ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

島崎藤村と西欧詩2

東京堂から1961年に出版された「明治大正文学研究 特集 島崎藤村研究」から石丸久氏による「若菜集」から「落梅集」へー島崎藤村の詩に内在するものの一面ーは海外文学がどのように島崎藤村の詩に影響を与えたのかを解説した内容です。以下、『』内の文章は左記の論文からの引用となります。また、掲載にあたって、全て現代語訳しておりますが、恐らく皆様察せられているかと思いますが、2から掲載されている誤植をそのまま現代語訳して載せております。3にも、これは誤植だと思われる箇所がございますが、そのままを訳して載せております。ご了承下さい。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

 


『   *
 右に引いた「虚実空撃」の一文は、その言わんとする趣旨は、文芸に心をよせる青年子女にはむしろ共通した一般の心意気を、極めて常識的な観点から批判した「道を説く君」的言い廻しにすぎない。信州の詩人藤村島崎春樹に、かなりはやくからこの常識性の一端が潜在していた事実は、その意義必ずしも軽からぬものがあろう。極点におしつめて考えれば、透谷と藤村のちがいはおおむねkのあたりにかかわっていると言って誤りない。そのはじめ一種の哀観、一種の感傷においては彼此相へだたること多くなかった。つまり、透谷における藤村的なるものではなく、藤村における透谷的なるものにおいて両者は共に通ずるあるものを内包していたのである。生の否定から生の肯定に力強くこれを棄揚して行ったところに、吾々は藤村の一種異様なたくましさを感じとらないわけにはいかない。
  小説「桜の実の熟する時」ー八ーに藤村はテーヌの「英文学史」にふれて「捨吉(稿者註、藤村)は日頃心を引かれる英吉利の詩人等がテインのような名高い佛蘭西人によって批評され、解剖され、叙述されることに殊の外興味を覚えた。……一度読み出すと、なかなか途中では止められなかった。英訳ではnあるが、バイロンの章の終のところで、捨吉は会心の文字に遭遇(であ)った。『彼は詩を捨てた。詩もまた彼を捨てた。彼は伊太利の方へ出かけて行った。そして死んだ。』と繰返して見た」と述べている。この一句を原典に徴するに、いづくんぞ知らん、……,When he forsook poetry, poetry fors-ook him, he went to Greeece in search of action, and only fou-nd death.とあって、決して he went to Italy とは記していない。はやく明治二六年一月透谷が「文学界」創刊号に載せた抒情の好文字「富嶽の詩神を思う」に「愛すべきものは夫れ故郷なるか。……故郷はこれ邦家なり、多情多思の人の最も邦家を愛するは何人か之を疑はむ。孤剣提げ来りて伊太利の義軍に投じ一命を悪疫に委したるバイロン我れ之を愛す」とある。藤村が誤謬は年歯兄たる四才の透谷に倣ったか、はたまたシェレーが行状との混同によるか、あるいはかの「於母影」の「ミニヨンの歌」などに心ひかれて潜み存したイタリアへの憧憬に発したるか、いまにわかに断ずることはできないが、ともあれここにもまた透谷、藤村のちがいの一端をうかがうことはできよう。言葉の芸術をこえて生きることそのものが、藤村にはーその詩集に序して「芸術はわが願いなり。されどわれは芸術を軽く見たりき。むしろわれは芸術を第二の人生と見たりき。また第二の自然とも見たりき」と言う藤村にとってはーこの上もなく大切なことであったのだ。「韻文に就て」(明治二八年一二月「太陽」)に「是を以て見るに僅に七五、五七等の数のみにたより、高低長短の時と調とに乏しき言語を用る、清濁正変の塩梅を思うがままに活用するの器なくして、大なる調べを奏し、十全円満なる声調の変化と音韻の妙とを見んとするは頗(すこぶ)る難事といわざるべからず」と述べ「雅言と詩歌」(「落梅集」所収)に国語の詩歌に不利なる点六ヶ條あげて「第一、母音の性質円満ならず。第二、発音の高低抑揚明かならず。第三、言語の連接単調なり。第四、語義精密ならず。第五、語彙豊かならず。第六、音域広潤ならず」という藤村には、詩歌に対する創作の可能性への懐疑と限界の認識とがすでにあったと考えられるが、そうしたことが後にも言い及ぶ自らの年令的成長と相まって彼をあのような散文の世界に導いたといえよう。
 ともあれ、自身の投影である「春」の主人公岸本捨吉に「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」と嘆息せしめ、「馬上人世を憶う」(「文学界」第二号)に「いたずらに人生を果敢なみて浮世の外に無常の敵を避けんとするは、これ天地のうろたえものなり」と言い切る藤村、また「同じシェイクスピアの戯曲でも老成な『テンペスト』は閉じて、もう一度若葉の香をかぐような『ロミオとジュリエット』を開いて見る気にな」り、「青年は老人の書を閉じて先ず青年の書を読むべきである」と悟る藤村ーそこに悲惨な冬を克服して温和な春を迎えんとする詩人の姿が見出される。「うぐいす」(「夏草」所収)の第七聯に、


 げに春の日ののどけさは
 暗くて過ぎし冬の日を
 思い忍べる時にこそ
 いや楽しくもあるべけれ


 と歌った一節には、修辞をこえた体験のうらづけが偲ばれる。透谷は、そしてその死は、思えば藤村が自己型成の途上における被オッツの踏台であった。藤村自身後日述懐して「殊にわたしのはじめたものは詩であったし、足許はまだ暗かったし、これから先、自分の内から生れて来るものを護り育てて行くには、かなりの勇気と忍耐とを要した。このわたしを励ますものは、いささかな活動によって身をも心をも救うことの出来た仙台時代の経験と、来るべき時代のために踏台となることを覚悟して行ったような北村透谷の死とであった」と語っている。「北村君のように進んで行った人の生涯は、実に妙なもので、掘っても掘っても尽きずに、後から後から色々なものが出て来るように思われる」という彼の言葉も、そうしたところから考えられなくてはなるまい。藤村に「鷲の歌」という詩があって、「一葉舟」に収められているが、これは老若二羽の鷲の姿を対照せしめつつ象徴的にジェネレーションの隆替を歌ったものである。


 霜ふりかかる老鷲の一羽をくわえ挑むれば
 夏の光にてらされて岩根にひびく高潮の
 砕けて深き海原の岩角に立つ若鷲は
 日影にうつる雲さして行くへもしれず飛ぶやかなたへ


 となっている。この老鷲に透谷を、若鷲に藤村自身を、この場合、認めることはあながち不当ではなかろう。とにかく、藤村が透谷を超えて、生くべきことを信念としえたとき、そのとき、公私さまざまの煩懐を棄揚して、「漸くわたしは一切から離れることの出来る古い仙台の都会に身を置き得たような心地がした。……まだ年若なわたしの胸によく浮かんで来たものは、『詩歌は静かなるところにて想い起したる感動なり』の言葉であった。黙しがちなわたしの唇はほどけて来た。そして、これらの詩が私の胸から迸るように流れて来た」と述懐する彼の夜明けが、そして我国の近代詩の暁紅がやって来た。「藤村詩集」に自ら序した散文詩の壁頭に「ついに、新しき詩歌の時は来りぬ。そはうつくしき曙のごとくなりき」とことあげしたその時に、これはほかならぬのである。

  *
 かくて、明治二九年、よわい二四にして東北の古都に青春を自覚せる詩人の黙しがちな唇はほどけはじめて、あるいは美を、あるいは恋を、あるいは力を、あるいは愛を、時には当を失するほどにととのったスタイルに歌いあげた。その間に見えかくてする讃美歌調や近世文芸の趣味や星菫派情趣や唯美的な傾向は次第にかげをひそめ、やがて「落梅集」になるとテーマそのものがすでにして生きるいとなみに向けられてきている。「労働雑詠」は最もあきらかなるその一例にすぎない。この詩集に「雲」と題する散文がおよそ三○頁にわたって収められ、時をおって変容する雲の姿を細叙し、附するに二葉の表を以てしていることは周く人の知るところ。その中に「ラスキン古代の画家を嘲りて曰く、彼等が雲の思想は全く一様なりき。運筆の力と視力の正しきによりて、多少完全なるものを画きいでたるはあり、されど理解の力においてはおしなべて同じからざるはなし。……噫(あい)あれは一とせの月日を積みて、僅かにラスキンが嘲語の澁味を解するに至りしのみ」と述べている。このラスキンは“Modern Painters ”にThere are no source of the emotion of beauty more than those found in things visible,と言った人である。透谷がともすれば目をつぶって情的な瞑想にふけったに対して藤村はときに目をみひらいて知的に観察する一面をもっていた。「破戒」の作者の素質はすでにして、そしておそらくは当然に、「落梅集」の詩人に萌していたといえよう。
 「旧いものを毀そうとするのは無駄な骨折だ。ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、旧いものは既に毀れている」という藤村には、西欧文芸の影響を大きく受けつつ、なおおのずからなる教養のほかに、自らすすんで東洋の古典に求むるところが多かった。


 ああわれコレッヂの奇才なく
 バイロン、ハイネの熱なきも
 石をいだきて野にうたう
 芭蕉のさびをよろこばず


 と「人を恋うる歌」(明治三四年三月「鉄幹子」所収)に高吟する与謝野鉄幹との相違が、藤村の重厚真摯の風手において、ここに示される。「ああ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき」の語には、かりに、「げに、美妙なる色彩に眩惑せられて内部の生命の捉え難きを思う時、芸術の愛慕足らざるを思う時、古人がわが詩を作るは自己を鞭うつなりといえる言の葉の甚深なるを嘆ぜずんばあらず」という「夏草の後にしるす」の一節に徴するも、むしろ「おのれが心をせめて物の実(まこと)を知」れと訓える芭蕉に通じるものが感じられよう。あるいは唐詩を学びつつ万葉をひもとき、あるいはワーズワースに心ひたしながらも香川景樹をかえりみる藤村に、折からの古典文学復興の、一種の内面的なありさまがみとめられるのである。
 「詩歌は静かなるところにて想い起したる感動なり」の語は、さらに藤村の詩観のもう一つの面をも語りうる一句である。この原語として往々引かれるのが Poetry is an emotion remembered at tranquillity.であるが、その出典と普通にいわれているワーズワースが“Lurical Ballads”再版本(一八○○年)の序に徴して、その長文の中に想のもっともこれに近いところをさがしてとり出すと、すなわち、I have said that poetry is the spontaneous overflow of powerful feelings; it takes its origin from emotion recolle-cted in tranquillity.とある。明治三五年一月、蒲原有明が処女詩集「草わかば」を世に問うや、藤村からこの後輩に送った書簡に記された Poetry is emotion remembered at tranquillity. の語は、あるいは、藤村自身によるワーズワースからの言いかえであろうか。とにかくこのしずけさにおいて思いかえされる情緒というところに、この湖畔詩人の、そしてまた多少異った意味で、この信州詩人のもつ一面が彷彿としてくる。藤村において、それは感情の知的な整理をも意味していたのである。およそ叙上のような数々のーそして結局は一つの内在的特質をもったこの詩人が、やがて自然主義とよばれる散文芸術の世界にすすんで行ったことは、むしろ当然なことであった。
 先に引き用いるところのあったペイターの“The Renaissance”に附せられた Conclusion の自註によれば、再版本においてはこの結語は省かれたという。そしてその理由として彼曰くーas I con-ceived it might possibly mislead some of those young men into whose hands it might fallーと。藤村は、けだしここにいわゆる mislead されなかった人であろうか。(一九五四・七・一)』