ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

中島健蔵が語る「人間横光利一」1

 筑摩書房が出版した「新選 現代日本文学全集36 河盛好蔵 中島健蔵 中野好夫 臼井吉見集」から中島健蔵の「人間横光利一」を紹介しています。「人間横光利一」は、評論家であり横光と交流があった中島健蔵が当時書いた日記をまとめたものです。以下、『』内の文章は左記の書籍からの引用となります。横光利一研究の一助になれば幸いです。

 


中島健蔵って、どんな人?
日本の文芸評論家であり、フランス文学者で翻訳も手掛けた。東京帝国大学文学部仏文科時代に三好達治小林秀雄らと同級生だったため知り合いになる。辰野隆に師事。のちに、同大学の仏文研究室の助手をやりつつ評論を始める。これがきっかけになり、井伏鱒二太宰治檀一雄らと知己を得る。昭和を代表する評論家の一人。


中島健蔵が書いた「人間横光利一」の特徴
中島が書いた日記の中で、横光氏が登場している部分を抜き書きしてまとめたもの。横光氏の思考の変遷や、氏が洋行している間に起こった、二・二六事件を体験していないが故に当時の日本人の中に蔓延していた感情を氏がうまく掴めていないことなどを指摘している。横光利一の小説を研究をする時に重要となってくる人称についての考察など、興味深い内容となっている。


人間横光利一


 最初に横光利一の名をわたくしに聞かせてくれたのは、現在明治大学教授の佐藤正彰である。多分、大学生のころだつたと思う。東大のフランス文学科で、佐藤はわたくしの一級下にいた。~中略~
 青年時代には、わりあいに年の近い先輩を、しいて無視する傾向がある。少くとも佐藤やわたくしはそうであつた。日本の現代文学に対しても、大して関心を持たなかつた。
 ところが、ある日、なんおきつかけだか忘れたが、現代作家の中で、横光利一という小説家だけは読んだほうがいいそうだ、と佐藤がいい出したのであつた。読んだほうがいいそうだ、という程度だから、彼もまだそのころは読んでいなかつたにちがいない。昭和のはじめのころの話である。
 文壇については何も知らず、わたくしの頭の中は、一種の未感光状態だつたのだから、この名前がすぐに焼きつけられてしまつた。そして、まもなく白水社から出版された『機械』をはじめて読んで、なるほどと感心したのであつた。
 そこまでは覚えているのだが、本人の横光利一と、どこでいつ最初に会つたのかは明かでない。「作品」という雑誌が出はじめ、その同人会にはじめて出席したのが、昭和六年の五月五日だから、多分、この年のうちに、「作品」の会ではじめてあいさつしたのだろうと思う。翌年の夏ごろまでには、かなり親しくなつていた。以下当時の日記の中から、横光利一の名をひろつてみよう。


 ○昭和七年四月四日。牛込の病院にいる三好(達治)も快方に向い、今日出海(こんひでみ)と小林秀雄とは明治大学の先生になり、河上(徹太郎)、牧野(信一)、佐藤(正彰)、大岡(昇平)、坂口(安吾)など、みな元気で酒をのむ。嘉村(礒多)、横光の二氏は少し身体の具合がよくないらしい。僕は先月はじめ、また、痰に血が混じていたが、その後は異状なく元気だ。この血ははなはだ曲者(くせもの)だが、その度に、はつとして静養し、うわつく気もちが静まるので、今では一種の恩寵のように感じている……。


 ○昭和八年十二月二十四日。嘉村礒多氏の死が、知人一同の心を暗くしている。三四日前、横光利一今日出海、永井竜男、佐野繁次郎の人々と「ルパン」で飲みながら、いろいろ話が出た。横光さんは、嘉村さんの横顔が薄気味悪かつたことをいう。よほどの片意地だつたらしく、案外な思い出話にいろいろ考えさせられた。今日出海が一番真相をつかんでいるらしい。横光氏は、日出海に、「君に会うと、大ていの人間が本音をさらけ出すのだ」といつたのをおもしろく思つた。(奥さんをなぐつたりしたこともしばしばだつたらしい。)嘉村というような人間こそほんとうに人を愛し人を憎めるのかもしれない。「嘉村と会つていると、この男一体何を見ているかしらんと不気味になる。黙つてこつちを、嘉村一流のやり方で観察したり判断したりしているに相違ないからな、」横光氏のことば。「人の前では我(が)を殺し切つていた人なんだね、」永井のことば。「みんな嘉村さんを知らないんだな、あの実にふてぶてしいところを……」日出海のことば。梶井基次郎との比較。もし死ななかつたらどつちがほんとうの仕事を残したか?等々。』


嘉村礒多・・・山口県出身の小説家。嘉村礒多 生家 帰郷庵に訪ねたことがありますが、きちんと整備された綺麗なお宅でした。ただ、その時はまだ作品を読んだことはなく、来歴を拝読し妻子を捨てて上京したくだりで、ええ~となり、わずか36歳で生涯を終えたのを読んで、ああーとなった記憶があります。

 

『○昭和九年二月十七日。~中略~ 横光さんが『春と修羅』という詩集をほめ、宮沢賢治についておもしろい話をきかせた。その他、ヴァレリーやドストイェフスキーの話が出て、かれこれ十一時ごろ「今文」を出、さらに「はせ川」へ行く。文芸春秋の立上君や木村庄三郎久保田万太郎氏などがいた……。豊島さんは死ぬことをちつとも嫌じやないといい、小林は、スキーや山での死の魅惑を語り、横光さんは黙つていた。横光さんが一番死に対して(他人の死病を見て来たばかりなので、)変な気がしているらしい。しきりに酒を飲んだ。……「はせ川」を十二時過ぎに出て、豊島、横光、小林の三人と「田川」へ行き、二字近くまで飲んで別れる。横光さんは、昔カントを読んだ時、感覚的なものをひしひしと覚え、小説を読んだといつてもいい気がしたといつた。哲学が小説なのではない。哲学でも小説でもない何か感覚的なものがあつて、それが哲学や小説の中に出て来る。あるいは、それを表現の中に感じるのだろう。けつきよく、詩が一番直接な表現だから、豊島さんのように、小説に対して疑問を持ち、詩が小説より上の段にあるような気がするのだろうが、僕は、あらゆる表現の「等値」を信じたい。


 ○昭和九年五月十八日。今朝、上野に行つて国宝展覧会を見る。……そこから大学に行き、三時からの横光さんの講演会と座談会に出た。終つて横光さんと資生堂に行き、笠原君と、文体社の某君とに会い、さらに「はせ川」で木村庄三郎と会つて、けつきよく十二時ごろまで話しこんだ。横光さんと、打ちとけて話したのははじめてだ……。横光さんは、はじめ講演の紹介者が辰野さんではなくて僕であると聞いて、これはいいと思つたが、いざ話し出して見ると、僕の存在が気になつて困つたという。座談会になつてからは、僕の方が困り出した。なんとも自分が割り切れない存在になつて来たのである。おもしろい関係だと思う。


 ○昭和九年五月二十一日。「ふつと子供の顔を見る。そういう時の気もちは、実にユーモラスなものだ。もし、こういうユーモラスなところがなかつたら、家庭生活などは地獄だと思う。二階でまるで憑かれたように仕事をしている。すると突然、下でパパ、パパと呼ぶ声が聞える。その瞬間にはつとする。緊張が破れる瞬間の気もちの落差が実にふしぎなものだ。」以上横光さんの話。
 「君は物を考えて、ある一つのひだにぶつかると、それをまわつて、けつきよくひだの裏側に出ようとする。それでは小説は書けない。つまり君はわかつてしまうのだ。しかし君には外面柔軟そうに見えて、妙に動かないところがある。だから何か書けるかもしれない。」同前。僕は通俗小説を(大衆小説ではない)書くつもりだといつた。真正面からわらわずにこれを受け入れて賛成してくれたのは横光さん一人だ。が、その真意はかならずしもはつきりのみこめない。「田川」で僕が酔つぱらつた時、「金が欲しい!」と叫んだのを聞いて以来、横光さんは僕をおもしろい(というよりは、そこに横光さんにとつての意想外がはつきりと出たのだと思うが)と思いはじめたという。僕は一方、自分がだんだん「機械人間(オム・マシーン)」になり得るのを感じながら、作品よりも作家の人間をおもしろく思うようになつて来つつある……。


 ○昭和九年八月三十日。僕の最初の評論集『懐疑と象徴』が小野松二君の世話でいよいよ最近に作品社から出る。横光さんが跋(ばつ)を書いてくれた。はじめは『象徴派覚書』という題のはずだつたが、少々弱いというので先月の「作品」の会の時、皆に相談したところ、河上徹太郎が『不安と象徴』というのを考えてくれた。それをまた少し変えたのだ。横光さんは、かげでいろいろとわれわれのために好意を示してくれるらしい。氏のデザンテレスマンを尊重して、われわれの方でも表立つた迷惑をかけないようにしていたが、今度は、小野君の示唆で、僕の方から頼むことにした。僕の書いたものの、もつとも親切な高級な読者としての横光さんへのわがままだ。嬉しかつた……。』

『○昭和九年十二月二十六日。~中略~横光氏は、一度、大ブルジョアになつた経験あり、また、寺の小僧になつたあこともあるという。また芥川に最も親近を感じながら、芥川のもとに走らず、菊池寛のところへ近づいたことを話す。どんな奴に会つてもおそろしいとは思わんが、菊池にはかなわんと思うと語る。最近の小説『盛装』の主人公は直木三十五の由。そのうち僕のことも一度書くという。小林、河上の世界と、一般文壇の世界との間には、大変な空白がある。そこを暴れまわれという。また、「通俗にして非俗」の問題をもつとはつきり書けという。僕も大いに元気をつけられて暴れまわりたきものと思う。「やはり文壇をうごかさなければだめだ、そうでないと文壇に動かされる結果になる。」これも一種の「能動的精神」だろう……。本日横光氏より『時計』を送る来る……。


 以上で、「昭和十年代」の前夜までの日記の抜き書きを終る。わたくしの日記は、けつして忠実でもなく、まめでもないが、その中にこれだけ横光利一のことが出ているのは、例外である。~中略~


 酒といえば、横光利一は、あまり酒をたしなまない方であつた。酒のみどもと一しよにいても、一杯二杯を傾ける程度であつたらしい。当時のなかまが、もとの出雲橋の「はせ川」に集まるようになつてから、少しずつ酒量がふえて来た。「はせ川」へ集る、といつても、誘いあわせて集つたわけではない。一人、二人なんとなくここへ集つて大一座になることが多かつたのであつた。そういえば、わたくしも、きまつた会合を別として、横光利一とあれほどあいながら、あらかじめ約束して落ちあつたことは、ほとんどなかつたと思う。だんだんに酒量が上つた横光利一は、とうとうお銚子一本をあけるくらいになつた。そして、夜、家にいる時も、ひとりで一本の独酌をこころみ、その経験を次のようなことばでわれわれにもらした。「酒というものは、飲めばやはり酔うようにできとりますなア。」これは、いかにも横光流で、しばらくの間は、話の種になつたものである。わたしくしは、このことばを、自分の耳で直接に聞いたように覚えているが、二十年の昔となると、そのへんの記憶は怪しくなつている。ただ、今でも、その語調が耳の中に残つているような気がするのである。
 横光利一にとつては、ひとりむすこというものが興味の種であつたのかもしれない。河上徹太郎もひとりむすこ、わたくしもひとりむすこであつた。そして、彼は、何かにつけて、わたくしの性格や行動を「ひとり坊ちやん」ということばで解釈したがつていたが、「ひとり坊ちやん」らしくないという結論が出ると、いくらか不服そうであつた。わたくしは、小説の主人公の性格を作り上げようとしている作家の心理をそこに感じた。
 わたくしは、横光利一、その他の年上の作家たちに甘えていたかもしれない。しかし、なんとしても疑えないのは、そういう人たちの心の温かさであつた。これは、大学というアカデミーの中のなかまたちの友情とはよほど性質のちがうものであつた。今考えてみると、ディレッタンティズムが全くなかつたことに気がつく。文章に対してはもちろん、人生に対しても、愛情に関しても、酒についてさえも、体当り主義であつた。体当りにもいろいろの程度があるが、それを認めあわなければ、友情もなにも成り立たなかつたように思う。論争ははげしかつた。酒をのんでもあまり論理をはずさずに、執念ぶかく口論をした。そういうのをカラミ酒と称し、時には全くやりきれなかつたが、青年時代の一時期には、しばらくそのカラミ合いから離れると、何かものたりない思いをしたこともたしかである。
 横光利一は、『紋章』の時代にはいつていた。年長の彼は、カラミ酒の修羅場を黙つて傍観し、時々短いことばを入れるのが常であつたが、おそらく、創作力が一ばんさかんな時であつたので、稀には、丸岡を泣かせるようなことにもなつたのである。』

 

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