ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

正宗白鳥が語る志賀直哉と葛西善藏2

 1932年に中央公論社から出版された正宗白鳥著「文壇人物評論」の志賀直哉と葛西善藏を現代語訳した上、左記の本から『』内において引用しております。二人の研究の一助になれば幸いです。

 


『私は、はじめにこの作者には「温室育ちのお坊ちゃん」風のところがあると言った。しかし、武者小路氏とは、「お坊ちゃん」ぶりが違う。武者氏は、正統的お坊ちゃんで、お目出たいところがあるとともに、天空海濶(てんくうかいかつ)のところがあり、物には拘らないのびのびしたところもあるが、志賀氏は、その作物によって判断すると、なかなかに神経質で気難しくて細かいところによく気がつくのである。家庭の事情によるのであろうが、生存に対する不満の影も、彼の心に差している。これで、生活難があったら、葛西氏よりもこの方が陰気な厭世家になっていたであろうと想像される。
 「和解」は、当時この小説を微細に批評して激賞した小宮豊隆氏を泣かせたものらしい。頑なな父子の反目も解けて、父も子も目を濡らし、継母も泣き叔父も泣き、妻も泣き妹も泣くという一篇の結末は、多くの読者をも泣かせたらしい。ところが、私は、ここの場面は、通俗小説の泣かせ場のような感じがした。志賀氏のような作家にあるまじきところだと思った。「老人」を書いたような態度で、なぜここを冷静に書き得なかったかと思う。作者は、自分の事であるためか、自分に甘えて書いているのである。私は「和解」を通読して、根底の浅い葛藤につつかれて来た揚句の果てに、涙攻めになるので愛想を尽かした。この場面と、「濁った頭」とは、私の読んだ範囲に於いては、志賀氏の悪作であると思う。私は、小説を書きはじめの頃、藤村花袋の両先輩が、ある所で執筆難を語り合っているのを傍聴したことがあったが、花袋氏は他人の事を書く困難を言い、藤村氏は、自分の事を書く方が一層困難ではないかと言っていた。要するに、どちらも、よく書きこなすことは難しいのであるが、龍之介直哉などの作品では、自己の直接実験を直写したものよりも、題材を離れた所から取ったものに於いて一層よく芸術的効果を現わしている。芥川氏は、死の少し前くらいまでは、自己の露出を嫌っていたらしい。志賀氏は「自分の仕事の上で父に私怨を晴らすようなことはしたくないと考えていた。それは父にも気の毒だし、尚それ以上に自分の仕事がそれで穢されるのが恐ろしかった」と言っているような遠慮をもっていた。
 しかし、「和解」には私の心の押えられたところがった。ことに赤児の病気と死亡のあたりは真に迫っていて、しかも主人公の心は混乱していながら、描写は客観性を持して乱れていない。私はここを読んでから間もなく葛西氏の「不良児」を読んで、子供のために苦労する親心を想像した。私には体験のないことであるが、葛西と志賀のような、他の題材は稍々もすると遊び気分を作中に現わしている人達の芸術にも、子供の生死の聞き、運命の岐路に立つと、極度の緊張を示しているのに感動した。


 四


 文壇に割拠しているいろいろな団体のうちで「白樺」派と言われている仲間は、私に取っては最も縁の遠いもののようにかねて思われていた。志賀直哉氏の如きは顔も見たことがない。葛西善藏氏は早稲田に学んだ縁故で、文壇で「早稲田派」と言われる系統に属する作家であったが、私はこの人とも殆ど面識がなかった。ただ一度、徳田秋声夫人の葬式の時に、寺院の庭で会っただけである。で、私は、個人的に葛西氏をよく知らなかったのみならず、氏の作品にもあまり親しんでいなかった。
 「子をつれて」という短篇を「早稲田文学」で読んだ時、この作者の名をはじめて知った。そして、貧窮の生活を叙しているうちに飄逸なところのあるこの小説を面白いと思った。それから、「贋物さげて」という小説を、やはり「早稲田文学」で読んで、よくある材料だが、こういう題材を取った小説では、近松秋江氏の「伊年の屏風」の方が面白いと思った。その後、二三葛西氏のものを読んだ筈だが、私には興味がなかった。
 ある時、文学志望の青年が来訪した時の話しに、彼は葛西氏の作品に最も敬服していると言って、「あの人はどうして自殺しないのでしょうか」と言った。突き詰めた生活をしているこの作者に取っては、自殺が当然の運命であると、この青年は思っているらしかった。またそういう運命にある人間を、凡人とちがったえらい人間であるように思っているらしかった。私はこういう見解には同感しなかったが、葛西氏に心酔する青年もあるのかと、むしろ不思議に思っていた。』


空海濶(てんくうかいかつ)・・・人の度量が空の様にカラリとして、海のように大きいこと。

 

『今、「葛西善藏全集」を披(ひら)いて、幾つかの短篇を続けて読んで、私はウンザリした。「暗鬱、孤独、貧乏」の生活記録の繰り返しであって、それが外形的にも思想的にも単調を極めてある。「私の一番悲しく思うことは、貧乏であること、そしてその貧乏に打克ってグングン金持ちになって行けるほどの豊富な創作力を恵まれていあないと言うことである」と、自分で反省しているが、その通りであって、氏の創作力の貧しさに、私は驚いた。兎に角四十四歳までの生涯を文学に託して、呻吟苦悩、こういう作品をこれだけしか書き上げられなかったのは悲惨に感ぜられる。これだけのものも、貧乏の鞭が彼を追い立てればこそ書けたのである。改造社などの雑誌社が彼をせき立てて書かせたればこそ、幾つかの身辺小説も辛うじて出来たのらしい。世が彼の天才を虐遇したのではなくって、貧苦の運命は彼の身に備わっていたのであった。
 しかし、それに関わらず「葛西全集」は、現代の日本の文壇に存在を値する資格は有っているのである。才気に乏しいかわりに彼は自己の芸術に誠実であった。当て気や通俗味は薬にしたくもなかった。世俗に所謂成功の資格たる「運、純、根」のうち、彼は「純」は充分に持っていたが、「運」と「根」がなかった。しかし、飲んだくれに有勝ちの、飄逸さ、多少身に帯びていた仙骨が、彼の暗鬱鈍昧な作品に、芸術の光を差させているのである。
 「私は、妻子を棄てて、あの鬼のような継母の迫害に堪えかねて、郷里を飛び出して来た。それ以来、私はすべての女性と言うものに対して脅迫と敵意を感じている。どんな女に対しても、私は私の継母と言うものを通さずには、考えることが出来ないのだ。私は自分の妻や娘たちのことすら、信じたく思わない。すべての女性の蔭には、私の継母の邪鬼のような影がひそんでいる」(暗い部屋にて)と、彼は言っているが、しかし、その作品には、そういう態度を持った観察に基づく女性は、一人も半分も現われていないようである。「彼等はすべて邪悪で、毒婦で、涙にも媚びにも、すべて死の毒を含んでいるのだ」と、どうしたはずみか、興奮して毒吐いているに関わらず、そんな女性を一度も具体的に書いていない。そんな女性もこんな女性も、女というものを小説のなかに丸で書いていないのは珍しい。主人公の妻とかおせいとか、温泉場の芸者とかで、作中には出てはいるのだが、女の名前でそこへ坐っているに留まって、外形に於いて女の容姿を具えてそこに現われているのでもなければ、一人の女としての心理の動揺がそこに見られるのでもない。
 「急行券」のなかに、主人公の妻が、ちょっと見つかりにくいところへ、夫の小使銭を入れて夫に渡している女らしい心遣いを、私はこの作者の作中では珍しいと、思うくらいである。あれほど主人公と関係が深く、あちらこちらの作中に現われているおせいだって、少しもいきいきして描かれていない。この女の心理なんかを、作者は歪みなりにも観察していない。「いつも相手を疑わない」薄ぼんやりの女として、作者は見ていたのかも知れないが、そういう平凡な女としても明晰に描かれていない。
 
 やくざな書画を売って大金をせしめようとした「贋物」と同じ心理を取り扱っている。「馬糞石」は、葛西氏の傑作で、田舎者の無知な欲心が、無器用なうちにも一種の味わいのある筆でうつされている。村のスケッチである「仲裁人」もいい。しかし遺憾にもこういう田舎の世相を写した小説も、そう多くはないのだ。一人の異性をも描き得なかった彼は、自己を離れた世能人情をも描き得なかった。彼は、ただ狭小な範囲でころがっていたのだ。
 私は、私の読んだ彼の数十篇の短篇のうちで「仲間」というのが、最も彼の面目を知るに都合のいい代表作であると思っている。これは割合に自由に書けている。世才にも文才にも貧しい、しかも、肉体に病気をも有っている彼が、差し迫った金の工面をしに上京して、運のいい友人達が面白そうな生活をしているのを見て、心を暗くすること、友人達に揶揄されること、金策は不成功に終わって病気の悪くなること。…みじめなことの連続なのだが、そこに、独特の諧謔味がにじみ出ているので、自ら一つの芸術境をつくっている。
 「狸」という綽名(あだな)を仲間からつけられたことを気にして、「哀しき狸…」と、泣きたいような自嘲の気持ちでつぶやき、「若い彼等の眼には、自分のような人間は、余程珍惰に見えるに違いない。老いぼれの道化者としか彼等には見えないのだろう。ほんとに泣いている自分の心持ちは、全盛揃いの彼等に理解されよう筈がない」と歎じている。

 しまいの方で、全盛でない方の友人を訪ねて、自棄(やけ)の戯談をお互いに取りかわしたりしているあたりからが面白い、細君に逃げられたその友人と、急を要する金の工夫のつかない上に、九度近い熱の出ている彼とは、喰い散らかした佃煮などを肴に、金持、才能、名誉、美、芸術、健康、女性――そう言ったすべてのものに口から出任せの罵倒を浴びせて、痛快を叫んだ。あらゆる者に向かっての罵倒のはてが、今度は二人の間の罵倒となるのが面白い。不平不満、胸のもだえの極は、互いに他を罵っただけでは収まりがつかないで、面と向かった二人が互いにぶつっかり合いでもしなければ、どうにもならなくなるのだ。
 「貴様は臆病者だぞ、卑怯者だぞ、巷に出ろ」と、だしぬけに友人が、主人公たる「彼」を叱咤する。
 「そう言うなよ。おれは病気じゃないか」
 「だから尚出るんだ。貴様の寿命なんか後幾ら持つものだ。おれについて来い。おれは原稿なぞ書いてやしないさ。糞骨折って、猶太人見たいな人間共に頭をさげて持ち廻るなんか真平御免だよ。…われは民衆に赴かん。…」
 昂然と言って、やがて、
 「K来い。角力を取るから来い。」
 「駄目だって言うのに、そんなことしたらおれは死ぬじゃないか」
 「死んだって構わない。生きとったって何になるか。さあ来い」
 「貴様は若い細君に逃げられたんで、おれに角力を挑む気なんだな。…よし、貴様なんかに敗けてたまるか」
 理由のない取組合いがはじまった。
 「貴様はおれを殺す気か。…参ったから放せ」
 「放さん。貴様のような病弱者はいつまで経ったって放さんぞ」
 「そんな乱暴なこと言わんで放して呉れよ。苦しい。おれはまだ血が出るよ。許して呉れ、…君許して呉れよ」
 主人公は半ば泣声になって、依然友人の咽喉を攻めながら言った。
 虐げられたる人の一生といった感じが、読後に油然として起って来る。「虐げられた」と言っても、それは、天才が衆愚に認められないで侮辱されているという意味ではなくって、才能の乏しい人間が藻掻いている苦しさが、傍人に侮蔑の目で見られることを私は意味している。「半ば泣声になって依然友人の咽喉を攻めて」いるのは、自ら葛西善藏の一生を表象した言葉である。力乏しくして書けないのに苦しみながら、なお相手(芸術)の喉から手を離さないで闘っているのである。
 
 五


 「女性はすべて邪悪で、涙にも媚びしにも、すべて死の毒を含んでいる」という女性観を真に痛感していたのなら、自分の鬱憤を晴らすためにも、小説の好材料としても、数十年の作家生活の間に、それこそ力を入れて書くべき筈なのに、そう言った女性の片影をさえ書こうとした形跡もないのは、不思議である。作者は果してそんな女性観を持っていたかどうか疑われるくらいである。たまに、彼の筆から出て来る女は、「死の毒を含んでいる」どころか、凡庸なお人よしである。そして、彼の周囲の男性にしても、どちらかと言うと、人がいいのである。彼の老父は、わが子と一しょに酒を飲んで、わが子に唄わせたり踊らせたりして悦しがる人間である。たびたび作中に出て来る彼の弟は、貧しいながらも、心力を尽くして、兄の世話をしている。志賀氏の身辺雑記風の小説のなかの人物の親しみが形式的に見えるのと異なっている。愚鈍の善良さが彼の作中の人物にはよく現われている。比喩が提灯と釣鐘になるが、彼の文学的面差しはドストエフスキーに少しは似ているのであろうか。それが彼の創作上の総財産である。
 「暗い部屋にて」は、彼が力をつくしていろいろな人間を書いたものだが、どうも抽象的で客観性に乏しい。「湖畔手記」は、彼の晩年の作品であるが、鈍重な筆にも錆を帯びている。心境と筆致がぴったり合ったいい作品である。「春」や「雨」や「歳晩」は彼の詩である。「寺の梅も堅いながらに最早蕾みを揃え、枯れ朽ちたとしか見えない牡丹の枝にも瑪瑙の牙のような芽を見せて、年を送り春を迎える用意が出来ているが、自分自身を顧みて見ると、北嶺に寒い姿ばかりで、南枝に香しい梅の面影と言ったようなものは、どこにも望まれなかった」と歎ずるなんか、文学者通有の感傷語で、私などは聞き飽きているのであるが、小説に現われているような葛西氏も、独居静座の折には、自然と自己を対照して、こういう月並みの感想に耽ったのかと思うと、新たなる興味が覚えられる。
 (志賀氏の「暗夜行路」は、前編だけはかつて通読して、読後感を述べたことがあった)(昭和三年八月二十五日軽井沢にて)』