の死あたりからその研究を読みたい。……組織的な西洋の文物(ぶんぶつ)を受けいれようとしてから未だ漸く四五十年だ、兎も角もその短期の間に今日の新しい日本を仕上げた、こう言う人もあるが、それは余りに卑下した考え方と思う。少なくも百年以前に遡(さかのぼ)らねばなるまい。十九世紀の前半期は殆どその準備の時代であったと見ねばなるまい。》(「春を待ちつつ」四)
 本居宣長の没したのは一八〇一年である。日本の近代がそれから切れて、すくなくとも切ろうとしてはじまったと信じられていた過去の再評価である。
 「戦争と巴里」には栗本鋤雲についての言及もある。鋤雲は幕府きっての西洋通として知られ、外国奉行などを歴任したが、慶応三年(一八六七)に渉外使節として渡仏し、明治維新をパリで迎えた。『暁窓追録』はそのフランス見聞記で、パリにおける藤村の愛読書のひとつだった。帰国後は新政府の招きを断り、江戸幕府の遺臣として野に隠れた鋤雲を、藤村は〈強情な人で……人一倍の強さをもって時代の運命の不可抗な力の前に立った〉と批評する。先進諸国のひとびとと対抗してゆずらなかった活躍ぶりを賞讃しながら〈そこには物に動ぜぬ偉大な気魂(たましい)と、長い教養の効果と、日本人としてのプライドを看取するに難くありません〉とも書いている。藤村は栗本鋤雲のなかにも、十九世紀日本という、近世と近代とを包括する認識でなければ正確に見ることのできない、ひとりの先覚者の像を発見していたにちがいない。狭い視野でいえば、確かに、日本の近代は栗本鋤雲を否定して出発したように見えるが、鋤雲もまた民族精神の体現者として、日本の近代との連続性をうしなっていないのである。ちなみに、栗本鋤雲は喜多村瑞見(ずいけん)の仮名で『夜明け前』にも登場する(第一部第三章)。『「戦争と巴里」では、十九世紀日本の研究を読んでみたいという控えめないいかたをしていた藤村だが、それはやがて他人にまつまでもない、自分自身の課題となる。かれの思索はおのずと問題の核心に踏みこんで、十九世紀という時間の幅で切りとられたひとつの時代を、東と西の異質文明の対立と葛藤をともなった、近代化の過程として見直そうとしたのである。その間のあわただしい流動をつらぬいた民族の伝統、いわば日本人の倫理の源泉と形が問われ、日本の植民地化をふせいだ中世の意味が重視される。同時に、民族の至誠にかかわりつづけた存在として、真淵や宣長らによって推進された復古の学、とくに平田篤胤(あつたね)の思想を軸とする平田派の国学が再評価され、近代の国民意識の胎動を、神ながらの保守のなかに聞こうとする歴史認識も育ちはじめていた。すべてはまだ萌芽ないし予感にすぎなかったが、フランスへの旅を機として形をととのえてきた文明批評の端緒は、やがて『夜明け前』の主題を形成する思想の核であった。
 同時に、十九世紀日本の考察というモチーフの発見は、藤村にとってあらたな意味を帯びてよみがえってきた父の発見と表裏一体であった。往復の航海記『海へ』の第二章「地中海の旅」は〈父を追想して書いた船旅の手紙〉というサブタイトルが付されている。フランスへの旅は藤村に、父との出会いも用意したのである。その父はいっぽうで〈御生涯のなやましかった〉、おなじ血につながる宿命のひとであると同時に、平田派の国学に心酔し、〈外来の思想を異端とせられた〉思想家でもあった。父の斥(しりぞ)けた異端の地への旅をいそぐ藤村の心情は複雑だったにちがいない。
 フランスに旅だつ直前に、藤村は「幼き日」(のち「生い立ちの記」と改題)という短篇小説を書いている。ある婦人(モデルは親友の神津猛の夫人てう)にあてた書簡体で、母のない〈自分の子供らを見て、それのなすさまを眺めて、それを身に思い比べて〉自分の少年期を回想するという体裁の作品だが、藤村は後年の回想で、小説の意図をつぎのように語っている。
 《わたしはよく自伝的な作者のように言われているのがこれはただ自伝の一部として書こうとしたものでもない。自分の生命の源にさかのぼろうとする心を起した時にこれが書けた。》
 実姪との不倫の愛という、人間として最大の危機に遭遇したとき、藤村の心情はおのずから〈自分の生命の源〉をさぐろうとするつきつめた決意にみちびかれる。そして、運命の根源を追いもとめる眼に、幼い日の哀歓と、父とともにいた故郷の風物が幻のように見えてくる。「幼き日」の描写の中心がわが子の日常を離れて、作者自身の幼年時代と馬籠の風土や人情の追想に移っていったゆえんである。現にかく在(あ)る自己から、自己をかく在らしめたものへの遡行である。その未完のモチーフが異国にまでもちこされたとき、不倫の罪を自責する懊悩の底で、自己の生命の真の根源としての父、運命の目に見えぬ司祭神としての父が見いだされた。『夜明け前』の主題に即していえば、他方で伝統の自覚があり、同時に、伝統を受けつぐ最小単位としての父と子の意味の発見があった。藤村はこうして自己凝視の果てに、あくまでも凡常なエゴに執しながら、歴史への通路を発見したのである。
 藤村が『新生』で大胆な告白を試み、危機に瀕した生を救ったのは大正七年から八年にかけてである。それにつづく長い沈黙を経て、大正十四年に入ってから、藤村はふたたび「成長と成熟」「前世紀の探求」などの随筆で、真淵のいう〈荒魂〉と〈和魂〉に思いをひそめ、国学者の〈保守的な精神は、吉田松陰らによって代表さるるような世界の探求の精神と全く腹ちがいのものであったろうか〉という感想を書きとめた。
 《好(よ)かれ悪しかれ私達は父をよく知らねばならない。その時代をよく知らねばならない》(「前世紀の探求」)
 このとき、『夜明け前』はすでに構想の第一歩を踏みだそうとしていた。前述のとおり、小説の準備のために、藤村がはじめて馬籠を訪れたのは、大正十四年である。

 藤村は宿命の意図をたどるに似た自己凝視の果てに、父を通路とする歴史への眺望を手に入れた。自己に執しながら外への視線を回復するという、いかにも藤村らしい主題のアプローチが、『夜明け前』歴史小説としての骨格を決定した。父は子の源泉であると同時に、理想像であり、また、歴史を描く原点でもある。青山半蔵は父と子の複合体として造型され、更に、その半蔵を軸として歴史を描くー作中のことばを借りていえば、〈草叢(くさむら)の中から〉(第一部十二章)歴史を見るという独創的な視点が設定されたのである。
 『夜明け前』の完成後、藤村は小説の意図について、つぎのように語っている。
 《あの作は御承知のように、維新前後に働いた庄屋、本陣、問屋の人たちを中心に書いたものでございます。維新前後を上の方から書いた物語はたくさんある。私はそれを下から見上げた。明治維新は決してわずかな人の力で出来たものではない。そこにたくさんの下積の人たちがあった。維新というものが下級武士の力によって出来たものだと説く人もございますが、私はそうではなしに庄屋たちがたくさん働いている。それは世の中にあまり知られていない。私の『夜明け前』は……そうした下積の人たちを中心にした物語でございます》(「『夜明け前』成る」談話)。
 『夜明け前』のねらいが簡明に語られている。もちおrん、庄屋だけが〈下積の人〉なのか、という疑問は残る。この小説の登場人物は標準語で語りあい、ごく召集の小前の農民たちだけが、正確ではないにしても、方言で話をする。小説の主題にかかわって動くのは標準語を使う人間たちであり、かれらの住む世界の下に、方言で語る貧しい農民の生きる地平がある。〈草叢の中〉という視点に、下層農民の眼がふくまれないのは確かである。
 青山半蔵の家は馬籠宿の本陣・庄屋・問屋の三役を兼ねている。村役人である庄屋は尾州藩徳川家の末端行政機関として領主の権力を代行し、宿役人である問屋は幕府道中奉行の直接の支配下におかれるわけだが、そうした微妙な二重性について、藤村の認識はかならずしも徹底していなかったようである。半蔵は支配者である大名や武士と、被支配者である農民層との中間者として位置づけられ、その半蔵がより下層の〈草叢の中〉の動きに目をとめるという形をとる。序の章に、背伐(せぎ)りの禁を犯した村民たちの処罰を、半蔵が〈眼を据えて〉見る印象ぶかい一節がある。これは半蔵の痛切な原体験のひとつとして、以後の生きかたに大きくかかわることになる。半蔵はしばしば〈貧窮な黒鍬や小前のもの〉の身の上を思い、きびしい運命に心を痛める。〈柔順で忍耐深いもの〉への思いは〈一つは継母に仕えて身を慎んで来た少年時代からの心の満たされがたさが彼の内部(なか)に奥深く潜んでいたから〉〈下層にあるものの動きを見つけるようになった〉(第一部第二章)と説明される。いうまでもなく、〈継母に仕えて身を慎んで来た少年〉という一行には、はやく母と別れ、東京へ遊学した藤村自身の記憶が仮託されていた。父のなかに自分の生の原型を見ようとするモチーフは、こういう形でも明らかにされている。
 〈草叢の中から〉歴史を描こうとした藤村の意図は、『夜明け前』を書くにあたって利用した資料の性格にも見てとれる。
 『夜明け前』の執筆のために、藤村は膨大な資料に目を通しているが、それはほぼ二系統に大別できる。ひとつは尾佐竹猛氏の研究など、啓蒙的な概説書をふくむ歴史学者の著書である。大正の末あたりから明治維新史の研究は急速に活発になったが、その成果もさりげなく取りこまれている。維新史だけでなく、風俗史や宿駅制度史などをふくめて、この第一系統の資料はいずれも後代の歴史学者によって体系化された歴史叙述にほかならないが、藤村はそれらに多くのものを学びながら、結局は作品世界の枠組みもしくは背景として利用したにすぎなかった。『夜明け前』の独創性を支えたのは、やや質のちがった別の資料群である。
 藤村の重視した第二系統の資料は、さらに三種類に分けることができる。第一は馬籠宿の年寄役大脇信興によって綴られた克明な日記(『大黒屋日記』)をはじめ、父正樹の遺稿(歌集『松か枝』その他)、蜂谷源十郎の八幡屋覚書、追分宿土屋氏の名主古帳など、木曾の山間に生涯を埋めながら時代の推移を〈草叢の中〉で確実に見ていた人間たちの遺した記録である。第二は、栗本鋤雲の『匏庵(ほうあん)遺稿』』や間秀矩(はざまひでのり)(作中の蜂谷香蔵のモデル)の『東行日記』など、幕閣の中枢にいたり、倒幕運動に参加したりして、時代の動向にたちあった人間の証言である。たとえば第一部第四章で、喜多村瑞見(ずいけん)の語る開港秘史は、鋤雲の回想「岩瀬肥後守事蹟」に拠っている。第三はケンペル。シーボルトらの『江戸参府紀行』やエルギン卿の『遣日使節録』など、開国を外からうながした西洋人の訪日見聞録。第二部第一章あたりの記述にも利用されているが、かれらの眼に映じた日本が現代のわれわれにどれほど奇異に思われようとも、それもまた、異邦人の新鮮な眼をレンズとする虚像にまぎれもない。
 この第二系統の資料は『大黒屋日記』にしても『匏庵(ほうあん)遺稿』』にしても、明治維新前後の動乱をさまざまな場所で体験した目撃者の証言として、事実に直面した人間の肉声を伝えている。『夜明け前』の作者は後代の学者による歴史認識よりも、体系化されない同時代人の証言をより確かな拠りどころとしてえらんだのである。』

 

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