ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

島崎藤村の「春」と「家」解説

 東京堂から1961年に出版された「明治大正文学研究 特集 島崎藤村研究」から藤井義明氏による“「春」と「家」”は島崎藤村が書いた「春」と「家」についての解説です。以下、『』内の文章は左記の論文からの引用となります。また、掲載にあたって、全て現代語訳しております。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

 


「春」と「家」
      藤井義明
 
 「春」は明治四十一年四月から東京朝日新聞に連載せられ、さらに多少の書きなおしが加えられて同年十月緑陰叢書第二篇として単行本になったものである。このとき藤村は三十七才、浅草新片町に居を移して三年目に当り、所謂小諸の山をおりてから四年目にあたる。
 「春」という作品は「破戒」に次ぐ第二の長篇小説であり、「破戒」が第一回の長篇小説として成功したために作られた作品ともいえようが、「破戒」と比較してみるとき、そこに大きな相違点があり、また「破戒」と比較してみることによって、この作品の創作手法や価値がほぼ分るように思われる。
 そこで、「破戒」と相違する点と共通する点とを挙げて、それを検討してみると、先ず「破戒」との相違点は大きくいって次の三点が考えられる。
 
 一、「破戒」は部落民という特殊階級を問題としたいわば社会悪暴露というべき一種の問題小説であるが、「春」にはそのような問題小説的なものは見られない。
 二、「破戒」は実在の人物や実際の話をそのまま描いた小説ではなく、作者の空想によって生まれた空想物語である(もとより部落民については作者藤村はよく眼のあたりみてしらべてはいたが)。しかし「春」は事実あったことを材料として書いた写実小説である。
 三、「破戒」は背景の設置や人物の登場のさせ方になかなかの用意が見られ、劇的な構成によって出来上っている小説であるが、「春」は背景にも人物にもさほどの劇的構成は見られず、平板に絵巻物のように描いた小説である。


 まだまだいろいろ異なる点はあろうが、主なるものとして以上の三点を挙げたい。「破戒」を脱稿したのは明治三十八年であり、緑蔭叢書第一篇として出版せられたのが翌三十九年である。そしてその又翌年の四十年には「春」の準備が着手せられたのである。わずかなこの時の違いによってどうして右のような作品の上野相違点が生まれたのであろうか。これは大変むずかしい問題であるが、私は藤村という人の性格と、その現実生活と、ありのままに人生を見るといった自然主義の態度とによるところが多いものと思う。第一の点については私はこう考える。藤村は孤独な詩人として出発した人であり、元来が大きな社会問題をとりあつかうにふさわしい人ではない。もとより社会問題には独自の意見はもっていて、後に書かれた随筆などにはなかなか参考とすべきことが述べられてはいるが、社会問題を小説にとりあつかって自分の芸術にすることは出来なかった人である。それゆえに「破戒」に示されたような特殊階級についての社会問題などは後の作品にはあらわれてはこなかった。「破戒」がよく自然主義の作品であるといわれるが、これはありのままに人生を見つめるといったような自然主義ではなく、社会悪を暴露してこの世の中を改良にみちびこうといった意味の自然主義と思われるが、藤村はこういった意味の自然主義作家にはなり切れなかったものと思われる。
 第二の相違点の空想物語とそうでない物語ということについては、これも一概にその相違の原因をこれと断定することは出来ないが、その主なる原因として、藤村の執拗にものを見、考える性格と、その体験した現実生活のきびしさと当時起っていたありのままにものを見つめるという自然主義の影響とが考えられる。若い頃にはかなり藤村も空想豊かな人であったと思われるが、一面ものを普通の人以上に深く見るところがあったと考えられる。その体験した現実生活のきびしさというのは、結婚生活の為にやぶれ、長女次女三女を相次いで失い、生活も楽でなかったというようなことであって、それがために藤村の眼は空想の世界を夢見る暇も少なくなって現実へ現実へと向けられていったものと思われる。そこへもってきて事実凝視といった自然主義の影響というものがあって、「破戒」に見られる空想性はなくなっていったものと見られるのである。
 第三の相違点である劇的構成ということは、第二の相違点におのずから関連のあることで、空想の世界は作者の力倆によっていくらでも劇的にそれを描いてゆくことが出来るが、現実の世界は作者が劇的意図をもっていても事実というものの制約を受けるのであるからこれを読者の胸をとどろかせるような劇的小説には表現出来なくなってゆくのでかような相違点が生じてきたのであろう。
 以上述べた「破戒」と「春」の相違点はきわめて重要なものと思われる。何故ならば「春」以後の小説はいずれも「破戒」の創作手法を用いずに「春」の創作手法を用いているからである。即ち春の創作手法によって藤村文学の方向がきめられたと見られるからである。正宗白鳥氏は「文壇人物評論」の中で次のように述べている。
 「破戒」は着想にも文章にも以前の文学に見られない清新なところがあって、相当に面白い小説であるに関わらず、まだ作者が自分の芸術についての方針の定まらない時分のものとなすべきであった。新時代の文学者としての藤村の事業は「春」からはじまると言っていいのである。態度があそこで極った。
 たしかにこの通りであって、藤村は「春」以後「家」「桜の実の熟する時」「新生」「ある女の生涯」「嵐」「分配」そして「夜明け前」と「春」の手法によって創作活動を展開して行った。

 次に「破戒」と「春」との共通点であるが、これもまた重要なものであると思われる。「春」は「破戒」と相違する点があるといっても、藤村は「春」によってにわかに百八十度の回転をしたわけではない。「春」はまた「破戒」と多分に共通点があり、それが後の作品にも引きつがれていったのである。
 私はここで主な共通点として次の二点を挙げてみたいと思う。


 一、作中の主要人物が世の中の抑厭のために堪え難い苦悩を抱きつづけ、その苦悩が小説全体を覆っている。
 二、小説の最後の場面において、主要人物が度に出かけるところを描き、旅ということによって新しい生活を切り開こうとしている。


 第一に挙げた堪え難い苦悩とは、「破戒」においては、瀬川丑松という小学校教師が部落民出身であるがゆえに世間から冷たい眼で見られ、愛する女性に自分の気持も打ち明けられず苦しみつづけるというものであり、「春」においては岸本捨吉(藤村自身)とその友人たちが或いは恋に或いは思想に悩みつづけるというものである。こういった二作に共通する苦悩とは、言いかえれば理想の人生を求めようとする苦悩である。丑松は階級差別のない明るい人生を求めたであろうし、岸本捨吉その他の人々は真実の恋愛が成し遂げられる人生を、そしてもっと自由な人生を求めたであろう。殊に「春」は見ようによっては「破戒」よりももっと苦悩に覆われた小説である。「春」という題名の示すがごとくこの小説には明るい人生の春は描かれてはいない。人生の春を求める者がそれを得られずにもの憂い悲しい気持にとらえられるさまが描かれているのである。
 理想の人生を求めて得られない苦しみは詩人時代の藤村より引きつづいているもので、例えば「若菜集」に詠まれたいくつかの詩、「哀歌」「天馬」「草枕」などの作を見てもそれがあり、「一葉舟」のなかの「春やいずこに」「鷲の歌」などを見てもそれがある。藤村という作家は求め得られないと分っていても理想の人生を、求めようとし、苦しみにじっと堪えてゆくのである。すなわち諦めがない。無理想無解決という気持がない。「飯倉だより」の中に


 初恋を思うべし
 
 という短い一節があるが、藤村の心はいつも人生の春を夢みているのである。そしてそれゆえの苦悩に堪えているのである。
 こういった藤村の心は浪漫主義と呼ばれ、これあるがためにこの作家は徹底した写実主義作家乃至は自然主義作家ではないといわれる。
 第二の共通点もまたなかなか重要なものと考えられる。「破戒」においては丑松が自己の身分を明かして村を去り、新しい世界を求めてアメリカに旅に出るところで終り、「春」においては岸本捨吉が恋愛に破れ、一家の経済的困難をも背負い切れず、東京を去って東北の地仙台に『ああ、自分のようなものでもどうかして生きたい。』と述懐しつつ旅する事によって新しい生活を求めようとするところで終っている。この「旅」によって新しい世界を切り開こうとする気持は事実藤村の一生を通じて見られることである。長野県神坂村の郷里を去って東京に出る旅からはじまって「春」に描かれている関西地方への旅、相模への死の旅、そして壮年期に至っては「新生」に描かれているフランスへの転身の旅など数えれば誠に多い。そして又、藤村は作品の至るところで「旅」ということを言っている。自分を一人の旅人であると見、人生そのものをさえ一つの旅と見ているのであろう。この「旅」という事にも一種の浪漫性を感ずるが、その源は芭蕉西行というような古い時代の人にあると思われる。殊に芭蕉による影響は多いようである。
 
 近頃私は少年期から青年へ移る頃にかけて受けた感情が深い影響を人の一生に及ぼすということに、よく思い当る。丁度そうした心の柔い、感じ易い年頃に、私は芭蕉の書いたものを愛読した。
 その時に受けた感化が今だに私に続いて居る。
 これは「飯倉だより」の一節だが、これを見れば藤村が芭蕉に心酔したことがよく分るような気がする。更に「春を待ちつつ」には
 芭蕉の生涯は旅人の生涯であったばかりでなく、漂泊者の生涯であった。(中略)芭蕉の感情の優しさが私達の心を捉える。その感情のやさしさは処女の持つもののそれに比べたいとさえおもわるるほどである。
 藤村には自らをも芭蕉のごとき旅人であり漂泊者であるとの思いがあり、その思いは最後までつづいたのであろう。
 以上「破戒」と「春」との相違点と共通点とを挙げて、「春」が藤村文学の重要なポイントとなっていることを示し「春」の小説としての価値にもいささか触れたつもりである。

 「家」は明治四十三年一月から五月まで読売新聞にその前篇が連載され、同四十四年一月と四月に「中央公論」に「犠牲」と題してその後篇が掲載せられ更に緑陰叢書第三篇として出版されたものである。この時の藤村は「春」を書いたところと同じ新片町に住んでいて、作家としていよいよその地歩を固めて行った頃である。
 前述のごとく「春」によってその文学の方向を定めた藤村は、その方向を「家」にのばしたのである。「春」によってさだめた実人生をありのままにじっと見つめてゆこうとする眼はいよいよその深さを増し、理想の人生を求めんとする苦悩の心はいよいよその度合を強めて行った。
 それならば、このような眼と心とは「家」においてどこに向けられたかといえば、それは「春」とは大分違ったものに向けられたといわねばならない。「春」は明治二十六年(藤村二十二歳)から明治二十八年までに藤村自身及びその友人の北村透谷、平田禿木戸川秋骨馬場孤蝶等によって行われた事実を扱ったものであり、「家」は明治三十二年(藤村二十八歳)から明治三十八年までに藤村の家族、その姉の嫁ぎ先の家族等によって行われた事実を扱ったものである。
 藤村の見つめる実人生は自分と関係のないものの人生ではなかった。「春」に描かれたものは藤村の青年時代の生活であり、「家」に描かれたものは藤村がようやく壮年期にならんとする頃の生活を中心としたものである。藤村はよく自伝小説作家といわれるが、たしかに自分の体験した人生をじっとよく凝視しつつそれを小説に書きあらわして行った作家である。
 ある著作が人生の好い記録であればその事が既に尊い。それが創作と言われるほどの域に達したものならば、更に尊い。(春を待ちつつ)
 この藤村の言葉は大いに参考とすべき言葉である。藤村は人生記録というものをきわめて尊いものと考え、自分の人生がたえどのように失敗の人生に思えてもまた艱難の人生に思えても、それをじっと見つめ記録していくことがこの上ない価値のあるものであると信じていたに違いない。
 自分の実人生を見つめる眼と心は、殊に深く印象に残っている事実に強く向けられて行った。「春」に扱われた事実は、過ぎし年自分が恋に苦しんだ揚句家出し、漂泊し、死を選ばんとし、兄の入獄を経験し、家の破産、母の死に出会った事実であり、また北村透谷等の友人の青春の悶えを眼のあたり見たという事実である。これらの事実はまったく忘れようとしても忘れることの出来なかったものであろう。そしてこの事実は程よく整理せられ、小説として具象化されたのである。「家」に扱われた事実もまたそうである。十年ほど前、自分が結婚したが妻に恋人があったため懊悩し、自分にもまた女性が出来、そうしているうちに三人の子供が生まれ、またその子供が相次いで死し、自分はまた教師の職を去って作家生活にはいって困窮した頃の事実であり、また姉の嫁家において姉が次第に脳をおかされ、その子供が更に病気のために不幸になっていくさまを眼のあたりに見たという事実である。
 「家」に扱われた事実は「春」よりは更に複雑である。藤村はこれを巧みに整えて作品に表現して行ったのである。「春」は時の流れに従って描かれた一幅の絵巻物のように思われるが、「家」に扱われた事実はそうい行った調子には表現されていない。
 家を書いた時に、私は文章で建築でもするようにあの長い小説を作ることを心がけた。それには屋外で起った事を一切ぬきにしてすべてを屋内にのみ限ろうとした。台所から書き玄関から書き、庭から書きして見た。川の音の聞える部屋まで行って、はじめてその川のことを書いて見た。そんな風にして「家」をうち建てようとした。なにしろ上下二巻にわたって二十年からの長い「家」の歴史をそういう筆法で押し通すということは容易ではなかった。
 (市井にありて)

 後になって藤村はこう語っているのが、たしかに「家」は文章で建築するように書かれている。そしてその人物の扱いにも「春」以上のに多くの苦心が見られる。
 自分の家は小泉家として描かれた。そして姉の嫁家は橋本家として描かれ、更に妻の実家は名倉家として描かれた。この三つの家の配置と構成はなかなか手際よく出来ている。たとえば小泉三吉(藤村自身)の家の場面から急に橋本の姉の保養先伊豆の伊東の場面に移るとき、場面が家というものから離れてしまうのではないかと気をもませるが、ちゃんとまた橋本の姉は小泉の家に戻ってきて再び小泉の家の場面となる。
 「春」において定まった藤村の眼と心は「家」の扱った題材にただ相対しているだけではなかった。眼はどこまでも深く人物の性格や血統や家の因襲や組織などを見きわめようとし、心は理想の人生を求めつつ人物が家というもののために苛まされるさまを知ろうとしている。
 「三吉、貴様は……何か俺の遣方(やりかた)が悪くて、それで、家が斯うなったと言うのか……何か……」
 お種は尖った神経に触られたような様子して、むっくと実を起した。電燈の光を浴びながら、激しく震えた。これ程女の操を立て通した自分に、何処に非難がある、と彼女の鋭い眼付が言ったどうかすると、弟まで彼女の敵に見えるかのように。
 
 夫のために不幸な救い難い淵に沈んでゆくお種に、彼女の住む橋本の家に、藤村の眼と心は激しく執拗に注がれたさまがこの一節によく書きあらわされている。橋本の家は深い暗さにつつまれている。小泉の家もまたそうである。そして名倉の家も決して明るくはない。そのためにこれらの家を描く小説「家」は全てが暗さに覆われている。
 すこしとろとろしたかと思うと、また二人とも眼が覚めた。
 「お雪、何時だろうーそろそろ夜が明けやしないかー今頃は、正太さんの死体が盛んに燃えて居るかも知れない。」
 斯う言いながら、三吉は雨戸を一枚ばかり開けて見た。正太の死体が名古屋の病院から火葬場の方へ送られるのも、その夜のうちと想像された。屋外はまだ暗かった。
 
 これはこの小説の最後の箇所であるが、暗さは最後までつづき「暗かった」という言葉によって終わっていて、益々その印象を強くする。
 この暗さは「日本の家」のもつ因襲と家族制度による暗さであろう、がまたこの小説を書いた藤村の心の暗さでもあろう。結婚によって新たなる幸福を求めようとすれば、妻に恋人がある事が分り、自分にも妻以外の女性が出来て家庭が破局に瀕し、三人の子供のよき父たらんとすれば、その子供たちは次々とこの世を去り、家庭を安住の場所となし得られなかった壮年期の藤村の心はさぞや暗かったろうと思われる。
 「旅」ということが藤村文学において重要なものであるということは「家」を見ても分ることである。
 「俺の家は旅舎だーお前は旅舎の内儀さんだ。」
 「では貴方は何ですか。」
 「俺か。俺はお前に食物を拵えて貰ったり、着物を洗濯して貰ったりする旅の客サ」
 「そんなことを言われると心細い。」
 「しかし、斯うして三度々々御飯を頂いてるかと思うと、有り難いような気もするネ。」
 これは三吉夫婦の会話であり、家という固定したものを藤村は旅の宿と見て、何かそこに救いを求めようとしている。
 
 旅で馴染を重ねた人々にも別れを告げて、伊豆の海岸を離れて行くお種は、来た時と比べると、全く別人のようであった。海から見た陸の連続(つらなり)、荷積の為に寄って行く港々ーすべて一年前の船旅の光景を逆に巻返すかのようで、達雄に別れた時の悲しい心地が浮んで来た。
 これは橋本家のお種が木曾の家を離れ小泉三吉の家に寄って伊豆の伊東に静養に行き、ふたたび家に帰る一節であるが、家と家との場面をつなげるのに「旅」というものをもってきている。橋本家、小泉家、名倉家この三つの家をそこに住む人物の旅というものによってつなげているのである。
 「家」の稿が出来上った頃、藤村は妻冬子を失った。冬子は「家」のお雪である。「家」はお雪の登場することによって他の人物の描写に大きな効果を与え、かつ小泉家名倉家のありさまが生き生きとしてきている。このお雪である冬子を失ったことは藤村にとってこの上ない痛苦であったろう。こうして四十にして妻を失った藤村は次の長篇「新生」に描かれた姪との危機に遭遇する。』