ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

正宗白鳥が語る夏目漱石2

 1932年に中央公論社から出版された正宗白鳥著「文壇人物評論」の夏目漱石論を現代語訳した上、左記の本から『』内において引用しております。夏目漱石の研究の一助になれば幸いです。

 


『「国貞画く」は、久し振りに帰省した男が旧知を訪ねる道すがらの追憶などに、情趣が豊かに漂っている訳なのだが、それでさえ、文章がいやに踊っていて、感じが私の心に伝わって来ない。「白鶯」の如きは、優にやさしい女性の心で現わしているらしいのだが、曲りくねった文章に、私の神経はじらされるばかりであった。…まだしも初期の文章の方が、いやみがなかったのではあるまいか。
 私は、昔の鏡花氏の小説のうちに、酒宴の席に、舞妓か誰かが入って来たのを形容して、「池田の宿から朝顔がまいって候」と書いてあったのを、よく思い出すのである。含蓄のある洒落で、鏡花式修辞方から言えば、一つの標本的名文句としていいのであろうが、私の心は、こういう表現法にはどうしても隨(したが)って行けないのである。


 三


 夏目漱石は、泉鏡花を非凡な作者として推称していたそうである。そう言えば、漱石の文章には、鏡花に似たようなところがないでもない。「虞美人草」の中に散乱している洒落や警句には、鏡花の文章から受ける感じに似通ったものがある。一種のくさみをもった気取りである。
 これ等に氏を、旧式の文学分類法により、「ロマンチシズムの作家欄」に収めて観察すると、両者の間にいろいろな類似を見出し得られるのであるが、しかし、それは皮相な類似であろう。
 私は「虞美人草以前の漱石の作品は、少なくも過半は、発表当時に通読している。そして、運筆が自由自在で、千言立ちどころに成るといった文才を不思議に思った。「カーライル博物館」とか、「倫敦塔」とかを読んで、名文章として感心していた。当時の文壇には、鴎外以外には、こういうどっしりした文章を書く人はなかったのだが、鴎外はもっと骨っぽくて、漱石ほどの滋味を欠いていた。「草枕」を二日で書き上げたとか、「二百十日」を一日で脱稿したとかいう噂を聞いて、その筆の速さに驚いたこともあった。しかし「二百十日」だの「琴のそら音」だのは、小説としては詰まらないものではないものだと、発表当時に、私はそう思ったのであったが、当時の読後感を、私は今も改めようとは思っていない。「倫敦塔」や「草枕」などが、漱石の天分と修養とをよく発揮した作品であって、世相の描写や、人間そのものの真相を掘って行く力は、当時の彼には、まだなかったのであった。四十近くなってから筆を取り出した彼の作品には「舞姫」も「うたかたの記」もなかった。青春の悩みなどは、彼はついに描かないで済んだ。
 漱石は、よくも悪くも「虞美人草」から、小説道に踏み込んだのであった。妙なもので、小説を自己畢世の職業とすることに極まると、左右前後の人生を、小説家的眼光をもって見廻すようになるのである。それで、以前は淡々として、俳句か俳體詩でもつくるような気持ちで、心のままに筆を動かしていた漱石も、(意識的にか無意識的にか)新たなる態度で、左右を見るようになった。
 彼は、朝日新聞のお雇い作家となったがために、一歩々々人生を深く広く見るようになったのである。聡明炯眼な彼は、たとい多く書斎裡に跼蹐(きょくせき)していても、門下生や崇拝者に取り巻かれて太平楽を言っていたとしても、魯純な観察に安じていなかった。人間のいろいろな心理を見る目は光っていた。「虞美人草」は、前期の漱石の趣味に蔽(おお)われて、小説的人物は、ただお粗末な形を具えているに留まっているのだが、それからはじまって最後の「明暗」まで、彼の小説道の努力は続いた。
 しかし、四十以後に小説修業の途に上がった彼は、根本に於て変化を来すことはなかった。時代の流行に付和雷同することもなかったし、左顧右盼(さこうべん)煩悶苦悩するところもなかった。乙女小説から「蒲団」に転じた田山花袋のような自己革命など無論経験しなかった。
 彼の小説の見本は、初期の「坊っちゃん」に於て、決定されているのであった。「猫」とともに、最も広く読まれている小説で、私も三四度読んでいる訳である。先日本郷座の舞台に上演されたのも見た。読んでも面白かった。芝居でも面白かった。通俗小説としても、通俗劇としても、しめっぽいところのない、明るいお目出たい、懐疑のない、健全なものであった。漱石が日本の国民的作家となっている所以もここにあるのであろうか。英国の国民的作家として先日逝去したトマス・ハーディーが暗澹たる運命観を保持していたのとはちがっている。漱石を愛敬する日本の国民性は、しかく、明るくってお目出たくって、懐疑のない健全なものなのであろうか。外来の自然主義風の文学が、地味の適しないところに播かれた種子の如く、発育不良で繁茂しなかったも、その訳なのであろうか。

 私は「猫」のまだ世に現われない以前、漱石がまだ無名作家であった時分、彼に関する短評を、読売新聞に掲げたことがあった。それは「源兵衛村から誰とかが大根を持って来た」というような瓢軽(ひょうきん)な俳體詩を、「ホトトギス」誌上で読んで感心したためであった。
 当時、私は新聞記事の材料を得るために、近所の畔柳芥舟(くろやなぎかいしゅう)氏をおりおり訪問していたので、ある日、氏に向かって俳體詩の話しをすると、氏は、それに連関して、漱石の人となりを、いろいろ私に話して聞かせた。彼が読書家であること、世間的名誉の外に超然としていることなどを話して、畔柳氏自身、彼に敬服しているらしい口吻(こうふん)であった。「高濱君と俳體詩なんかをやっていい気になってる」と言っていた。これによって見ても、漱石は、無論、他の多くの文学者の如く文筆を以て世に立とうとする考えはなかったのだと察せられる。鴎外や上田柳村とも異なっていた。私が読売新聞で、漱石を讃美し、柳村を貶した筆法を弄すると、柳村は「積極的に何かやろうとするものを非難して、消極的な生活に甘んじているものを褒めるのはいいことであろうか」という意味のことを、私に言った。しかし、間もなく、漱石は急転直下の勢いで世上に活躍しだした。
 
 当時の読売新聞の主筆であった竹越三叉氏は、漱石招聘を企てて、時分で交渉に出掛けたようであったが、私も一度主筆の命を奉じて駒込の邸宅に漱石を訪問した。新聞記者として訪問ずれのしていた当時の私は、学生時代に鏡花訪問を試みた時のような純な気持ちは失っていて、「お役目に訪ねて来た」という感じを露骨に現わしたらしかった。部屋の様子も、主人の態度も話し振りも、陰鬱で冴えなかった。「草枕」を発表して名声嘖々(めいせいさくさく)たる時であったのに関わらず、得意の色は見えなかった。「竹越さんが先日訪ねて来たが、僕を先生と言っていた。しかし、竹越さんの方が僕よりも年上じゃないだろうか」「小説を書きだしてから、丸善の借金は済した」と、興もなげに言ったことだけは、今もなお覚えている。その時坂元雪鳥(さかもとせっちょう)君が来ていたが、この人の話の方が元気がよくって座が白けないで済んだ。読売入社の件は無論駄目であったが、間もなく仁位町の文学附録へ、一篇の評論を寄稿されたのが、漱石が読売に対する寸志と見るべきであった。
 例の畔柳氏にこの話しをすると、「漱石が新聞社なんかへ入るものか」と、頼みに行く方が馬鹿だと言わぬばかりに言って、笑った。私は成程と同感した。
 ところが、それから、半年も経たぬ間に、夏目漱石先生は、堂々と朝日新聞社に入社した。私は意外に感じた。人は、処世上の利害の打算によってどうにでも動くものである。あの人に限ってそんなことはないと断言するのは浅墓な考えである。漱石先生と雖も例外である筈がない。竹越氏は私に向かって、「漱石は、読売入社については不安を感じていたらしいが、社では約束は確実に守る。本野一郎君に僕からそう言って、将来の地位の安全は保証する」と言ったが、そういう言葉をそのままに受け入れるべく漱石は、あまりに聡明であった。読売では前途に不安を感じて、乗り気にならなかった彼が、朝日ならと乗り出したところに、彼の人生観察の目の動きが見られる。
 島村抱月は、その頭脳の聡明さに於ては漱石に劣らなかったが、晩年一婦人の愛に惑溺して常道を逸した生活を過ごした人ほどあって、あまく調子に乗って利害を見る目のくらむことがあったらしかった。衆人の期待を荷って欧州留学から帰朝した時、読売では、かねて関係もあることだから、彼の助力を待設けていたのであったが、彼は容易に日々新聞の招きに応じた。当時は文芸には縁のなかったその新聞を舞台として、自己の努力を扶植しようとした。おれが出れば不適当な舞台でも生かして見せると気を負っていたのであった。ところが、満一年を過ぎると無雑作に社の方から断られてしまった。その頃私は井原靑々園(いはらせいせいえん)氏に聞いた。氏は抱月に忠告して「君は日々のような場所違いの新聞に書くよりもやはり読売に書いた方がいいじゃないか」と言ったが、彼は自信があるらしく、忠告に耳を傾けなかったそうであった。
 抱月よりも漱石の方が、自己と周囲との観察に於て用意周到であった訳だ。』


口吻(こうふん)・・・口ぶりまたは言い方。

 

『四
 「坊っちゃん」は、筆がキビキビしているのと、例の美文脈の低徊味よりも、事件の運びに富んでいるのと、主人公の人となりがキビキビしているので、万人向けの小説になっている。大抵の人に面白く読まれるそうである。「不如帰」や「金色夜叉」などよりも、いやみがなくって、いい通俗小説である。しかし、ここに現われているいろいろな人間は型の如き人間である。ここに現われている作者の正義観は卑近である。こういう風に世の中を見て安じていられればお目出たいものだと思われる。
 漱石が、モウパッサンの「首飾り」を非難した講演録を読んだことがあったが、そこに含まれていた非難の個所は、このフランスの作家が、作中の薄給者夫妻の長い間の苦辛を無意味なもののように取り扱った点にあった。モウパッサンに対する道徳の立ち場からの非難は、トルストイによって、峻烈に下されたのであって、そういうところに、いろいろな文学者の見解の相違が見られて面白いのであるが、トルストイ自身の描いた人間は、漱石の描いた人物のように、やすやすと道徳の支配を受けるほど薄手ではなかった。そしてトルストイの道徳観は、彼の深い悩みと表裏していた。「坊っちゃん」に現われた漱石のそれのように安価ではなかった。
 漱石の大部の「文学論」集や「文学評論」集は、彼の学殖と批判力とを充分に現わしたもので、文学研究者を裨益(ひえき)する良書である。私は学ぶところが少なくなかった。「英国十八世紀の文学評論」は、日本人の観察した西洋文学観として、これほど委曲(いきょく)を尽くしたものは、他に類がないだろうと思われる。私としては、漱石が小説は書かないでも、この調子で、英国各時代の文学史を書き残していたなら、もっと有り難かったと思っている。
 「文学論」集の序文に於て、彼は、こう言っている。
 「倫敦に住み暮らしたる二年は、尤も不愉快の二年なり。余は、英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あわれなる生活を営みたり。…帰朝後の三年有半も亦不愉快の三年有半なり。去れども、余は日本の臣民ないr。不愉快なるが故に日本を去るの理由を認め得ず。日本の臣民たる光栄と権利を有する余は、五千万人中に生息して、少なくとも五千万分の一の光栄と権利を支持せんと欲す。此光栄と権利を五千万分一以下に切り詰められたる時、余は余が存在を否定し、若しくは余が本国を去るの挙に出ずる能わず、寧ろ力の尽く限り、之を五千万分一に回復せんことを努むべし。是れ余が微少なる意志にあらず、余が意志以上の意志なり。…英国人は余を目にして神経衰弱と言えり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと言える由。…帰朝後の余も、依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり。親戚のものすら、之を是認するに似たり。…余が身辺の状況にして変化せざる限りは、余の神経衰弱と狂気とは、命のあらん程永続すべし。…」
 
 こう鬱勃たる不平を述べている。「猫」その他の随筆録に於てでなく「文学論」の序文に於て、精神の悩みを直裁に述べているのは面白い。そして、神経衰弱にして狂人になるがため「猫」や、「様虚集」や「鶉籠」を著わしたと、皮肉を言っている。
 「十八世紀文学論」のうちでは、スイフト論が最も光彩を放っていて、これほど微細に且つ鋭利に、スイフトを解剖し観察し翫賞(がんしょう)したのものは、英国に於てもないに違いない。サッカレーやハリズリットなどのスイフト観も、漱石に比べると見方が皮相である。そして、漱石は、この稀代の風刺家厭世家スイフトを非常に高く評価している。「不満足を現わす文学的表現」の階段を四種に分かちていろいろに例を挙げたあと、スイフトをもってそのどん詰まりとしている。』

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