ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

里見弴が語る有島武郎

 1967年に中央公論社から出版された「日本の文学27 有島武郎 長与善郎」の付録に収載されている里見弴と本多秋五との対談から、有島武郎についての部分を左記の本から『』内において引用しております。里見弴と有島武郎の研究の一助になれば幸いです。

 


若き日の有島兄弟


 本多 はじめに、武郎さんのお話を伺いたいと思います。武郎さんと里見さんは十歳違いですね。だから、里見さんが六歳の時には武郎さんが十六歳、大人と子供のような違いがあったわけですが、どのような接触があったのか、兄さんのことをどう思っていらっしゃったのか、その辺のところから……。
 里見 今、あなたがおっしゃった通りで、もし兄貴が八十歳、私が七十歳ぐらいになったら、何となく同輩みたいに話ができたでしょうけれど、四十五歳で死んじゃったんですから、三十と四十という歳では、まだちょっとかなわない感じで、親しいというような感情はあまりもてませんでしたね。少し誇張して言えば、親父代りです。親父は大体留守がちな人でしたから。家のなかでこわいのは母と兄貴……。僕にもの心がついた時分の兄は学習院の学生でした。
 本多 下宿でしたか、寮でしたか。
 里見 明治二十六年の大地震で、四谷見附そとの学習院の寄宿舎がつぶれちゃったので、その後しばらくは母方の祖母(山内静子)の家から通学していました。それから間もなく札幌の農学校へ行ってしまいましたから、ついぞいっしょに遊ぶなんてことはなかったように思います。生馬、姉(しま子)、兄(降三)そして私の四人は、しょっちゅう一緒に遊びましたけれどね。夏休みで鎌倉の家に帰っているとき、雨でも降って、僕らが外で飛びはねて遊べないような日には、一間(いっけん)廊下の籐椅子に腰かけた武郎が、いろんな話をしてくれました。あとになって「ジュリアス・シーザー」だと思うんですが、片手に横文字の本を持ちながらね。僕のまだ小学校へもあがっていないころの話だけれども、そんなことを覚えています。
 本多 日清戦争のころに、武郎さんがおかきなった絵が、ずいぶんたくさん残っていますね。
 里見 あるんです。描いているのを、脇で見ていたりしてね。特別絵の勉強をしないのになかなか上手でした。あなたもご覧になったことがあるようだけれど……。
 本多 そうです。絵の才能のある人だったんですね。洋行時代の絵はもっとずっと上手ですが、少年時代から絵が好きだったんですね。
 里見 日清戦争当時ですから、降三、生馬の兄貴たちや、それに友達が寄ってきて、戦ごっこをするのですよ。それの時分は、絵ハガキもなければ、写真入りの戦場通信などなかったから、もっぱら絵草紙でその様子を知るわけです。それは、たいてい三枚続きで、親父を訪ねて来る人にもらったり、親父が買ってきてくれたりしたんですが、われわれにとっての一番楽しいお土産でした。僕らはそんなものを通してのんきに戦争というものを見ていたわけだ。のちに大きくなってから見ると、月耕(げっこう)とか清親(きよちか)とか竹坡(ちくは)とか、なかなか立派な人たちが描いているんだけれど、なにしろ戦地に従軍したことのない連中なんだから、かなりでたらめなもんでね。
 本多 想像でかいたんですね。
 里見 そうです。小銃の弾はシュウシュウと引いた朱の線で現わしてあるし、海戦の場面は、海に落ちる大砲とか水雷の爆発が、海坊主みたいな格好にシュッと白く海面に突っ立っているというようなものなんです。兄貴がいれば、いろいろ説明してくれたり、戦争の話をしてくれる。むろん兄貴は戦争に行かなかったんですが、台湾から帰還してきた兵隊なんぞは見ていたとみえて、暑いから、普通のと違った軍服で、帽子から肩まで白い布を下げているとか、話してくれました。そういう兵隊を描いた絵も残っていると思う。そのほか、われわれの戦ごっこを描いたのがなぜ生馬のところに保存されていると思います。
 本多 鎌倉の、どの辺で遊ばれたんですか。
 里見 当時のわが家は滑川の河口近くで、いま鎌倉女学院の分校が建っているあのあたりと思うのですが、すっかりもう地形が変ってしまって、いってみても、はっきりここらだとは言えません。まるッきり昔の面影がなくなっています。』

 

濃情の人、武郎


 本多 若いころに、武郎さんがお書きになったものを読むと、弟の生馬さんのことを、彼は天才だと言っていらっしゃる文章があります。もちろん、志賀さんの日記なんかを見ても、生馬さんが非常に優秀な青年であったことは想像できるんですが、自分の弟に対して、そのように書けるということは、虚心というか、ほれっぽい人というか、人の長所をよく認めるタチの人であったのではないか、そんな感じがするのですが、どうでしょうか。
 里見 確かにその通りだけれども、僕が生意気になって、多少とも自分の考えを持つようになってからの感想が一つあるのです。それは、有島家の血統には、親父をはじめとかく最大級の表現を使いたがる性癖があるように思われることです。ちょっとうまけりゃ、こんなうまいものはないぞとか、あそこへ行ってごらん、あんないい景色はないぞ、といったふうな言い方をするんだな。最大級でなければ承知できない癖ですね。それが伝染したのか、われわれ子供たちもとかくそういう言葉使いをする者が多い。一人前になってからの僕はそのことに反撥を感じて、少々おいしくても、そうでない顔をして、逆に行きたいような気持を持った時分もあるのですがね。あなたのおっしゃる武郎のほれっぽさのなかには、多少そういう有島家伝承の口癖も含まれていたかも知れませんね。いきなり話を最大級へもっていってしまうという……。
 本多 時代も違うし、わからないところもありますが、伝え話などで聞くと、武郎さんは非常に素直な人で、その素直なところへ、激烈なキリスト教が入ってきたために、抜け道のないキリスト教を信じてしまったのではないかという気がするのです。~中略~里見さん流に言えば、有島家の薄情ではない。多情、多情でなkれば濃情といったものがあって、上辺はおとなしそうだけれども、中の方では何かが煮えたぎっていたという感じがするのです。とにかく、里見さんもだんだん独自の道をお歩きになったので、ある方面については、歯がゆい兄貴だ、とお思いになったところもあるのではないでしょうか。~中略~
 里見 キリスト教に関しては、家庭内に相当なトラブルがあったらしいです。僕はその時分のことはよくわかりませんけど、母親が熱心な仏教信者だったものだから、キリスト教には頭からの反感で臨むでしょう。われわれ時代の子供たちには、「耶蘇、味噌、鉄火味噌」なんて囃(はや)し言葉があったくらいでね。
 本多 とても肌合いの違うものだったわけですね。
 里見 だから、母親がそれは困ると言ったらしいですよ。親父は仏教信者ではなかったけど、やっぱり異国の宗教にはちょっと抵抗を感じていたのではないかと思うんだ。
 本多 昭和初年のマルクス主義ですか。
 里見 親孝行で、めったに両親の言葉にそむくなんてことはしない人なんだけれども、内部は、さっきあなたがおっしゃったような、煮えたぎるものをもっていたから、その件に関するかぎり断じて従わなかったらしい。時分の道を突き進めて、家庭内が少しくらいごたついても、それはいたしかたないという態度をとっていたらしい。ことにその時分は北海道にいて、毎日顔を合わせるわけではないから、手紙でやりとりするとか、休みで帰って来た時に話し合うというぐらいで、それほど表面化しなかったけど、互いにちょっと反撥し合っていたらしいな。


 「或る女」をめぐって


 里見 それから、さっきおしゃった、兄貴には少し歯がゆいところがあったのではないかということですが、どこまで行っても十歳違いの僕ですから、よくわからなかったんです。しかし、武郎のすぐ下の、山本という家に嫁にいった姉の愛子が大変な崇拝なんでして。
 本多 お兄さんをですね。
 里見 ええ、兄貴の方でもかわいがっていたようですが、そりゃもう大変な傾倒なんです。その姉などは、「或る女のグリンプス」が「白樺」に発表されたのを読んで、びっくりしてしまいましてね。兄貴のことを男女関係などはきれいごとで何も知らない人のように思っていたわけですから、僕をつかまえて、「お兄さんて、なかなか隅におけないのねえ」と、こう感歎の声を放ったものです。「隅におけない」がいいやね。時分はとうに嫁に行っちゃっているから、その点では一日の長(ちょう)きどりだ。(笑)

 本多 それが有島家の美風良俗を語るわけですね。里見さんの時分になると、実に乱脈をきわめましたね。(笑)
 里見 生馬のころまでは、そんなに親に心配をかけたことはなさそうですが、僕のところへきて、家庭を崩壊させたといってもいいくらい……。(笑)
 本多 里見さんは随分悪かったですね。(笑)今度「或る女」を読み直して、私はあれを極力、私小説的に考えてみたわけです。証拠は不十分でしたけれども。~中略~作品のなかに出て来る光景を、武郎さんは実際に見たのではないか。もうちょっと想像をたくましくすると、アメリカへ行って、そのまま帰って来て、作品の透矢町の双鶴館にあたる場所へ電話で呼びつけれられて、信子から嘘と真をつき混ぜたような話を聞かされた。そんなことも、ほんとうにあったのではないか。そのほか、いろいろ想像できるのですが、この想像は駄目ですか。
 里見 始めはもう少し自分に近く、つまりいくらか自叙伝風に書いていくつもりだったのではないでしょうかね。それが筋の発展上、だんだんフィクション的要素がましてきて、いくぶん前の部分との釣合いが悪いくらいになったのではないかと、僕はそう思うんですが……。
 本多 そうですね。やっぱり、後篇を書くときに、本当の詩的世界を、実生活から離れた世界を造る力ができてきた。それで、全篇の方を照らし返して訂正したけれども、ちょっと直しきれないところがあったように思いますね。あの小説が「白樺」に「或る女のグリンプス」として載ったときは、同人の間での評判というものはどんなものだったのでしょうか。当時、長与さんは読んでいなかったらしい。武者小路さんは読んでみえるようですが。
 里見 そうですね……。僕の耳にはあんまり批判めいた言葉は伝わって来なかったと思うけど……。
 本多 ちょっと派が違うし、年齢も違うし、東京在住の同人でもなかったから……。
 里見 年齢の隔たりや東京にいなかったこともあったでしょうね。だけど、何しろ、処女作らしい素人ッぽさは、ことに前篇には見られますね。そのころ「白樺」では専用の原稿用紙をたくさんこしらえたのです。それを使えば、何ページになるってことがすぐわかるように、行数や字詰めを本誌一ページの組面(くみづら)どおりにしてあるのです。
 本多 便利なものを作りましたね。
 里見 となると、マス目の一画に書き込む文字は、蝿の頭ほどの小ささです。編集部には便利でも、誰だってこりゃ書きづらい。ところが兄貴ばかりは従順にその原稿紙を使っていたんです。僕はそれに書かれた「或る女」の原稿を見た覚えがあるんですが、丹念に一画に一字ずつはめ込んでありました。
 本多 原稿はおそらく楷書に近い字体で、消しのない、きれいなものだったでしょうね。
 里見 どうも実に根気のいい人だと思ったな。(頭上の額を見上げながら)こんなものを書けるんだからね。
 本多 これは写経ですか。
 里見 そうですね。この日付けを見ると、大正九年の正月四日になっているのですがね。正月二日には、親父が必ず書初めをやって、子供たちにも勧めてやらせていたんです。親父が死んだあとも、兄貴は親父のした通り書き初めの風習を続けていましたよ。これも、いずれ二日から書き出したんでしょうが、お客があったり、用で立ったりするので、なかなかひと息には書ききれないで、四日までかかったものと思います。途中でとぎれて、また書くのだから、よほどの意志力がなくちゃいやになっちゃいますよ。こんなに長いものをね。そういう人だから、原稿だってとてもきれいでした。』


この対談には、会話の中に登場する武郎の写経が掲載されており、恐ろしいほど綺麗な楷書体で書かれています。機会があれば、この対談が掲載されている本を手にとってみて下さい。