ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

島崎藤村の主要作品における解説2

 1957年に河出書房新社より出版された「日本国民文学全集 第二六巻 藤村名作集」より瀬沼茂樹先生の解説を中略を多く挟んだ上で下記の『』内にて引用及び現代語訳しております。この解説は島崎藤村の主要作品を時系列に沿って解説した内容となっており、島崎藤村の興味や思考を理解する上で大きく助けとなります。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

 


『『春』は、前にも一言したように、数え年三七歳の時に、一五年前の『文学界』の仲間に取材した作品である。『破戒』のもつテーマの一つである『青年時代の悲哀(かなしみ)』ーこれには『若きウェルテの悲哀』の匂いがあり、そういえば藤村の習作である二二歳当時の劇詩『朱門のうれい』も関連があるーを仮構の世界にさぐっている間に、昔の自分と僚友との世界が思い出されたのであろうか。恋愛と友情と芸術とが青春の悲哀を定着するための具体的な主題を形づくるが、それらは基本的には『破戒』と同じ結構をもって、新しい生命の主張と古い習慣と形式の束縛との間の矛盾という形で提出されている。この意味で『春』は明治二○年代の日本社会の青春群像を写しながら、『破戒』程度にも社会の実相を外的に写しとることはやめていることに気がつくだろう。それは、主として、主人公岸本捨吉の精神形成として、一種の内面的な人生記録をつづることにあったからである。
 岸本の精神形成にとって最も重要な先導者の役をしたものは青木駿一である。青木駿一が北村透谷に与えられた小説名であることは、作者自身が『春』の本文の中に透谷自身の詩文『人士絵に相渉るとは何の謂ぞ』その他を引用して、これを隠そうとはしていない。その上、藤村は青木が「真実に、岸本さんは貴方に克似ていらっしゃる」と妻の操をしていわせているように、青木と岸本との相似性においてみている。これは『破戒』の蓮太郎・丑松の関係よりも一層密接に、自己の精神の源泉を青木にみることであり、言いかえれば、作者が自己の源泉として透谷から学んだかぎりを青木の姿をかりて描くということであろう。青木は岸本の理想像だったので、現実の透谷の肖像と異るところがあっても、一向に差支えないのである。この点、佐藤輔子である勝子という女性との恋愛が、『春』に描かれているかぎりでは、恋愛というべきかどうか疑わしいほど、藤村詩と同じ位相の恋愛へのあこがれにとどまっているのと類似している。勝子と捨吉の逢引が、その話題からいえば、きわめて世俗的な世間話であったことにも通じている。(このような自己感情を言い表しにくいことが恋愛の実相であるともいえるが)。青木の場合といい、勝子の場合といい、その友情や恋愛がすべて捨吉にとっての意味において、捨吉の精神形成において語られているという所以であろう。
 ところで、青木は自殺し、勝子は許嫁者に嫁して病死する。捨吉も、漂泊の末に品川の妓楼に遊んだ後、自己嫌悪から自殺を決意するところがある。青年の精神的な動揺が時に死を思うても、強健な肉体と強靱な情欲と旺盛な好奇心とは、簡単に自殺を許すはずはない。この点、青木である北村透谷のような詩人・思想家の場合とはちがっている。藤村は青木の死を考えて「僕にも解らない」という吐息をもらすのも当然である。しかし、かれらの一人がいうように「俉儕はすこし早く生れて来過ぎた」ことが青木の死を招いたにはちがいない。永遠・純潔・自由などの理念をかかげて、この理想によって、これを阻むものと戦っていった先導者透谷の思想は、彼自身の精神や身体を苛(さいな)んで、心身ともに乱れる危機に直面している。透谷の思想は実社会に敗れ、その実社会に敗れた「厭世詩家」が拠るべき「想世界」は「実世界」の犠牲においてのみ成立するものであった。それは思想の自殺にほかならぬ。その上、彼が行った自由恋愛・結婚は、若い夫婦を貧困と窮地とに追いこんで、「惨として相対するような」破綻に逢着させる。透谷は思想の実現としての自己の生活にも敗れていたのだ。内外からする絶望が暗い虚無感となって「遂に之を如何ともするなきを知る。余は多くの者に欺かれたり。希望にもライフにもすべてのもの余を苦しむるなり」(明治二六・九・四・透谷の『日記』)として、みずから死に赴いた。それらのことは、藤村の語るところによっても、納得されないことはない。
 ところで、藤村はあくまで実生活者として、透谷の死に学びながら、自己の生活の危機を脱出している。透谷の悲劇が、自我や個性のめざめを、実生活から離れたところで、ただひとり背負っていったがために、実生活としての国民生活の様態からみれば、浮きあがったものになっていたことを知っていたのである。明治二○年代の『うき雲』や『舞姫』のような知識人の悲劇は、そうして国民生活から浮き上り、片隅に押しだされて「余計者」となったことである。実にあの時代には文学としても悲劇的作品が多く出て、片岡良一のような文学史家はために「悲劇時代」と呼んだほどである。或る意味で透谷の悲劇もまたこれに通じている。
 そこで、藤村は逆に生活者として国民生活のなかに、「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」という溜息をもらしながら、生きる道を見出したのである。~中略~
 わたしは『春』が藤村と『文学界』の僚友たちの明治二○年代の青春群像でありながら、平凡な日本人の立場からする青春像たりえている根拠がそんなところにあるのではないかと思う。

 藤村は『春』についで『家』を書いた。『家』は『春』につぐ、藤村二七歳(明治三一年)の夏から三九歳(同四三年)の夏にいたるまでの一二年間における「島崎家」「高瀬家」(長姉の嫁した家)という「二大家族の家長達の運命」を題材にして、明治四二、三、四年にかけて書かれた一大長篇小説である。もし国民文学という観点から考えるならば、『家』は近代個人主義をを精神とする資本主義と封建的儒教主義を精神とする家族制度とが角逐する日本の国民生活の基盤である「家」を見事に包括的に描く記念すべき国民文学であったのである。明治の官僚的政治の根拠はこの近代市民社会の未成熟なままに中世的家族制度の根をおろしている国民生活にあったのだし、資本主義の急速な発展の可能性と矛盾の緩和の根拠もまたここにあったのだ。作者は、家長を中心とし、祖先崇拝と家名尊重とを第一義とし、個人の自主独立を制限する封建的家族制度を橋本家、ついで小泉家において、最初に典型的に描いている。そして、本来、夫婦を単位とする家庭に解消されなければならぬ古い秩序の束縛との喰いちがいを、若い世代の人たちの立場から批判的にみようとしている。もちろん、これを批判しりきることは許されず、そこに亀井勝一郎が末弟である小泉三吉に他の誰よりも族長のような風格が現れて面白かったと鋭く衝いたようなところが出てくる。
 もちろん、この「家」の意味は決して単純ではない。封建的な家族制度のほかに、自然的な血族関係(遺伝の問題を含む)や、「新しい家」と呼ぶ夫婦単位の家庭生活が含まれている。そして、この夫婦関係の考えかたの基礎には人間の自然性にウェイトをおいた自然主義思想が強く発現していることは当然であるが、それは「家」の閉じた社会の内部においては旧家の没落した血の頽廃が不倫の匂いを発散することを、それとして描く根拠をなしている。「座敷牢の内に悶いていた小泉忠寛」(島崎正樹)を初め、肉親兄妹の頽廃と没落とは、家の内部に、完全な封鎖性をもって、或いは明白に、或いは暗示的に描かれ、実に陰惨をきわめている。他の自然主義作家たちも、多かれ少かれ、このころいっせいに家の姿をとりあげ、また漱石の『道草』をはじめに、漱石系の長塚節高浜虚子など農村に取材する作家たちは、誰でも家の問題に立ちむかわなければならず、そこにそれぞれちがった角度から批判がみられた。こういう一連の作品のなかにあって、藤村の『家』は、もっとも典型的に家の諸問題を剖見してみせた、画期的な国民文学であった。
 いま、ここに『家』について詳しくいうことは必要としないが、ぜひ触れておかなければならないことが二つある。一つは妻のお雪が老祖母の死去のために函館の生家に帰った留守に、三吉が手伝にきていた長兄の長女である姪のお俊から、「親戚の間に隠れた男女の関係」を暗示され、ある夜、「不思議な力は、不図姪の手を執らせた。それを彼は奈何することも出来なかった」という事件である。このお俊は『新生』の節子とは別人であり、おそらく『家』のこの部分の執筆当時はまだ新生事件は起こっていなかったのではないかと思うが、怖ろしい新生事件への陥穽がここに予表されていたということである。二つは、『家』の松尾において、甥の相場師の正太の死を思いながら、三吉は「お雪、何時だろうーそろそろ夜が明けやしないか」と問い、しかも「屋外はまだ暗かった」と結んだとき、すでにお雪である藤村の妻冬子は四女柳子の産褥熱から死んでいなかったことだ。藤村は、死んだ妻の肖像を描きながら、その死が枯れ自身の上にはねかえって闇を、考えないわけにいかなかったのである。しかも姪との不幸な事件を意味する新生事件は明治末年・大正の初めに起った。
 わたしは、藤村が自己のうちに流れている「父の道徳上の欠陥」を知り、一族の暗い本能による頽廃と破滅を確認し、意志的な努力で、用心深く、自己をまもりながら、一歩一歩自己をきずきあげ、そこに倫理的人間としての風貌をもったことをすでに説いた。それが一挙にして崩れたばかりではなく、或いは一生を葬むるかもしれぬ怖ろしい形で襲いかかってきたのである。さすがの藤村も狼狽しないわけにはいかなかったのであろう。危機の実感は、すでに『ある婦人に与うる手紙』と題して後の『生い立ちの記』(『幼き日』)を「少年の眼に映じた婦人を書こう」という意図で書きはじめたばかりでなく、また『春』の序曲といわれる『桜の実』の初稿を若い人たちのために書きはじめ、さらに『春』の少年版といってよい童話『眼鏡』をなしたーつまり自伝小説を書いて、「自分の生命の源にさかのぼ」ることをはじめている。幼い日の性のめざめや小さな盗みや怖れなど、細々としたことを書きつけながら、自分はこんな拙らぬ男だったと、自己嫌悪と愛憐とのふしぎに混淆(こんこう)した形で、自己の実体に見入っていた。『生い立ちの記』と『眼鏡』とはこの時完成して、大正二年春のフランス脱出行となる。
 フランスの旅の藤村にとっての意義の重要性は、『仏蘭西だより』『海へ』『エトランゼ』という三篇の紀行集、何よりも『新生』をとって考えてみれば明らかである。さらに、外国生活は一九世紀日本の考察を呼んで、「父とその時代」を掘りさげる歴史小説『夜明け前』、また戦時的ハンディキャップのためにとかくの難はあるが、一種の近代日本の文化史的考察を意図したともみられる絶筆『東方の門』を胚胎していったのである。このうち、『夜明け前』はぺりーの来航から主人公青山半蔵の歿(ぼっ)するまで役三十四年間の歴史ー明治の維新の過程を木曾山中の庶民の眼を通して書いた記念すべき歴史小説でもあれば、国民小説でもあった。~中略~

 『桜の実の熟する時』の初稿『桜の実』は雑誌に二月連載した後に中絶、フランスの旅において改めて初めから書き直して、翌大正三年から四年にかけて五章までを書き、第一次世界大戦に出会ってふたたび中絶した。第六章以下を書きつづけたのは東京に帰ってからで、その完成は『新生』の発表と重っている。だから、『桜の実の熟する時』が『春』の序曲で、明治二三年、作者一九歳の初夏から二五年、二一歳の年末におよぶ、まさに『春』がその後を承けてすぐはじまるような自伝的小説でありながら『春』よりさらに一○年近く遅れて、『春』に先だつ時代を描いたことになる。そこで「桜の実」という題意が「お伽話の情調」をもった遠い昔の「若い日の幸福のしるし」を意味し、またそういう感慨をよせながら、現実に藤村の陥っていた泥沼、地獄のような体験の匂いを気のせいか漂わし、今日の青年のために自己の少年から青年へ移る時期をうつしながら、青春の優愁にとかく五○歳近い作者の暗い精神のかげりをみせている。
 『桜の実の熟する時』は、題材からいえば、明治学院時代の後期、青春の感覚的な喜びに浮き浮きとしていた前期からめざめて、青春特有の哀愁のうちに自我を検討しはじめる後期にはじまり、明治女学校に教鞭をとり、恋愛と人生との意義に苦しむところから、漂泊の旅に出たときに終るのである。だから、ここでは岸本捨吉が一生の仕事として文学を志そうとしながら、文学をもって立つことの困難と周囲の無理解、そういう中で、先導者青木駿一との邂逅、また愛人勝子との邂逅、キリスト教への入信と離脱ー要するに明治の青年としての捨吉がめぐりあった、しかも『春』を形づくるすべての要因が、それなりに「若い日の幸福」の内容として描かれている。それは、本来、作者もいうように、甘美な「お伽噺の情調」があってもよいはずの主題で、作者としては「早春」の思い出も濃かったにちがいない。しかし、実は、捨吉が「いかけやの天秤棒」とか「当世流の才子」とかみられていたところから、むしろ「仙人」といわれるような一種の「憂鬱症」にしずんでいるところに、つまり青春の可能性を肉体の要求するままに全身を官能の誘惑にひたすことからめざめて、それが内にある生命を窒息させるような生の頽廃にほかならぬことに気づいて、逆に自己の青春にきびしい枷をはめようとしている時が中心になった。青春が人生の最も大きな危機の一つであることをまざまざと自覚したときに、若い藤村が誘惑にともすれば、足をとられそうになりながら、精神の成長の方へ抜けだそうと、苦しみあがいていた有様を検討したのである。それは、まさに、中年になって自己の危機を、人生の初めの危機に重ねあわせて見ていることであったろう。自己の生命の根源をためつすがめつしながら、青春にめばえたさまざまな芽がー圧えようとして、それに成功したと信じていた芽までもが、急に突如として成長して、自己の存在を根本からゆさぶっていることに気づいて、嘆息とも感慨ともなったにちがいあるまい。
 しかし、『桜の実の熟する時』は『春』と比較するならば、その潑剌とした青春の甘美さに乏しいとはいえ、底の底まで溺れきろうとする青春の惑乱がさすがに整理されていて、『春』にみられるような曖昧と晦渋が少く、青春の危機を描きながら、そのウエイトがあるべきように客観的に顧慮されているところなど、やはり体験豊かな成熟した作家の筆になることをしめしている。最後に捨吉が家を捨て、漂泊の旅にのぼるところを、「まだ自分は踏出したばかりだ」という感銘深いことばで結んでいる。『春』や『家』の末尾に対応する藤村らしい余韻のこもった結語であるが、そういうものとして永久に失われた若々しい生命の泉が、その出発点において計量されていたわけである。それは、人間の自己形成の物語として、作者が自己の生活を全的に生きようとした、生に誠実な姿をみせている。
 わたしたちは、『桜の実の熟する時』がすでに悲劇時代の日本の青年の物語であることを知っている。青年の青春の危機が、明治二○年代に現れた「悲劇時代」に即応して、それとしてあらわに書かれていなくても、人間存在の根源を社会的に深くさぐれば、そこにとどくような意味を、それ自身として孕むものだったのである。藤村は自己の存在を深くさぐって、国民生活の根に達したし、その意味では、『桜の実の熟する時』の方が『春』よりも奥深く、それを代表するような位置を占めている。これは、一方において平凡な日本の青年の青春物語であるとともに、そのように日本人の日常生活に即して、これを典型的に組織した国民文学であったのである。かならずしも快適とはいわれない藤村の青春小説が、好んで若い読者にも読まれる所以は、それが普遍的な人間形成を軸としているからであるばかりでなく、この平均した国民生活の実相にふれて、国民の生命の源泉に通じているからである。
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 『桜の実の熟する時』を完成したときは、すでに述べたように『新生』に着手しているときであった。藤村の晩年に襲いかかった危機は、いままで隠している秘密、姪との不倫を告白するという大胆な企図によって、一挙に打開しようとしているときであった。『新生』における告白が、藤村の危機を思いもかけず、瞬時に解決した後においては、静かな晩年における成熟した文学的事業が待っていた。『夜明け前』『東方の門』がこれで、その簡単な意義はすでに述べた。
 いまここまできて、本書の性質上、長篇小説についてのみ語ってきたが、『破戒』『春』『桜の実の熟する時』『新生』『夜明け前』『東方の門』七大長篇小説が藤村の文学的事業として、どの一篇をもないがしろにすることのできない、質量ともに第一級の仕事であったことを、改めて解雇してみないわけにはいくまい。しかも藤村の仕事からいえば、長篇小説はその文学のピークをなしているので、その前後左右に、短編小説、童話・感想・紀行など、藤村としては長篇小説に劣らず重要な意義をもつ作品群をひかえていた。それは、作者とその身辺に終始する限定された、したがって狭い題材にみえながら、自己の生命の根源をさぐり、自己の存在の根底をきわめて、自己のなかに普遍的な平凡な一日本人の生涯と思想とをさぐって、これを定着することに成功した、その重量感に、改めて思いをひそめなければなるまい。或る意味で陰惨な、何の楽しみもなさそうにみえる藤村の自伝小説が、今日、他の自然主義作家の作品を圧倒して、ひとり広く多くの国民の間に愛読せられる国民文学たる所以はこんなところにもひそんでいる。』