ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

夜明け前と島崎藤村の足取り2

 ほるぷ出版の「夜明け前四 島崎藤村」に掲載されている三好行雄氏による解説は、「夜明け前」の解説と共に島崎藤村に対する深い研究が光っている内容です。以下、『』内の文章は左記の解説からの引用となります。「夜明け前」及び島崎藤村への理解の一助となれば幸いです。

 


『しかも、資料の利用にあたって、想像力によるほしいままな潤色をできるだけ避けようとする態度を最後までつらぬいた。〈木曾路はすべて山の中である〉という有名な一行からはじまる序の章の冒頭が、文化二年版の『木曾路名所図会』巻三の記事に基づくことも、すでに指摘されている。(北小路健『木曾路文献の旅』)。
 《木曾路はみな山中なり。名にしおう深山幽谷にて杣(そま)づたいに行かけ路多し、就中三留野(なかんずくみどの)より野尻までの間ははなはだ危うき道なり、此間左は数十間深き木曾川に路(みち)の狭き所は木を筏わたして並べ、藤かづらにてからめ、街道の狭きを補う、右はみな山なり、屏風を立たる如(ごとく)にして、基中(そのなか)より大巌さし出て路を遮る、此間に桟道多し……》
 風景でさえも、藤村は同時代の眼を借りて描こうとするのである。目撃者の視点に自己の視点をかさねて、眼前に流動する複雑な時代相を彷彿するという藤村の方法にとって、第二系統の資料が不可欠だったことはいうまでもないが、なかでも『大黒屋日記』の存在は小説の骨組みや構造を決定するほどに重要だった。
 『大黒屋日記』は、正確には『年内諸用日記』という。筆者の大脇信興は作中の金兵衛のモデルで、大黒屋の第十代の当主である。文政九年から明治三年にいたる四十五年間(ただし、天保四、五、八、九年の記事を欠く)の馬籠宿における公私の記録を克明に書き綴ったもので、叙述は旅行、盗難、火災など農民の日常生活にまで及んでいる。『夜明け前』の自解として有名な「覚書」(『桃の雫』所収)に、つぎの一節がある。
 〈昭和二年のはじめには、わたしはすでに『夜明け前』の腹案を立ててはいたが、まだ街道を通して父の時代に突き入る十分な勇気を持てなかった。……日清戦争前の村の大火に父の蔵書は焼けて、参考となる旧(ふる)い記録とても吾家(わがや)にはそう多く残っていないからであった。これなら安心して筆が執れるという気をわたしに起させたのも大黒屋日記であった。その年にわたしは一夏かかって大脇の隠居が残した日記の摘要をつくり、それから長い仕事の仕度にとりかかった。〉
 
 〈街道というものを通して父の時代に突き入る〉という言葉は、『夜明け前』の性格を的確に表現しているが、確かに、『大黒屋日記』はそのための絶好の資料だったといえよう。日記を通じて読み取れる馬籠宿の日常は僻地の寒村らしく、時代のはげしい動きからなかばとりのこされたように見えながら、にもかかわらず、幹線道路の宿駅であることによって、そこを通過するさまざまな旅人がさまざまな情報を残してゆく。時代の鼓動はおくれて、しかし、確実に伝わり、あわただしい反応を強いられるのである。藤村は偶然とはいえ、きわめて恰好な視点を手に入れたわけである。京都と江戸の中間にある馬籠は交通制度上の一要地というだけでなく、政治や社会経済の動きにも微妙にかかわる位置にあった。藤村は宿駅を通過してゆく旅人の群れを描き、鄙(ひな)びた村落のしだいに変化してゆく日常を描くことで、転変する時代と人心の移ろいをあざやかに表現することができたのである。
     *
 時代の動きから遠くにありながら、それがつねに生々しく伝わってくるという馬籠宿の位置は、そのまま半蔵の苦悩の象徴である。第一部の第三章で描かれる江戸への旅は半蔵にとって、青山家の遠い祖先へさかのぼる旅であり、時代の転回をうながした黒船の海を見る旅であり、そして、篤胤(あつたね)没後の門人として、平田派に正式の入門を果たす宿願の旅でもあった。このとき、半蔵の前に新しい世界が確実にひらかれた。しかし、それは同時に新しい苦悩のはじまりでもあった。平田派の国学に心酔するひとりとして、時代の焦燥に身をもってたちあう政治運動への参加を夢想してみても、本陣・庄屋の責務がそれを許さない。激動にむかおうとする時代の足音が確実に聞きとれるだけに、半蔵の焦燥もまたふかく、はげしい。和宮降嫁の大行列、参勤交代の廃止、助郷制度の廃止など、ようやく揺らぎはじめた幕府の衰運を象徴するような事態がつぎつぎに起り、平和だった宿場でも、草山口論をはじめ農民感情の荒廃がめだちはじめた。半蔵は思想や信条を隠し、内心の不満をおさえて、ことの処理に追われねばならない。
 街道を通りすぎてゆく血気の青年に、平田派の先輩、暮田正香(角田忠行がモデル)がいる。かれは木像烏首事件の顛末を語って去ってゆく。半蔵は〈「物学びするともがら」の実行を思う心は、そこまで突き詰めて行ったか〉との思いを消せない(第六章)。宮川寛斎(馬島靖庵がモデル)に国学を学んだ同門の友人、蜂谷香蔵(市岡正蔵がモデル)もともに家を捨てて京都に出てゆく。〈どうも心が騒いで仕方がない〉という半蔵の独白は重い。


  《どうだ青山君。今の時は、一人でも多く勤王の味方を求めている。君も家を離れて来る気はないか》(第八章)


 行動をさそう友人の無言の声を、半蔵は確かに聞きとっていた。しかし、妻籠(つまご)の青山寿平次(島崎重信(しげよし)がモデル)は、その半蔵に〈君は信じ過ぎるような気がするー師匠でも、友人でも〉と語りかける(同)。かれはまた、〈庄屋としては民意を代表するし、本陣問屋としては諸街道の交通事業に参加すると想って見たまえ。兎に角、働き甲斐はありますぜ〉ともいう(第三章)。暮田らのように、思想に殉じて革命運動にはしる青年たちと、寿平次のように、思想のうながしから無縁のままえに、みずからの責務をうたがわぬ青年とを対照させながら、そのいずれでもありえない半蔵の苦悩が描かれるのである。半蔵の苦悩を映すもうひとつの鏡として、萬福寺の住職松雲(桃林和尚がモデル)の存在も印象的である。尾張藩士の通行にわきたつ宿場の喧噪をよそに、しんかんとした方丈(ほうじょう)で、〈松雲は唯一人黙然として、古い壁にかかる達磨の画像の前に坐りつづけた〉(第二章)。時勢を超越した思想家の姿があざやかである。
 半蔵はやがて、懊悩の果てに、庄屋には庄屋の道があると思いさだめる。伊那谷にひそむ国学者の運動を援助するなど、〈草叢の中〉での歴史への参加を選ぶわけだが、その半蔵が明治維新による理想の実現を信じて狂喜するまで、主人公の状況事体が一種の運命悲劇としての緊張をもたらしている。

 『大黒屋日記』は明治三年の記述をもって終る。あたかも第二部第六章で、明治二年の吉左衛門の死が描かれたあと、第七章は明治六年四月の半蔵を描くことからはじまる。明治六年は維新史のひとつの節目となった年である。この年の九月、岩倉具視を全権大使とする一行が欧米視察を終えて帰国している。先進文明に驚倒した岩倉らを中心に、徹底した文明開化政策が推進され、半蔵はまだ知らないが、明治日本はもはや引返すことのない近代化の道を歩みつづけることになる。いずれにしても第七章以後、とくに後半は半蔵が馬籠を出て自由な生きかたを選ぶためもあって、〈草叢の中から〉歴史を見るという視点は曖昧化してくる。
 王政復古の実現を信じた半蔵はまず農民たちの以外に冷淡な反応に失望し、街道制度の改革に耐えて、〈御一新〉に協力しようとするが、官有林の解放を求めた請願をくわだてて、戸長解任という報復的な処遇を受け、新政府からも裏切られる。失意をかさねつづける半蔵はやがて、かれが時代そのものから裏切られたことを知る。〈古代が来るかと思ったのに近代が来てしまった〉という、半蔵の幻滅と焦燥の思いは痛切だが、王政復古から文明開化へと転換してゆく時代状況との相関で、教部省への出仕や飛騨の宮司体験などをかさねて時代に絶望してゆく半蔵を描く手法は、第一部ほど成功しているとはいいがたい。というより、半蔵自身が時代から孤立し、皇国歴採用の建議や献扇事件のような、孤独で不毛な抗議行動しかとりえない。かれはドン・キホーテのように、ひとりで巨大な風車にたちむかうのである。
 理想にあざむかれ、時代に裏切られた半蔵はついに家人たちをも敵として狂死するのだが、その間、作者はかならずしも明確には描いていないあが、青山家の没落は宿駅制度を崩壊させた開明政策の結果でもあったはずで、父子別居の誓約書を強いられる(第十四章)半蔵の悲劇の根はふかい。
 藤村は半蔵の幻滅と挫折の悲劇を個性のドラマとして描いた。半生を克明に追うことに終始して、かれを狂気にかりたてる近代の本質をするどく抉り出す、というところまでは踏みこんでいない。そのかわりに、暗い怨念を抱いた男の性格悲劇を、苛酷な命運に対する無限の感慨をこめて描いた。萬福寺に放火し、座敷牢に押しこめられて狂死する半蔵の後半生自体が、文明開化にはじまる日本近代への痛烈な批評であり、その悲劇の背後には、日本人にとっての近代とはなんであったかという、現代のわれわれもまた避けて通ることのできない痛切な問いが隠されている。
 第二部の最終章、半蔵を葬る場面は圧巻である。歴史の時間を追う巨視の眼と、半蔵の生にはりつく微視の眼との往復が、もっともみごとに成功した場面である。
 《……掘り起こされる土はそのあたりに山と積まれる。強い匂いを放つ土中めがけて佐吉等(ら)が鍬を打ち込む度に、その鍬の響が重く勝重のはらわたにこたえた。一つの音の後には、また他の音が続いた。》
 時代をおおう〈不幸な薄暗さ〉は半蔵の生の薄暗さを彷彿し、鉄道に象徴される〈世紀の洪水〉をうけとめるのは、〈わたしはおてんとうさまも見ずに死ぬ〉という悲痛な独白である。『夜明け前』の最終章まで書きついで、藤村はまだ〈まことの維新の成就する日〉についてなんの答えもだしていない。しかし、『夜明け前』の首尾を貫流した歴史の時間がすべてここで、半蔵の墓穴を掘る〈鍬の響〉に収斂(しゅうれん)したとき、小説の構造として、ひとりの男の死が維新の転変を織りなした歴史の総体とよく拮抗し、均衡をたもつというみごとな幕切れをむかえた。だからこそ、最終章にただよう哀切な思いがそのまま、近代の奔流に呑まれた日本人の鎮魂歌と化しえたのである。藤村にとって、若くして逝った親友北村透谷(とうこく)へのレクイエムだったかもしれない。
 透谷は雑誌「文学界」の中心人物として、初期浪漫主義文学運動を主導し、藤村を文学へ誘った白面の批評家である。精神の自由を求め、現実にいどみつづけて挫折し、明治二十七年に、二十六歳で自殺した。死の一年前に書かれた随想「一夕観」に、つぎの一節がある。
 
 《ある宵われ窓にあたりて横はる。ところは海の郷、秋高く天朗らかにして、よろづの象、よろづの物、凛乎(りんこ)として我に迫る。あたかも我が真率ならざるを笑うに似たり。あたかも我が局促(きょくそく)たるを嘲るに似たり。あたかも我が力なく能なく弁なく気なきを罵るに似たり。かれは斯くの如く我に徹透す、而して我は地上の一微物、かれに悟達することの甚はだ難きは如何ぞや。(其一)
  ……漠々たる大空は思想の広(ひ)ろき歴史の紙に似たり。かしこにホーマーあり、シェークスピアあり、彗星の天系を乱して行くはバイロン、ボルテーアの徒、流星の飛ぶかつ消ゆるは泛々(はんはん)たる文壇の小星、ああ、悠々たる天地、限りなくきわまりなき天地、大なる歴史の一枚、是(これ)に対して暫く茫然たり。(其三)》
 第二部の十四章ー狂気の気配のようやく濃い頃、隠居所の二階から夜空を眺める半蔵も、満天の星を指さしながら〈あそこに梅田雲浜があり、橋本左内があり、頼鴨崖があり……〉と、明治維新にかかわって散った人々の名前を数えたてる。
 《月も上った。虫の声は暗い谷に満ちていた。かく万(よろず)の物がしみとおるような力で彼の内部(なか)までも入って来るのに、彼は五十余年の生涯をかけても、何一つ本当に掴むことも出来ないそのおのれの愚かさ拙なさを思って、明るい月の前にしばらくしょんぼりと立ち尽した。》
 これは「一夕観」のひきうつしに近い。半蔵の終焉を描く藤村は父のなかに、夭折した北村透谷の面影を想起している。藤村は透谷の光芒のようにかけぬける生きかたをついに学ばなかった。藤村がたえず振りかえりながら、そのかたわらをすりぬけた生きかた、狂気をみずからにひきうける鮮烈な情熱が青山半蔵に託して描かれたという意味でも、『夜明け前』はまさしく、藤村文学の最後の到達と呼ぶにふさわしい作品であった。』