ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

西欧文学と島崎藤村2

東京堂から1961年に出版された「明治大正文学研究 特集 島崎藤村研究」から伊狩章氏による「藤村の比較文学的考察」は海外文学や田山花袋らとの比較の観点から島崎藤村を捉えた内容です。以下、『』内の文章は左記の論文からの引用となります。また、掲載にあたって、全て現代語訳しております。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

 


3.モーパッサンからロシア文学


 以上により「旧主人」以下の四篇がモーパッサンの感化の下に書かれたものであることは立証された。
 ここで結論づけるならば、その感化は(1)主として題材的リアリズムとでもいうべきものであった。本能的な性欲や、男女関係を主題にするというだけのもので、モーパッサンの真のリアリズムとはおおよそ無関係のものだった。
 (2)藤村は様式の上にもモーパッサンの感化を受けた。「緑葉集」「藤村集」に収載された初期短篇にはモーパッサンの様式を感じさせるものがかなりあるし、(例えば「朝飯」「伯爵夫人」「苦しき人々」「土産」など)後述する様に後期のものにもモーパッサンの感化が見られる。
 しかし結果的にはこの四篇は余り上出来ではなかった、藤村自らこの失敗に気付いたのか、次作「水彩画家」には早くもモーパッサン的なものからの脱出の気配が見える。
 その理由として種々考えられる。文壇の風潮や花袋示唆によってモーパッサン的な試作をしたが余り香ばしくなかったこと、そうした借り物の主題や素材では自己の思想を充分に生かすことが出来ず、作家的成長と共に深刻な効果をあげるには矢張自己の私生活を題材にしなければならぬと考えたこと、文壇にロシア文学の流行があったこと(後註参照)結局モーパッサン的なものが藤村の資質に合わなかったこと等がその理由の主なるものであろう。「水彩画家」には早くもどこかロシア文学的なものー「破戒」に近いものーが認められるのである。
 主題になっているのは矢張妻の不貞という問題であるが、その描写は深刻になり、前四作が単なる題材的リアリズムに過ぎなかったに対し「水彩画家」は、藤村自身の私生活の問題を取入れた事と相まって深味のある内面的リアリズムへの努力がうかがわれる。
 斯く「水彩画家」にいたった藤村は、モーパッサンの亜流を脱し、ロシア文学的方向に転換したと言えよう。
 従って、この転換の成果が「罪と罰」の示唆による「破戒」に結実したと考えることも、あながち牽強(けんきょう)ではないのである。
 同じモーパッサンによってそのリアリズムを海岸した花袋が、「自己暴露」とか「皮はぎの苦痛」という様な主情的方向につき進んで「蒲団」を書き、モーパッサンの小説技術(主に短篇様式)を取り入れた永井荷風が「あめりか物語」から「新橋夜話」に達した夫々の場合と比較して、藤村のそれは独自の道をたどったものと言える。藤村にとってモーパッサンは詩から散文に移る一つの踏台だった。
 
 浪漫的世界から現実界にいたる足がかりだったのである。
 一度び散文界にたどりついた藤村にとってモーパッサンは資質的にも肌のあわない文学だった。モーパッサンの透徹した観察や、一言一句もゆるがせにしない表現、簡潔な文体等は大いに認め、学んだが(それも大分後年になったからだが)その露骨なエロティシズム、風刺、諧謔などは陰性な藤村にはぴったり来ないものだった。
 「モーパッサンの短篇集の中にはツマラないように見える作も随分ある。中には馬鹿馬鹿しいのがある。其実、これらは仏蘭西人にのみ解せらるる『ユーモア』であって、われら外国人には意味のないものに見えるのかも知れない……」(新片町より、印象主義と作物)という言葉によってその事が察せられる。
 藤村にとってロシア文学的なもの、トルストイツルゲーネフドストエフスキーなどの作風がその資質に合っていた。だから、「罪と罰」が「破戒」に、「処女他」が「春」に影響しているという考察もここから成立つ訳である。かくして藤村はモーパッサンからロシア文学に転換することによってその文学を確立したと考えられる』


牽強(けんきょう)・・・こじつけ。道理に合わないものを無理に合わせようとすること。

 

4.「うたたね」の問題


 さて「旧主人」以下の作がモーパッサンの感化によるということは、藤村文学全体に対してどの様な意味をもっているだろう。
 その事に連関してその処女作「うたたね」を考えてみる。これは藤村の実兄をモデルにしたと伝えられている。作中、銃殺される小一が実兄でその作中の扱い方が苛酷なところから島崎家に何か秘密があったかのごとき見方も行われている。
 果してその様な事実の存否はともかく、この源泉はゴーゴリの「タラス・ブーリバ」ではなかろうか。
 ー隊長ブーリバが、恋のため味方を裏切った息子を自ら銃殺する。殺したあと感慨にふける。最後にブーリバも又惨めに死んでゆく。ー
 之と「うたたね」の、姉川中佐が息子小一を銃殺にする箇所以下悲惨な結末までの暗号、又、前年の小一の恋愛の箇所や成人して帰宅する場面の描写など、そのまま「タラス・ブーリバ」に見られる処である。
 「タラス・ブーリバ」は「うたたね」の前一八九五年八月徳富蘆花により「労武者」(「国民新聞」連載、翌年「国民小説」に再掲)として翻訳されている。藤村は之によったのではなかろうか。
 また、島田謹二教授の研究に、
 「『千曲川旅情の歌』の中にはゴーゴリの『タラス・ブーリバ』と同じ表現を借りている箇所がある。彼の友人上田敏ゴーゴリの作品を訳しているが、藤村はその訳文を愛読して……(中略)……その影響が及んだものと考えられる。」(「学苑」一九五○・二「現代文学と西欧文学」)
 とあるごとく或いは上田敏に教えてもらったか。それとも全く偶然の暗合か、断する訳にはゆかぬ。
 仮にこの考察が許されるとするならば、最近よく問題にされる藤村のコンプレックスを解決する鍵として引き合いに出される「うたたね」や「旧主人」以下の習作の意味も又再考されねばならない。これらの諸作はむしろ藤村初期の西欧文学の感化による習作という程度に軽く取扱うべきで、そこに重々しい意味をつけて解釈するのはいかがなものであろうか。藤村文学全体を通して、西欧文学の影響が以外に広汎なことと連関してことに問題として提出しておく。


 5.附言、その他の比較考察


 藤村におけるモーパッサン以上の初期短篇における題材や様式上の感化で終わったのではなく、以後彼の文学と生活のための重要な思想的根拠となっていることも考察に値する。
 例えば「春」発表の翌年一九○九年四月、「モーパッサン全集」のブールジェの序文に感歎し
 
 ースタイルの模すべからざるは肉体の模すべからざるが如くである。モーパッサンの文章が有するあらゆる自由と精緻と大胆とは、彼の心が示すリズムであって、やがてまた彼の肉体全部の姿であろうー(文章世界「新片町より」)
 
 と早くもリアリズムの第一段階であるスタイルの意識を確立し、続いて同年八月発表した「モーパッサンの小説論」(二六新聞、八月十九日より五回に分載)における、彼のモーパッサンの作品とリアリズムに対する意見は、その理解とモーパッサンへの深い傾倒を立証している。
 以下彼の多くの感想の中に引用されている外国作家の中で、モーパッサンに関するものが最も多いこと、更に後年発表した「トルストイの『モーパッサン論』を読む」の五十枚に及ぶエッセイは、いかに其の書及びモーパッサンが藤村愛読の書であったかを自ら語っていることなど、いずれもこの立論を裏づけている。「新生」執筆の動機にルソーのそれと共に「精神の統一を欲して、それが得られぬ人の苦しい叫び」である「水の上」の感化を認めると言っても強弁には過ぎまい。
 こう見てくると、自己の文学の中にモーパッサンを摂取同化した作家は、花袋、荷風、に続いて藤村であったと結論し得よう。
 藤村と西欧文学との関係について尚二三付加えると、初期「文学界」時代の考察は既に矢野峰人教授の著作「文学界と西洋文学」に考証された通り、その詩文には主としてシェイクスピアを中心とする英文学の影響が明らかに見られる。又、「若菜集」以後の抒情詩についても、島田謹二吉田精一両教授の諸論文に考察されたごとく、シェレー、キーツ、の感化が立証される。その他昇曙夢氏の考察にかかるツルゲーネフの影響、瀬沼茂樹氏の指摘された「新生」第二部の手法とジッドの「贋金づくり」のそれとの暗号なども一応考察に値しよう。
 最近、東大比較研究会の新聞報などにも藤村の比較研究が見られその他詳細に検討するならば他の自然派作家と同様に藤村においても西欧文学の影響は意外に広汎に及んでいるであろう事が想像される。ここでは紙数も今後を期したい。
 【註】尚、藤村がロシア文学的方向に転換した理由として、当時の文壇に次の様な現象があったことも一応考えてよかろう。
 「……一時若手の書生間に重宝がられて風船玉のごとき訳文、その所この所に、ころがりたりしモーパッサンもこの頃は漸く厭きが出たと見えて、セーンキーチとなり、更にゴルキーとなり、瘋癲描写ゴルキーの作は餓えたる人のパンのごとくに歓迎せられぬ。賀すべきは刻下文壇の風潮なる哉……」(一九○二・八「帝国文学」批評欄)
 (「小説の実際派を論ず」については天理大学、大西忠雄教授に御示教頂いた。教授にはこの他モーパッサンの比較研究上多くの御示教を頂いた、厚く御礼申し上げる。
  又、「花袋とモーパッサン」「荷風モーパッサン」に就いて筆者は既に発表したものもあり、紙数の関係もあって全て省略した。)』