ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

伊藤整が語る小林多喜二と本庄陸男

 昭和38年12月26、27日付けの「北海道新聞」に掲載された、伊藤整の「小林多喜二と本庄陸男」との思い出を以下の『』内にて引用しております。伊藤整は目黒にある日本近代文学館の設立、運営に携わり、チャタレイ裁判について世間の耳目を大いに集めていましたが、北海道出身でありながら、小林多喜二を始めとする北海道文学者との交流についてはあまり着目されることがありませんでした。ここでは北海道文学ならびに、小林と本庄の研究の一助になれば幸いです。

 


小林多喜二と本庄陸男の記念碑が、それぞれ小樽と石狩当別というゆかりの地に建つことになって、計画が進行中である。私もその両方の計画の発起人に加わった。小林多喜二の死んだのは昭和八年(一九三三年)のことであるから、年があけると三十年を経過したことになる。本庄陸男はそれから六年後の昭和十四年になくなった。また北海道出身の文士では、詩人小熊秀雄がその翌年になくなっている。
 この三人はいずれもいわゆる左派、プロレタリア文学系統の人々であって、近代日本の文学史上、それぞれに重要な存在であるが、私は個人として小林、本庄の二人と交渉があり、小熊とはほとんど関係がなかった。
 私自身はプロレタリア文学の流派に属さなかったから、小林、本庄の二人とも特に深い交際があったわけではない。しかし、同年配で、同じ時代の同郷の文士であったから、いろいろな記憶が残っている。
 以前に書いたことの繰り返しになるが、私が小樽中学(いまの潮陵高校)をへて小樽高商へはいったのは大正十四年である。小林多喜二はその前年に小樽商業(いまの緑陵高校)をへて高商にはいっていた。私は数え年で十八歳、小林は二十歳であった。
 小林は私が通った小樽中学の坂の下の寺の真向かいにあった親せきの小林製パン工場兼菓子屋に住んでいたから、私は中学時代から彼を見知っていた。彼は『文章倶楽部』『中央文学』などという雑誌の投書家であり、私も投書したから名前を知っていた。高商にはいると話し合うようになった。一緒にフランス語の劇にも加わった。
大正十三年に小林は卒業して拓殖銀行にはいった。翌年、私は市立小樽中学の教師になった。妙見川と花園町大通の東南のかどに「越路」という用品屋があり、その二階が喫茶店であった。そこで私はよく彼にあった。両方とも文学青年であったから話はよく通じたが、在学中から彼は左翼的な立ち場にあり、私はそうでなかったから、あまり親しくはならなかった。
 彼はそのころから熱心に小説を書いていて、昭和三年三月の共産主義者の大検挙事件の当時、小樽で起こったことを書いた小説「一九二八年三月十五日」をその年の暮れに『戦旗』に書き、翌年は「蟹工船」を書いた。
この二作によって彼は、プロレタリア文学の流派で最も高く評価される新作家になった。昭和初年はプロレタリア文学が最も高潮していた時である。大正期以来の日本文学はこの新しい流派に取って替わられるという趣すらあった。当時この派には、葉山嘉樹、徳永直、武田麟太郎中野重治平林たい子窪川いね子というような有力な新人がいたが、そのなかでも作家として最も才能ある一人と見られていた。
 だから、彼が昭和五年に上京すると、間もなくその派の作家同盟の書記長に押された。その当時の彼の立ち場は大変困難なものであった。
 プロレタリア文学の思想問題、絶えず変化するその政治的立ち場、「文芸戦線」派と「戦旗」派の対立、創作上の指導理論の争い、さらにそのなかでの分裂という複雑な事情が当時のプロレタリア文学のなかにあった。しかも作家たちは執筆のかたわら警察の目をくぐりながら政治運動を行なっていた。ずいぶん激しい活動が上京して以後の小林に続いていたようである。

 私は昭和三年から上京していたが、昭和五年ごろ、偶然、高円寺の喫茶店で、当時彼とコンビで『戦旗』の仕事をしていた画家大月源二と彼が一緒にいるのにあった。彼はなかなか元気で、その日色々なことを話した。文学論めいたこともいい、自信に満ちていた。
 大正十年ころから昭和初年にかけての小樽と札幌には、いろいろな文学上の芽ばえがあり、小林多喜二の加わっていた『クラルテ』とか『北方文芸』のほかに、私が友人と出した『青空』とか『信天翁』という雑誌もあり、文学上の先輩も多かった。古い人では織田観螢、遠藤勝一、歌人としての大熊信行、並木凡平、山下秀之助その他多くの人がいた。まだものは書かなかったが当時札幌に島木健作もいたのであり、また後には書くことをやめたが、武田選とか平沢哲夫なども才能のある人々であった。
 そういう文学的風土のなかから小林多喜二が出て小説家になったのである。彼をただプロレタリア文学の作家として扱うことは必ずしも彼の全体を語ることにならない。たまたま彼がそういう思想の線でその文学的才能を伸ばしたのだ、と私としては考えたいのである。
 文学史の上には、いろいろな政治的立ち場をもった文士がある。西洋では「ガリヴァーの旅」を書いたスウィフトや「神曲」を書いたダンテなど、いずれも政治上の主義主張をもって文学を戦いの具とした戦闘的な文士であった。だが時がたって、彼らの政治的立ち場の意味は失われ、作品のみが純粋なものとして残ったのである、だれが今日「ガリヴァーの旅」や「神曲」を政治文学だと言うであろうか?
 私は必ずしも日本の近代のプロレタリア文学の本来の意味を否定しようとするのではないが、時の経過とともに、その主題主張よりも作品の純粋な文学的勝ちが、作家たちの位置をきめるようになることは争われない。
 いま、小樽に小林多喜二の碑が建ち、当別町に本庄陸男の碑が建つというときに当たって、私は、本紙の読者のなかには、必ずしもこの二人の作家の思想的立ち場にくみしない人があることを知っている。私はこれを憂うるという訳ではないが思想的立ち場において全く違っている私自身がこのささやかな建碑運動を支持することの理由を、公的な意味と史的な意味とにおいてここに述べたのである。
 私は文芸の畑では理屈屋をもって目されている人間なので、実はここに書いた以上に、小林や本庄の文学についての支持の理論を持っている。文学というものの本質とか、その正義を追求する性格とか、当時の特殊な日本の社会の条件とかいうことについてであるが、それは一般の読者にはわかりにくいことでもあり、誤解のもとともなるであろうから、ここには省略する。
 ~中略~
 多喜二のことを書きすぎて、本庄君のことがあとまわしになったが、本庄君についても事情は同様である。本庄君もその系統から言えばプロレタリア文学系の人である。彼は当別に生まれ、北見で育ち、カラフトにも住み、上京して青山師範学校にはいり、教員をしながら小説を書きはじめた。昭和十年ごろ、左派の文学運動が弾圧によって終わってから、私は偶然彼と同じ町内に住み、行き来するようになった。
 私は彼と同年の生まれであり、同じ北海道出身者であるから、旧知の人のように親しくなった。静かなもの言いの人で、考え方が清潔であり、ユーモアもあり、実に好ましい人であった。昭和十四年に胸をわずらってなくなったが、その直前に完成した「石狩川」は、彼の郷里当別を中心とする開拓当時の移住者の苦闘を描いた長篇である。これは彼の予定した大半の前半であるらしく、その続編を彼は予定していたのだが、ついにそれを書くことができずに終わった。~中略~
 本庄君の場合は、その代表作が当別町そのものの成立史なのであるから、いっそう当別町にとっては縁が深いといわなければならない。彼は死ぬ前、半年ぐらいまで、執筆にあきると、四、五丁離れた私の家へゆっくり歩いてたずねて来る習慣があった。何も用はないのだが、私のへやにはいり、柱にもたれて静かに雑談をした。それはあたかも、同じなまりの言葉で、同郷、同年の文士なる私と雑談することを楽しみとしているかのようであった。』