ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

伊藤整が語る室生犀星と萩原朔太郎

伊藤整の『我が文学生活VI』より「犀星と朔太郎の思い出」を下記の『』内にて引用しております。室生犀星萩原朔太郎、両名の研究の一助になれば幸いです。

 


犀星と朔太郎の思い出
 
 室生さんの葬式は三月二十九日であった。ちょうど武林無想庵氏の葬式と日が重なっていたが、告別式は室生家二時、武林家一時であった。私は無想庵氏に面識はないが、ある縁があって、そちらへ先に行くことにした。滞在中の永松君を誘って同行した。初めての武林家を郊外で捜してお参りをしてから青山へ着いたら、室生さんの葬式が終りに近く、個人個人の礼拝がはじまった所のようであった。二列に礼拝者が並んで、祭壇へ進む、その左側に一番奥に中野重治、その手前に窪川鶴次郎、佐多稲子氏等の「驢馬」系の人々が立ち、また円地文子さんの顔も見えた。私はその人々の前の左列を進み、礼拝を終ってから右手へ出て、朝子さんはじめ遺族席の人々に頭を下げて外へ出た。
 私は「驢馬」や「四季」などの人々ほど室生さんと親しくしたわけではないが、文壇の中では、百田宗治氏を通して、室生さんと割に縁があり、室生さんも私を多少のゆかりある人間と見ていてくれたと思う。室生さんの病が重いと聞いて、お見舞に行かなかったのは、個人的にお別れの気持でお見舞するには、縁が薄いと思ったからである。通夜には行きたかったが、都合がつかなかった。だから葬式に途中から加わったのでは、私の気持が足りないのである。それで私はこれを書く気になった。
 私が詩壇の一端にものを発表し出したのは、大正十五年に出た百田宗治氏の雑誌『椎の木』が初めてであるが、室生さんはその当時百田さんと親交があり、この雑誌の毎号の巻頭一頁は、室生さんの執筆にきまっていた。あるときは俳句、ある時は日記、感想のようなものを室生さんは書いた。私は丸山薫三好達治、乾直恵、阪本越郎等とともにその同人であったが、自然に室生さんを、直系先輩の一人と感じていた。
 その前にアルス版の赤い絹表紙の『室生犀星詩集』が萩原朔太郎の『青猫』とともに私の愛読書の一冊であったこと、『毒草苑』等の小説集を読んでいたこと等の経験の上に、のことである。
 昭和四年か五年に私はある日百田さんに連れられて、大森馬込谷中の室生家を訪れた。年譜によると、室生さんがこの家に金沢から越して来たのは、昭和三年の十二月である。だから、それより早くはない。しかしお嬢さんの朝子さんはそのとき学校へまだ行かない幼なさに見えた。しかし年譜で見ると、朝子さんは昭和四年に数え年八歳である。その席に萩原朔太郎氏がいた。萩原さんに逢うのは、たしか二度目だと思う。このときを昭和四年とすれば、数え年で百田さんが三十七、室生さんが四十一、萩原さんが四十四歳で、私は二十五歳である。私は詩をやめ、同人雑誌に小説を書き出した年に当る。その当時、かつての『民衆詩人』百田宗治は、『椎の木』の頃から完全に日本趣味の人となり、俳句と庭に凝っている室生犀星の影響であった。百田さんは後輩には親切な人だったが、詩境が不安定で、小さな出版業のようなことをしていた。萩原さんは第一書房から豪華な全詩集を出し、その主要な業績が動かしがたいものとなった時期に当る。
 そこは大森の駅からオイセ山を越えて、慈眼山隣の今の室生家へ行く途中の下り坂の左の崖下、溝川に沿った家である。六畳と思われる木の枝の繁りの下の暗い座敷で、昼になり、三人に膳で食事が出された。萩原さんはスコッチのようなくたびれた洋服で胡座をかき、前かがみになって食事をした。百田さんは和服できちんと膝を折り、茶碗を胸に持ち上げて、形よく食事をした。私は両者の中間だったろう。萩原さんは飯つぶを子供のようにこぼした。飯粒はその膝から畳にまで散らばった。
 すると一緒に食事をしていた室生さんが言った。
 「萩原はいつまで経っても子供同様じゃ。百田はさすが俳人だけのことがある」
 萩原さんには私はこの前後にもう一度逢っている。それは中野桃園町の百田さんの家の二階の六畳の書斎であった。そのときは多分萩原さんの原稿が『椎の木』又はそのあとに百田さんが出した『尺牘(しゃくとく)』か『苑』に載る詩のことである。あるいは、『椎の木』がなくなってから、百田さんの家即ち椎の木社から出ることになった萩原さんの個人雑誌『生理』だったかも知れない。とすると昭和八年のことになるが、私の記憶は昭和四五年のことである。

 その原稿の中に「詩の技術」とか「技巧」とかいう字があって、それが「技術」か「技巧」即ち』「枝」という字になっていた。一ヵ所のみでなく、二三ヶ所がそうなっていた。百田さんが「萩原もいい加減な字を書くことがあってね」と言ってその話をしていたところへ萩原さんがやって来たのである。そして百田さんがそのことを言って萩原さんにその原稿を見せると、萩原さんは、読んで、胡座をかいた膝の上で、ちょっと困ったような顔をした。この顔はたしかであった。そのあとで萩原さんは言った。
 「枝という字も技という字ももとは同じものなんだ。どっちだって構わないんだ」
 その言い方は、特有の口の中にごもごもと籠るたどたどしい言葉だった。萩原さんは不注意で書いたのは確からしいかった。聞いていて私は、なるほど、萩原さんの言い方が漢字の原型論として正確でないとしても、考え方として、枝であろうが技であろうが大差はない、と思った。字そのものは末節である、という一種のさとりの近くまで行くことができた。私は黙っていた。百田さんも黙っていた。
 私はこの食事の場面と、「技術」の「枝」の字の場面のどっちが先であるかを思い出すことができない。しかし受けた印象は同様のものだった。『青猫』の詩人が飯をぼろぼろこぼしながら食べることは構わない、と思ったのである。私は百田さんが好きだった。通常人で、分りがよく、親切でもあった。しかし私は『月に吠える』『青猫』の著者を本質的な意味で尊重していた。芸術家を「尊敬」するというのは、私の感じでは、正当な扱い方でない。芯の芸術家は人に軽蔑、嫌悪されることがあり得ると私は思っている。私はどの芸術家にしろ、尊敬するということはしたくない。私は萩原さんも「尊重」──「貴重視」していたから、飯をこぼすことぐらい当然に見えた。
 室生さんの言い方もまた、その感じがあった。第一次の友人である萩原さんを、第二次の友人である百田さんの前で恥しめるというものではなかった。この詩人はいくつになっても仕様のない男だ、という気配がそこにあった。
 前の号に書き落したが、室生家での食事がすみ雑談が続いているうちに、百田さんと萩原さんが言い争いになった。室生さんはだまっていたように思う。この三人の間で、一番兄貴らしく振舞っていたのは、家の主人ということを別にしても室生さんであった。百田、萩原二人の言い争いの、きっかけは分らなかった。室生さんは「我が愛する詩人の伝記」というのを、萩原、百田二家が亡くなってから後に『婦人公論』に連載したが、その中で百田さんは鋭い批判家で、どんな美人にも難癖をつけるようなところがあった、と書いているが、それは適評であった。百田さんは溺れるということのない人であり、自分を棄てるということもなく、それがつまり詩人としての弱点でもあったようだ。百田さんは話が上手で、人見知りすることなく誰とでも交際したが、決して人に譲らなかった。そして人に譲るまいとすることで敏感だった。
 萩原さんが低い声で何か言っていたようだったが、突然百田さんが、声を高くして言った。
 「そりゃ萩原君はもう事を為した人だ。僕はこれを否定しようというのじゃない」
 そのあとの言葉、またその前の言葉はもう忘れた。この言葉も大体からいう意味であったが、正確とは言い切れない。私がその意味をはっきり覚えているのは、前号に書いたこと、即ち昭和四、五年の萩原朔太郎は詩人仲間で決定的な仕事をしたと見られていたこと、それに対して百田さんの詩境涯の不安定さからの反撃がそこに漂ったからであった。この場面の一年前、昭和三年に第一書房から萩原さんの全詩集が出て、それには初期のものから、後期の代表作「大渡橋」までが入っていて、立派な本だった。
 私はそこにいたたまらないような気持がした。萩原さんはよく聞きとれぬ声で何か口の中で言い、室生さんは沈黙した。室生さんは小説家として生きていたから、この二人の言い合いから立ちのくこともできたし、またその座の主であった。もう一度書くが、このとき萩原四十四歳、室生四十一歳、百田三十七歳である。百田さんは頭の切りかえの早い人であるから、この場合も言葉が鋭くなったのは一瞬のことで、間もなくふだんの調子に戻った。若い文士が先輩に初めて逢った場面はよく覚えているものである。

 室生さんは、そういう空気の漂ったあとであったせいか、戯談を言った。室生夫人はその頃元気で、大柄な太った、よく笑う人だった。小柄な室生さんよりも多分一寸か二寸は大きかったろう。その奥さんが茶を持って室へ入り、出て行ったとき、わたしはあの大木にとまる蝉のようなものじゃ、という言い方をした。また、この頃は堀辰雄が作家として世に出て間もない頃だった。掘君の「不器用な天使」が『文芸春秋』に載ったのは、昭和三年で、彼はまだ東大に籍があった。私たちのジェネレーションで一番早くそういう雑誌に書いたのは掘君だった。
 室生さんは堀君のことを弟子のように、愛情をこめて語った。少し前に堀辰雄がやって来て、夜になったか雨が降ったかしたので、自動車をたのんでやった、という話であった。そのときの堀辰雄が恐縮もせずに乗ったことを、「あれはそのとき黙って乗って行ったが、そういう所まで堀も来たんじゃ」というような言い方をした。彼はものになったし、なったことを本人も心得ている、というような言い方であった。
 またそのとき室生さんは、牧野信一と言い争ったことを言った。牧野信一は室生さんより四、五年の後輩になるであろうか。この当時は牧野さんはやっぱり大森にいて、言わば不遇な状態にあり、しかしあの傑作「鬼涙村」の一連の作品を書く直前にあったのだと思う。そして牧野さんは酒の上の激しい人だったようだ。室生さんも酒は愛したし、百田さんの話によると、銀座あたりではよく飲んでいたらしいが、しかし家庭を飲酒の巷とはっきり区別して、庭を愛し、陶器を愛し、家庭での静かに澄んだ気分を乱されたくない人だった。そのちがいが分るような話である。
 牧野さんが室生さんの家へ酔って来て、酔った勢いで何かものを言った。そのとき、
 「わたしは、牧野信一輩とはつき合わんと言って、彼を突き出してやった」と室生さんが言った。
 萩原さんは、詩でもエッセイでも大変鋭い人であるが、その鋭さは現実の生活と歯車が合わず、日常生活では言葉もはっきりせぬ、間の抜けたような人だった。この人は自分の感性を文章の中でだけ生かしていた人であった。しかし、室生家でこの人を見た頃、私はそのことがよく分っていなかった。
 私はその頃もう詩を書くことをやめかけていたけれども、そして私とほぼ同時代の「詩と詩論」系の若い詩人たちはダダイスムやシュル・レアリスムの詩を紹介し、詩の書き方もそれ等を追い、『詩と詩論』の代表者だった春山行夫北川冬彦君たちは、萩原さん的なものを越えることを目標にしているのを知っていた。私はその人たちと交際があったけれども、萩原さんが近代日本の最大の詩人であるという考を棄てなかった。
 百田さんの話によると、萩原さなんは室生さんの所で私の詩集(この時の二年ほど前のもの)をぱらぱらとめくって、「あ、これは僕の影響がある」と言ったそうである。
 私は萩原さんに個人的には近づかなかった。あんな偉い人のそばでは、自分を生かせるものでない、と私は思っていた。
 この室生家の場面から一年ほどして、私は新宿の四谷三丁目、大宗寺の前のあたりを、あるときステッキをついて歩いていた。向うから萩原さんが来て、しばらく立話をした。萩原さんは、
 「東京もステッキを突いて歩けるようなところはなくなったね」と言った。
 皮肉でも何でもなく、むしろ話題に困ってのにぶい言い方だった。私は自分がステッキを使いこなせないのでなく、なるほど、そういう町がないのだな、と気がついた。そして私は萩原さんと別れた。そういう年代では街上でその人に逢うということすらが事件であった。』