ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

正宗白鳥が語る夏目漱石3

 1932年に中央公論社から出版された正宗白鳥著「文壇人物評論」の夏目漱石論を現代語訳した上、左記の本から『』内において引用しております。夏目漱石の研究の一助になれば幸いです。

 


『「普通の不満足は必ず一方に満足を控えている。もしくは夢見ている。スイフトの不満足には此対立がない。…過去現在未来を通じて、古今東西を尽くして、苟(いや)しくも人間たる以上は、悉く嫌悪すべき動物であると言う不満足である。従って希望がない。救われ様がない。免れ様がない。彼の風刺は噴火口から迸る氷の様なものである。非常に猛烈であるけれども、非常に冷たい。人を動かすための不平でもなければ、自ら免れるための不平でもない。どうしたって世界のあらん限りつづく、不平の為の不平だから、スイフト自身は嘗て激していない。冷然平然としている。何だかスイフトなるものが重たい石のように英国の真ん中に転がっているような気がする。そうして此の石が一つある為に、左右前後は無論、全世界に蠢動する人間と名のつくものが、悉く石に変化した様に思われる。なぜと言うと、彼は如何に増悪の意を洩しても決して赤くならない。又決して慇懃にも出ない。同情は固いよりない。…」
 漱石の見たスイフトは、通俗の文学史の見たような浅薄皮相な風刺家ではないのである。古今東西文学史に散在している風刺家や厭世家は、大抵は一方で甘い夢を見ているので、彼と心を同じくして見ていると、世界の殆ど凡ての文学者が甘ちゃんなのである。馬琴の「夢想兵衛」などは「ガリバア旅日記」に比べると、お話しにならないほど卑俗であり膚浅(ふせん)である。そして、漱石の所論を熟読していると、彼はスイフトを客観的に研究し解剖しているだけではなくって、スイフトの見解にかなり同感し共鳴しているのではないかと疑われる。そうでなければ、ああまで深くスイフトの心境に立ち入った傑れた批評が出来る訳はないと私には思われる。
 しかし、一部分だけでもスイフトと心を同じくしている漱石が、時分の創作に於ては、なぜ「坊っちゃん」の如き、通俗的小説を書くのであろうか。留学中にも帰朝後にも満腔(まんくう)の不平を抱いていた筈の彼の鬱憤はこんな小説で洩される程度であったのか。…私は、漱石の創作に現われてる彼の心理について、少なからぬ興味を覚えだした。鴎外は聡明至極で筆致も明快であったが、心の働きが単純であった。漱石は複雑である。
 彼は、生真面目に堂々とスイフトを論じているうちにも、時々はおひやらかしを言ったり、忘れていたものをふと思い出したような態度で卑近な道徳に拘泥した口吻(こうふん)を洩している。ここらが、譲歩のない冷静なスイフトとは違った漱石の真面目なのであろうか。彼は「ドンキホテ」についても、「多数の評家は風刺と見るようだが、私には花見の鬘同様な感がある」と、おひやらかしている。


 五


 私は、「それから」を改めて読んだ。
 この長篇は二年ほど前に、帰省の途上、汽車のなかで通読して、直ちに簡単なる読後感を「読売」に寄稿したのであるが、作品から受けた印象は間もなく私の頭から消失していた。それほど感銘の薄い作品であった。
 しかし、この小説は、漱石の作中でも殊に深刻味のあるものとして、知識階級の読者に推讃されていると聞いたので、今度改めて読み直したのである。
 
 「虞美人草」を読んだあとで、「それから」を読むと、この作者の小説構成術の進歩が見られる。
 前作では、小説らしいところはぽっちりしかなくって、随筆風の低徊趣味が果てしなく跋扈していたのであったが、後作では、全篇の初中後がもっと有機的に構成されていた。作中人物のそれぞれがもっと現実の姿を備えている。しかし、私には、最初読んだ時にまさった興味は感じられなかった。
 「虞美人草」でも、「彼岸過迄」でも、「心」でも、あるいは「明暗」でも、漱石の長篇小説の作風は、後に何か奇抜なことが出て来そうに読者に期待させながら、くどく長く読者を引きづって行くので、読者には辛抱が入る。凡庸な作者は読者を釣って行くだけで、最後に玉手箱から取り出された手品の種は案外詰まらないことが多いのだが、漱石の玉手箱には、いつも相応に見事なものが潜められている。「それから」にも。主人公代助が友人の妻三千代に対する心理の交錯に、読者の心を充分に捉える力を有っているのである。彼の胸に潜んでいた秘密を、女の夫や、父や兄嫁や読者の前にさらけ出した時には、彼の人生は混乱し、「世の中は真赤」になる訳である。…ところが作者が筆を尽くしているにかかわらず、事相が私には空々しく思われて、胸を抉られるような感じがしないのだ。私ばかりがそうなのであろうか。

「代助は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出て来る男女の情話があまりにも露骨で、あまりに放肆(ほうし)で、且つあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪しんでいた。原語で読めば兎に角、日本には訳し得ぬ趣味のものと考えていた。従って彼は時分と三千代との関係を発展させるために、舶来の台詞を用いる意志は毫(ごう)もなかった」と言っているが、漱石は男女関係を描くにあたって、つねにこの心構えを棄てなかった。人倫五常の道義を表に振翳(ふりかざ)しながら、傍ら、忌憚なく淫蕩の情景を描写していた馬琴と違って、漱石はあくまで品位を保っていた。それは彼の創作の風格として尊重していいことなので、私は、漱石がモウパッサンなどの作風を真似なかったのを遺憾に思っていないのではないが、「それから」の代助が、そんなに熱烈に三千代を恋しているようには思われないのである。代助の心は躍っていない。血は湧いていない。作者の頭は自在に働いて、恋愛心理の経過に於ても、へまなことは書いていないのだが、どこまで行っても理詰めな感じがする。へまなところがなさ過ぎるので窮屈である。新聞小説執筆前の初期の作品、「猫」の如き、「草枕」の如き、「坊っちゃん」の如き、みんな、のびのびとしてゆったりしていたが、「それから」やその他の長篇小説は、くどく詳しく書かれているに関わらず窮屈である。
「代助は泣いて人を動かそうとするほど、定休趣味のものはないと自信している。凡そ何が気障(きざ)だって、思わせ振りの、涙や煩悶や、真面目や、熱烈ほど気障なものはないと自覚している」と言っているが、彼の創作の用意にはこの気持ちが厳守されている。普通の小説の書き振りに対する彼の反抗心もここに微見している。
 彼漱石も、ある意味で代助の如く、ニルアドミラリの域に達していたのであろう。…私はこう思う。彼は、学究的職業から離れて、小説によって生活の料を得ることになって以来、当面の必要上、世界と人間の真相を考察し瞑想して、それを机上に持って来たのであろうが、考察冥想の結果として得た人と人との間の愛欲や闘争を、彼は、つまりは、ニルアドミラリの目で見ていたのではあるまいか。彼と同時代に自然主義作家として区別された花袋独歩藤村などは、案外傍観的や客観的の作家ではなくて、漱石の見方から判断すると、思わせ振りの涙や、煩悶や、真面目や熱烈を作品に傾注した、気障な作家であったのかも知れなかった。彼がツルゲネーフ全集を読んでいるという噂を昔聞いたことがあったが、彼はツルゲネーフに於いても、思わせ振りの気障な作家を見たかも知れなかった。
 ニルアドミラリの極は、文学としてはスイフトの域に達しなければならぬ。彼は一面そういう素質を有っていたらしいのだが、それを、徹底させなかった。…思わせ振りのもの気障なものを、思わせ振りのもの気障なものとして、スイフト式に冷静にあるいは冷酷に、人間という生物の愚かしき行作として描写しないで、尤もらしく重みをつけて書いたのは、彼の職業意識と伝統的道徳癖とに由るのであろう。彼は腹の底では、雑多紛々(ざったふんぷん)の色恋沙汰などに、尊い人生の意義を見たりしてなんかいなかったのであろうか。
 深い人間心理を微細に取り扱ったいくつかの彼の小説を読むと、よく知っているのに感心されるが、いつも実感が欠けていて、生な人間らしいところが欠けているので、強く胸を打たれることがない。
 何と言っても、彼の長篇小説のうちで生気に富んでいるのは「道草」である。「それから」なども、漱石の他の多くの小説の如く、しきりに道草を喰っている小説で、その道草が例の如く、アンドレーフの「七刑人」の説明だったり、ダヌンチオの部屋の色の説明だったり、文学論だったり、社会観だったりして、ややもすると、小説の中へ雑録がまぎれ込んだのじゃないかと思われるのだが、「道草」は、題は明らさまに道草を標榜していながら、無いような首尾を通じて、生々した人生記録なのである。』


放肆(ほうし)・・・勝手きままで節度がない様子。
毫(ごう)もない・・・毫は細い毛、わずかなこと。この場合、少しもという意味で使われている。

 

『六
 「門」を今度はじめて読んだ。
 窓前の若葉を見上げては目を休めながら、半日足らずの時間で読通した。近く春の感じられるこの頃の時節には、私は毎年、「花よ花よとうかれぞめきし人の心も稍々(しょうしょう)鎮まりて、一輪早先の躑躅花の上を、羽弱の蝶の行き戻りする四月の末の春景色」という、北村透谷の「宿魂鏡」の書き出しの一節と、「江南四月草青々(こうなんのしがつくさせいせい)、千山花落杜鵑啼(せんざんはなおちとけんなく)」という、鴎外一派の翻訳詩集「面影」のうちに収められた平家物語鬼界ヶ島漢訳の一句を思い出すのを常例としている。これ等の平凡な詞句にも、それを初めて愛誦した当時の、少年の夢が纏綿(てんめん)としていて、私には言い知らぬ懐かしみが存するのである。我々の文学観賞には、作品それ自身の価値意外に、こういう読者各自の主観の色が添っているのである。
 私は、「門」を机上に伏せては、窓外に淀んでいる獺(おそ)い春を眺めたあるいは、漱石の他の文集にある「修善寺日記」や「思ひ出すことなど」を抜読みして、小説以上の興味を感じた。漱石自身も職業意識の伴っている小説に筆を執るよりも、こういうものの方に、自己本来の趣味を感じていたのである。


 縹紗玄黄外、生死交謝時、沓然無寄託、懸命一藕糸、命根何処是、窈窕不可知ー、孤愁落枕、又揺蕭颯悲、仰臥秋已闌、苦病欲銀髭、寥廓天猶在、高樹空余枝、対比忡悵久、晩懐無尽期。
 
 病後に作られたこういう古詩を私は微吟した。そして、この詩人の気持ちがぴったり時分の気持ちに合うのを感じた。小説については、私の気持ちは何となく、彼の気持ちとそぐわないところがあるように思われるのだが。…
 しかし、「門」は、傑れた作品んである。「それから」のように理窟責めのギチギチした小説ではない。「虞美人草」のような美文で塗り潰された退屈な小説ではない。漱石は、ここに於てけばけばした美服を脱いで、袴も脱いで、平服に着替えて、楽々と浮世を語っている。例の今に面白いものを見せるぞと言ったように、読者を釣ろうとする山気がない。はじめから、腰弁夫婦の平凡な人生を、平凡な筆致で淳々と叙して行くところに、私は親しみをもって随いて行かれた。この創作態度や人間を見る目に於て、私は漱石の進境を認めた。ーそう思って読んでいた。ところが、しまいの方へ近づくと、この腰弁夫婦は異常な過去を有っていることが曝露された。私は、旧劇で、鱶七が引き抜いて金輪五郎になったのを見るようだった。安官吏宗助実は何某と変わって、急に深刻性を発揮するのに驚かされた。友人の妻を奪った彼は、「それから」の代助の生まれ変わりのような気がした。そう言えば、はじめから、何かの伏線らしい変な文句がおりおり挿まれていたのだが、他の小説とはちがって、「門」にはしみじみとした、衒気(げんき)のない世相の描写が続いていたので、私は、それだけに満足して、貧しい冴えない腰弁生活の心境に同感して、変な伏線なんかをあまり気にしなかったのであった。それほど柔順な読者であったために、後で作者のからくりが分ると、烈しい嫌悪を覚えた。宗助が正体を現わしてからの心理も一通り書けているには違いないが、真に迫ったところはなかった。鎌倉の禅寺へ行くなんか少し巫山戯ている。…作者はどの小説にもにもなぜこんな筆法を用いるのであろうか。腰弁宗助の平凡生活だけでいいではないか。作者はそれだけで世相を描出し得る手腕を有っているのである。
 思うに、責任感の強いこの作者は、新聞小説家として読者を面白がらせなければならぬと言う職業意識から、こんな余計な作為を用いたのではあるまいか。初期の漱石は、水の流るる如く雲の動く如くに筆を運んでいた。 』


纏綿(てんめん)・・・愛が深くこまやかなさま、まといつき離れにくい様子。

 

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