ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

中島健蔵が語る「人間横光利一」3

 筑摩書房が出版した「新選 現代日本文学全集36 河盛好蔵 中島健蔵 中野好夫 臼井吉見集」から中島健蔵の「人間横光利一」を紹介しています。「人間横光利一」は、評論家であり横光と交流があった中島健蔵が当時書いた日記をまとめたものです。中島健蔵は、数少ない中原中也の葬式に参加した一人で、当時の事をまざまざと伝えています。以下、『』内の文章は左記の書籍からの引用となります。横光利一研究の一助になれば幸いです。

 


『○昭和十二年十月九日。夜、渡仏する今日出海の送別会。徳田秋声氏を主席に、七、八十人の文士が集まる……。徳田氏が妙にしみじみとして、今度帰つて来る時まで生きられるかどうかわからないという。一脈の凄然たる冷気が座に満ちる。秋声の老齢を今さらのように感じる。しかし一方、それにしても、作家は年齢をこえたものを持つていると感じる。集つている中には、初老どころか、ほんとうの老人もいるのに、われわれ壮年者と一緒にいて大して年齢の差を感じさせないような姿で立つている。散会後、今を囲んで、横光、永井竜男、大岡、佐藤正彰、阿部知二深田久弥等と「ジャポン」でビールを乾し、Kという人に誘われて一同新橋の待合へいく。騒ぎきれない気もちの中で、みな騒ぐ。横光氏、自分の洋行の経験を思い出して、いろいろ実験談をくりかえしていたが、そぐわず。船の中で、「パリの屋根の下」の唄が身にしみたというので、芸者に三味線で弾かせたりする。むりだ……。


 ○昭和十二年十月二十四日。中原(中也)の葬式に行く……。僕のすぐ前には諸井(三郎)の頭がある。隣は中村光夫だ。途中で、永井竜男、深田、小林夫妻、島木(健作)、青山二郎横光利一草野心平などがはいつて来る。焼香の仕方が千差万別だ……。横光、河上、青山、大岡などと「はせ川」へ寄る。大岡がひとりでしやべる。青山が、真面目な口調で中原についてきつぱりしたことをいう。遺稿の話が出る……。屋台店のトンカツをみなで食つて、横光、大岡と一緒に一足先に帰る。河上や青山の、取り残して怪しからなんというような変な笑顔が町角に見送つていた。


 ○昭和十二年十二月十七日。昨日夜「はせ川」へ寄つた。横光、河上がいた……。三好(達治)がはいつて来る。上海から帰つてはじめてだ。三好を中心に話を聞く……。横光氏は、『美人』という小説を書き、『風景論』を書くという。横光氏と別れてから、さらに三好、河上と話しつづけ、けつきよく浅草まで行つて夜明しで語る……。


 ○昭和十二年十二月二十二日。旧労農党の大検挙発表。検挙された者の書いた随筆、雑文(たとえば大森義太郎の映画時評にいたるまで)が、絶対に雑誌収載を禁じられる。人民戦線派と信じられる人物の書いた物に対しては、以後も絶対弾圧だという。明治以来最悪の弾圧が来た。英国の首相が東洋における権益擁護のためには実力によるほかないといつた由。とにかくわれわれは、日本はじまつて以来の危機に直面させられている。横光流にいえば、考えることが役に立たない時というのだろう。今、真剣に考えることは、河上流にいつて、驚くべき無償の行為かもしれない。原稿の筆を投じて、しばらく茫然とする。スペイン、地中海、東洋、南米と、それにソヴェートまで加えれば、ほとんど世界中が動乱だ。もはやわれわれは、どこへいつても当分平和は見出せないことになつた。
 次の昭和十三年のノートは、めちやめちやに消してある。しかし、相変らず、所々に、「はせ川」の集りのメモがある。~中略~』

『○昭和十三年三月十八日。用事のため文芸春秋社菊池寛に会う……。ちようど居合せた横光利一と一緒に散歩する。「浜作」で飯を食い、彼がフランスへいつている留守の話をする。意外なほど彼は事情を知らずにいる。文学界の一月号の論文を、別の表現で話す。やはり二・二六事件の影響がまるでわかつていないのだ。あれ以後の一般的な人道主義的「狐つき」と、そのあと始末とが、横光的ニヒリズムとつき合いながら、「はせ川」へいく……。


 ○昭和十三年三月二十二日。気もちが鬱して「はせ川」で酒を過ごす。文学界の座談会の帰りの横光、河上、林房雄来る。三木さんがヒューマニズム一点張りの強調したので思い通りのことがいえなかつたとこぼす。現在、愚劣に陥らない唯一の道は、この強調にあるのだが。この間の散歩の時と結びつけて、横光氏は、第三リアリズムの話を今日持ち出したかつたのだが、ヒューマニズムをいい出されてはその気もなくなつたという。その意味はこうだ。第三リアリズムというのは、横光氏の前の第四人称と同じことで、ちようど西南学派が認識論的主観を確立したように、小説的主観を立てることだ。他に依存しない主観、超個人的でニヒリスティックな主観だ。ニヒリストという限定さえなければ、こういう主観は小説には絶対に必要なものだが、そこに何か別の限定要素がないと、どうしてもニヒリズムに陥らざるを得ない。ヒューマニズムは、ニヒリズムを消す限定要素(あるいは原動力)だから、両者は絶対に相容れなかつたのだ。
 現在、「はせ川」のような所でぼそぼそとおこなわれている議論は、皮相なようで、一歩突込めば、すぐに根本的なところへぶつかる。その突込み方がわからなくなつてまごまごしているのだ。仮に横光さんを零(ぜろ)として、いろいろな人間の傾向を整理すると、だんだん様子がはつきりして来る。


 ○昭和十三年十二月二十七日。寄る、かねての打合せ通り、「はせ川」で三木、横光両氏と会見、三人でYの部屋を借りて談合。クサビの必要、その任務を僕に期待すること(横光氏)。今夜すぐにクサビの必要あり。
 以上で、わたくしのノートに出て来る横光利一関係の写しを終る。そのほか三四カ所に名が出ているが、大して意味がない。昭和十三年の終りの文は、どうもよくわからない。三木、横光、すでに逝き、たしかめるすべもない。そして、次の年あたりから、わたくしのメモはとびとびとなり、やがて大戦争がはじまつて、わたくしの生活もノートも以来しばらく空白になつているのである。
 このノートは、戦災ですべてを失つた中の残りものである。私的なメモであるから、公表をはばかるべきものだと思つたが、横光利一の部分だけ拾い読みして、むしろ、あまり手を加えない方が、当時の空気をつたえるためになにかの役に立つと思い、若干の解説をつけて写すことにした。このメモ意外にも記憶はある。しかし、今度は、わざとそれに触れないことにする。』


 中島健蔵の「人間横光利一」に書かれていた、中島自身と横光との面白いやり取りなどは全て中略しているため、是非、原文を読んでみて下さい。恐らく、皆様が抱いている横光像に新しい豊かなな色が加わると思います。