ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

正宗白鳥が語る夏目漱石4

 1932年に中央公論社から出版された正宗白鳥著「文壇人物評論」の夏目漱石論を現代語訳した上、左記の本から『』内において引用しております。夏目漱石の研究の一助になれば幸いです。

 


『「門」のはじめの方に、「いくら容易(やさしい)字でも、こりゃ変だと思って疑り出すと分らなくなる。此間も今日の今の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違った様な気がする。仕舞には見れば見る程今らしくなくなって来る」と宗助に言わせているのが、こういった感じは、私もおりおり経験することがある。日常の茶の間ばなしのうちにこんなことを言わせて置いて、最後に迷いを晴らしに禅寺へ行くのが、宗助の人となりとしてそう不調和でないように仕組んでいるなんか、この作者が脚色に抜け目のないことが察せられる。兎に角、構成の才は充分に有っている人なので、戯曲を書こうと思えば書けた人なのである。
 この頃激情で上演用の新脚本に欠乏しているため、盛名ある漱石の小説の戯曲化が流行しだした。「猫」のような、どこから見ても芝居にならないものまでも脚色しだした。やがて、彼の他のいろいろな長篇小説が戯曲化されるのではないかと危ぶまれる。生前の漱石は夢にも思わなかったことで、芝居嫌いの彼が、地下で聞いたら、作品の神聖が傷けられたようにいやな顔をするだろう。
 しかし、彼の新聞小説には、お芝居じみたところがあるのだ。探偵小説じみたところもあるのだ。彼は、探偵という者を嫌っていたに関わらず、探偵小説を書き得る素質をも有っていた。「彼岸過迄」は、殊に探偵小説らしい分子に富んでいる。
 彼は、「門」を書いた後に大病に罹って、暫く新聞小説の筆を絶っていた。責任感の強い彼はお雇い作家としての義務を怠っていたことを心苦しく思っていたらしい。「久し振りだから成るべく面白いものを書かなければ済まない」という気になっていた。俗受けを顧慮する気持ちが不断にも勝っていたことは、「彼岸過迄」に添えられた序文を読んでも察せられる。森鴎外が、日日新聞に於いて、平然として、あの非通俗甚だしい考証的史伝を、書き続けた気持ちとは大いにちがっている。
 私は数年前に一度通読したことのあるこの長篇を、今度読み直した。この小説は、この作者のどの小説よりも手の込んだもので、漱石の頭脳がいかに複雑に回転するかに驚かれる。前半の探偵趣味浪漫的探偵趣味、「以上に対する嗜欲」の発揮は、彼が愛読していたらしいスチーヴンソンなどから、暗示された啓発されたらしく思われるが、理智に於いてスチーヴンソンより優れていた彼は、「新アラビア物語」や、「宝島」の作者のように、「異常」や「冒険」に陶然として心を浸しただけではいられなかった。自分で作った夢を、自分で破っている。ここには、鏡花趣味も含まれているが、漱石は白昼にタハイのない夢を見て、そこに安んじていられなかった。蛇頭を彫った異様な洋杖でも、女占い者の神秘らしい話しでも、条理明晰に取り扱われている。鴎外や漱石の小説を通して見る人生には、神秘不可解の影はないので、外の作者は知恵が足りないからそんなものを感じるのではないかと思われる。
 「話しが理窟張って六ヶしくなって来たね。あんまり一人で調子に乗って饒舌っているものだから」と、作中の人物に言わせているのは、作者自身、あまりに独りよがりの心理解剖をし過ぎているのに気がついたための申し訳であって、「右か左へ自分の身体を動かし得ない唯の理窟は、いくら旨く出来ていても、彼には用のない贋造紙幣と同じ物であった」と、他の人物に言わせているのも、作者自身読者の思惑を気にしたための照れ隠しであろう。
 しかし、この小説のうちの「須永の話」は、今度も面白く読んだ。「虞美人草」の藤尾は、着物は派手に出来ているが肉体が作られていない。「それから」の三千代は、影が薄い。「門」のお米は日陰の女らしく描かれているが、女性としての神経が通っていないような感じがする。…私は、「須永の話」を中心とした「彼岸過迄」に於いて、はじめて、漱石の頭から描きだされた潑剌たる女性を見るのである。それほど千代子はよく描かれている。温かい肉体を備えてそこに鮮やかに浮き出している。彼女に対する須永の嫉妬焦慮の気持ちも読者の胸に迫る力を有っている。今までの漱石の作中には現われていなかった気持ちである。私は漱石の人生観察心理解剖が、一作毎に深くなって行くのを感じる。彼は新聞小説を職業としたために、余儀なく人生研究に目を向け、その結果が自己の修養になったのである。

 こういう性質の須永が千代子に対してこういう態度を取ったと言うだけで、一篇の好材料になる訳だが、この作者は、例の如く二重にも三重にもひねくって、須永をある不幸な運命の下に置かれた男として、そこに須永の性癖の由って来たる原因を索った。
 鎌倉で小鰺の一塩を食うことから、ふと話しの筋を引き出して「是れはまた誰にも話さない秘密だが、実は単に自分の心得として、過去行くねんかの間、僕は母と自分と何処がどう違って、何処がどう似ているのか詳しい研究を人知れず重ねたのであるー欠点dも母と共に具えているのなら、僕は大変嬉しかった。長所でも母になくって僕だけ有っていると甚だ不愉快になった。そのうちで僕の最も気になるのは、僕の顔が父にだけ似て、母とはまるで縁のない目鼻立ちに出来上がっている事であった」という須永の話を読むと、読者は作者のからくりに気がついて、また例の趣向かと微笑されるのである。
 果して、須永は現在の母親の実の子ではなくって、早逝くした父親が小間使いに生ませた子であった。しかし、続けて読んで行くと、この事実が、そうした痛ましい世相として読者を動かすほどには描かれていなかった。むしろ、須永出生の秘密に関する追窮はいい加減にして、千代子との交渉をもつと発展させて小説を進めた方が面白かったのだが、それは漱石は、企てて、も為遂げ得なかったかも知れない。


 七


 「彼岸過迄」の須永と言い松本と言い、「それから」の代助と言い、「心」の先生と言い、その他の作品中の某々など、漱石の小説には、可成の資産を有っていて遊んで暮らしている高等遊民が多い。知識があって、暇があるのだから、ともすると、丹念に自己解剖に耽るのである。そして、作中の老人は、詩会へ行ったり骨董を翫(もてあそ)んだり謡曲をやったりする。今日の文壇で盛んに論争されている社会意識は、彼の小説には殆ど現われていないと言っていい。しかし、彼が、今日の世に働いていたなら、聡明なる見解をもってそれを取り扱っていたであろう。鴎外には、共産主義に関する歴史的研究をはじめたが、はじめたばかりで倒れた。彼は旺んな知識欲によってそういうものを研究はしても、盲目的に詩の流行に附随しなかったに違いなかった。「善とは家畜の群のような人間と、去就を同うする道にすぎない。それを破ろうとするのは悪だ。善悪は問うべきではない。家畜の凡俗を離れて、意志を強くして貴族的に高尚に淋しい高いところに身を置きたいというのだ。その高尚な人間は仮面を冠っている。仮面を尊敬せねばならない」と言ったようなほこりを彼は有っていた。しかし、漱石はもっと平民的であった。鴎外よりも豊かな芸術的天分は有っていたが、周囲を顧慮するところがあった。「成金の乱行を見ると、強盗が白刃の抜き身を畳に突き立てて良民を脅迫しているのと同じような感じになるのです…僕は是程臆病な人間なのです」と、言うような須永の手紙の文句も、必ずしも作中の人物だけの心持ちではないかも知れない。
 「心」には、今までの作品のうちにも微見(ほのみ)えていた憎人厭世の気持ちが最も強烈に出ている。憎人厭世が自己嫌悪に達しているのである。「私は個人に対する複雑以上の事を現にやっているんだ。私は彼等を憎むばかりじゃない、彼等が代表している人間というものを、一般に憎むことを覚えた」と言っている作中の人物は、ついに自分自身の憎さに堪えられないで自滅した。漱石の人間研究の最頂点に達したものと言っていい。そして此処には例の美文脈が全く痕を絶っている。警句や諧謔がたまにあっても、「猫」や「虞美人草」時代のような作者自身面白がっているような洒落や警句とはまるで違っている。厳粛である。陰鬱である。私の読んだ範囲内に於いては、この一篇が彼の小説のうちで、最も通俗味の乏しいものである。読者の好奇心を惹こうとする脚色ぶりは例の通りであるが、小細工はしないで、平押しに押して行っている。「私」と言う青年に取っての参考になると「先生の遺書」に言っているのが、青年の田舎の家庭の状況に照らして、何となく適中しているようでもあるし、田舎の老父の重患と、「先生」の自殺とが対脈的に人間の生存について読者の思いを致させるような書き振りは、彼の他の小説のわざとらしい趣向とは且つ別の相違がある。

「悪い人間という一種の人間が世の中にあると、君は思っているんですか。そんなに鋳型に入れられたような悪人は、世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人ななんです。少なくともみんな普通の人間なんです。いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいんです」という、この一篇の結晶として見るべき言葉を、前に引用した鴎外のほこりとしていた仮面説と比べて見ると面白い。両者は相反しているようなところもあり、似通っているようにも思われる。「仮面」も、大学生である一人の青年に向かって、主人公の信念が語られ、「心」も、大学生である一人の青年に向かってだけ、主人公の生死の秘密が洩されている。ところで、鴎外はほこりを有って、青年の蒙を啓く如くに語り、漱石は、「先生」をして妻にさえ言わない心底を、歪曲を尽くして、青年にだけ語らせながら、「最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残っているのは必竟時勢後れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」とか、「あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは個人の有って生まれた性格の相違と言った方が確かかも知れません」とか、自己の強烈なる信念の発露についても、謙遜させている。漱石には執筆にあたって、移り行く周囲の風潮を顧慮するところがると、私が言った所以である。
 「彼岸過迄」には一端を現わしていただけの嫉妬が、「心」に於いては、最も熱心に追窮されている。財産に関する暗闘、親類縁者の反目、嫉妬、孤独感などが、在来の彼の作品に見られないほどに強く、陰鬱に書かれている。いろいろな人々の心理を研究して、ついにどん詰まりまで来たようなものである。
 そこで、彼は、「心」の次には、「道草」を書いた。この小説は彼の自叙伝らしく思われるが、この自叙伝小説を読むと、今までの彼の小説の人物について思い当たるところが少なくない。「道草」読後感は、私は去年読売新聞に掲げている。
 最後の大作「明暗」は、永久に未完のままで残されている。結末に近づくほど波瀾を起こさせるのが、彼の創作の慣例になっているので、「明暗」は、どう発展して完結するのか、読者には想像がつかないのみならず、作者自身の意図もハッキリしていなかったのじゃないかと思われる。そして書き残された範囲に於いての「明暗」は、少し箍(たが)がゆるんでいるような感じのする作品である。運びがまどろこしく退屈だ。しかし、お延とお秀などの女性は、よく描かれている。これまでの彼の小説には、多くの女性は、断片的に現わされているか、あるいは型に入ったような現実味を欠いていたが、お延とお秀と、吉川夫人とは、充分に現実の女らしい羽を拡げて羽叩きしている。
 「真昼間提灯を点けて往来を歩くのは、世の中の暗黒な所を諷した皮肉な仕事と取れば、取れないこともあるまいが、一方から言えばm鬢をつけて花見をすると同一の気楽さから出ないとも限らない。花見の趣向などは現在に満足を表す程度の尤も甚だしいもので、不平や諷刺の表現でないことは明らかである。現に「ドンキホテ」なども、多数の評家は諷刺と見ているようだが、私には花見の鬢同様な感がある。」
 漱石はこう言っている。我々が彼の作品に対して、事々しき穿鑿(せんさく)を試みるのも、花見の鬘同様なものに殊更らしく深刻な意味を附することのように、彼には思われるかも知れない。
 ところが、漱石自身は、「明暗」に於いても、小うるさいくらいに、心理の穿鑿に従事している。
 作中人物は、そのために作の進行がのろく、且つ実感が水っぽくなるのである。人物の筋肉の微動にも、一ページも書き続けられるほどにその人の心の表現が籠もっているらしく見られるのだ。漱石の面前では、うっかり痒いところをちょっと痒く訳にも行かないようである。
 しかし、「明暗」には、我々が日常見聞している平凡な現実生活の真相が多分に出ている。書き残されている範囲内で言えば、異常な事件がない。この作者には免れたい癖であったロマンチクな取扱い振りがない。詩がなくなっている。「三四郎」よりも「門」よりも、どれよりも平凡な筋立で、人物も事件もそこらにありそうに思われる。兄嫁と小姑、若夫婦をつついて喜んでいる意地悪い中年女の交渉は、微細に渡って実相が描かれている。私は「明暗」まで読んで、はじめて、漱石も女がわかるようになったと思った。老いたる彼は、もう「草枕」にあるような詩的女性を朦朧(もうろう)と幻想し得られなくなったのであろう。鏡花式の夢から醒めて現実を見るようになったのであろう。それ故、「明暗」は、運筆の点では作者老衰の兆しが見えるにしても、意義のある作品たることを失わない。

 もう一つ面白いのは、この最後の小説のなかに、小林という皮肉ないやがらせを言う変な男が抛(ほう)り出されていることである。ニルアドミラリの域に達しているという「それから」の代助にちょっと似ているところがあるが、代助は、要するにブルジョアのノラクラものである。小林は、卑俗であるが、自棄的闘志を持っている。プロレタリア意識をもってブルジョアに反抗している。有産階級が彼を侮蔑するなら、彼も有産階級を侮蔑してやる。復讐してやるという反抗心を有っている。漱石の作中に、皮肉揶揄反抗の気分は珍しくないが、プロレタリア意識を持った皮肉揶揄反抗は珍しい。
 彼の作品の殆ど全部を読み去り、読み来った私は、最後の「明暗」に於いて、こんな人間が、水に油を点したようにぽつりと現出しているのに、甚だ興味を感じた。漱石としては、柄にない人物を創造した訳で、取り扱い方も上手ではない。しかし、社会主義共産主義か、そういった仮色を使う人間を、ブルジョア仲間へ割り込ませたところに、時代に関心する作者の気持ちが分るように思われる。
 兎に角漱石は凡庸の作家ではない。私は未完の大作「明暗」の最後の一行を読み終わって、この作者の一生を回顧して。そして、例の「縹紗玄黄外、生死交謝時、沓然無寄託、懸命一藕糸…」という彼の病中の詩を思い浮かべた。
 今夜は浪の音が高い。(昭和三年四月十八日 大磯にて)
 右の如く漱石論を書いてしまったところへ、手許に書物がなかったために読み落とした「行人」がふと手に入ったので、ついでに速読することにした。
 例の如く読者をもどかしがらせる小説であるが、前半は読者を惹きつける力をもっている。弟に対する兄の疑惑には深刻性が含まれていて、弟と兄嫁とが暴風雨の夜和歌山の宿に泊るあたりは、異常に、緊張しているが、それから後は、甚だしく気が抜けている。中心を逸して、徒(いたずら)にまわりを廻ってばかりいるような小説である。くどくってまどろこしくて、読後の感銘が甚だ薄い。漱石にも似合わしからざる小説である。彼の哲学観宗教観が窺われないこともないが、それが乾燥無味な叙述に終わっている。この長篇執筆中、作者は病気をして一時稿おw中絶させているが、作品の不出来なのはそのためかも知れない。
 この小説は「彼岸過迄」と「心」の間に作り上げられたのであるが、これ等前後の作品と連関させて考えると、この作者がいかに、男女関係についての暗い心理に思いを致していたか、またそういう暗い気持ちから脱却するためにはいかに苦闘しなければならぬかと、思いを潜めていたことが察せられる。…芸術として劣っていてもその点では興味がある。
 小宮豊隆君は、漱石修善寺に於ける大吐血を以て、彼の生涯の転機としているが、それはそうかも知れない。しかし、大吐血後の漱石が前期の彼よりも、人生の見方が一層温かになり、一層寛大になったとは思われない。却って反対ではないだろうか。「心」「行人」「道草」「明暗」がそれを証明している。他人の心の暗さ醜さを傍観的に描いたというような空々しいものではなくって、これ等に現われているいろいろな疑惑は、作者自身の心に深く根を張っていたのじゃないかと思われる。そして、大病前の作品よりも洒落っ気が少なくて、一貫した真面目さがある。「坊っちゃん」時代の薄っぺらな明るさが影を潜めて、懐疑の深さが見られるようになった。
 「思出すことなど」のうちの病床感想に、知友門下生愛読者などの好意に感激して、「世の人は皆自分よりも親切なものだと思った。住み悪いとのみ観じた世界に忽ち暖かな風が吹いた」と言い、「四十を越した男、自然に淘汰せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に忙しい世が、是程の手間と時間と親切を掛けてくれようとは夢にも待設けなかった余は、病に生き還ると共に、心に生き還った…」とも言っているが、こういう言葉は、大抵の病人が回復後起こす感傷語であって、特別に意味の深い言葉とは思われない。それに「さしたる過去を持たぬ男」と言っているのは、漱石の謙遜した言葉であって、若し彼が作家として名声を博していなかったなら、あんなに賑やかに彼の病床が顧みられよう筈はなかった。
 人間は気力の衰えた時には、年甲斐もなく、いやに感傷的な言葉を吐きたがるものである。「人の死せんとするや、その言うことや善し」と言うのも、畢竟は、気力の衰えをさすに過ぎないことがある。…「心」「明暗」など、漱石晩年の作品に、私は、彼の心の惑いを見、暗さを見、悩みをこそ見るが、超脱した悟性の光が輝いているとは思わない。(昭和三年五月)』